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「生きることを許されたい」と思って寄付をはじめた話

さて今日は何を書こうかな〜〜〜と思っていたところ、

大好きなおつきみ先生のnoteを読んで「わかる〜!」となり、今日は私も寄付(募金)について書こうと思う。


結論から言うと、私は2年ほど前から毎月自動引き落としでとあるNGO団体に寄付をしている。海外の難民支援の寄付先だ。

きっかけは、脳みそが全然働いていない深夜にぽけ〜〜っとテレビをつけていたら、こちらの団体の紹介VTRが流れてきた。そしてスマホを片手に、救いを求めるようにものの数分で寄付申し込みボタンをタップしていた。寄付する側が、寄付に救いを求めるというのはヘンな話だが、事実そうだった。

ちなみに、私は数年前まで2-300万ほどの借金を抱えていたのだが(その話もいつかnoteに……!笑)その頃はもちろん、いっさい「投資」「寄付」など頭になかった。だって元となる、余剰のお金がいっさいなかったんだもの。なんとか生活を立て直し、徐々に貯金や投資にまわせるお金が月いくらか発生するなかで開けた「自分のお金を誰かのために使う(使ってもらう)」という選択肢。


HSPあるあるなのか、私の個人的な性格なのか、私には自分の出生に関して深く考え込んでしまう2つのトピックスがあった。

①私の人生は「出身地ガチャ」に当たっただけ
②その割に自分の恵まれた環境を生かしきれていない実情へのストレス

この2つ。

Yahoo!ニュースなどで、異国の"当たり前"とされる古い風習とそれによる理不尽な生活、そして性被害のニュースを見るたびに苦しくなる。当人たちが選べなかった環境によって勝手に生まれる格差や理不尽に真正面から向き合うと、どうしていいかわからなくなる。

たまたまその国に・その土地に・その階級に・その親のもとに・その性で生まれただけで不自由な生活をしている同年代や子どもたちを見ると「あの子は私でもおかしくなかった」と感じる。

なにかのタイミングや歯車が1つ掛け違えただけで、ニュースで報道されている被害者や、学校に行かずゴミ山を漁る幼いあの子は、私だったかもしれない、と。自分がいま不自由なく、好きなことを自ら選択して生きているこの状態はあくまで「ガチャ」の結果であって、どっちがどっちの人生を歩むかは完全ランダムな確率のはず。じゃあ、他の誰かが立っていてもおかしくなかった「この人生」がたまたま割り振られた私は、何を為すべきなんだろう。

一方で「今世は恵まれた環境が割り振られた」という自覚をもったとたん、なにか大義を成さねばいけない感情も芽生える。好きな学問を学び、好きな職に就けるのにどうして私はぐずぐずと暮らしているんだとか「今世を120%使い倒さないといけない使命感」とプレッシャーでHPがゴリゴリとすり減っていく。恵まれた環境に無理やり自分で「不自由さ」を見つけて、悩み、立ち止まっている自分のことを「贅沢なヤツだ」と嫌いになる。


だからこそ私は「自己満でいいから自分の"幸運"を何らかのかたちで、求めているひとに贈りたい」「それによって自分の抱える罪悪感や情けなさから少しでも解放されたい」と思うようになったのだ。

そしてそれを、今は「寄付(募金)」という手段を選ぶことで、私自身をも救ってもらっている。自分では有効に使えなかったはずの資金を、本当に欲する誰かの人生に役立ててもらうことで、私がこの人生をこのペースのまま歩んでいい理由がほしい。そんなことをB面で考えている。


でも寄付ってむずかしい。
ここまで書いたように、相手のことより自分が救われたいに比重を置いた時点で「偽善」といわれても論破できないし!
結局は自分の元金も限りあるものだから「ここ(団体)でいいのか」「ここだけでいいのか」という考えには終わりがない。海外の子どもたちに目を向ける前に、同じ日本にも助けを求めている人はたくさんいるよといわれたら「ほんとにそう」としかいえない。犬が大好きだから、そういった寄付にも自分ができる範囲で協力したい。


でもやっぱり、おつきみちゃんのいうとおり「幸せなお金の使い方」なのは間違いないと感じる。私が今月使ったどんな出費(浪費)より、意味のある出費だもの。


今日はすこし固くて難しくて、なにより私の抱える強迫観念のようなものを吐露するnoteになっちゃって恥ずかしいのだけど「寄付」は、する側も救われるってことが言いたかった。もっとお仕事がんばって、もっと困ってるひとたちへ貢献できる自分になりたいな!




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