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15. 唯と阿と相い去ること幾何ぞ(いとあとあいさることいくばぞ)

本質を得るためには孤独を恐れず


この章で老子は「学ぶことをやめれば思い煩うことなどない」とショッキングなことを言っています。

他の章でも老子は、「学ぶことをやめよ、そうでないと色々悩みが増えるばかりだ」と何度か言っているのですが、これがどうしても世俗に対するアンチ的な意味合いに思われ、ひたすら孤独に耐えている老子の様子がわかります。

そして「皆がキラキラして見える」とか「自分は引きこもってウジウジして、ちっぽけな人間だな」みたいなことをつぶやいている老子の姿は、これまでの崇高なイメージとは違います。

そしてこのテーマの「唯(い)」「阿(あ)」は「アウト」と「イン」または「積極的」と「受け身」のような対比としての表現で使われています。

老子はそれについて「唯でも阿でもどっちでも良いじゃないか」「だから何なんだ」みたいな形でアンチ的に世俗を批判しているように思えます。

特に見た目の良いものばかりに刺激を受けたりする人々に、「その裏側には綺麗じゃないものが必ずあるのに、人はどうしてそれを見ようとしないんだ、そしてそれが正しいと思ていたら大変な目に遭うよ」と老子は強く思っているのです。

しかしそのような世俗とかけ離れた思想により、理解者がおらず孤独にさいなまれる老子の姿が思い浮かびます。

これは個人的にはかなり勇気をもらいました。これだけの偉人ですら、孤独を感じていたんだと、凡人の自分は思うわけです。

しかし良く考えたら、やはり偉人は孤独になってしまって当たり前なんだと思います。世俗の価値観に満足しているなら、それは一般人であって、偉人ではないでしょう。

そして老子のような偉人にはなれないにしろ、本質を得たいと思ったら、ある程度は世間一般とはかけ離れていくこともあるかもしれません。

しかし、世俗に流されるのか、本質的に生きるのか、どちらが大切でしょうか?

そしてもう一つ、この章では老子は自分を下げて表現しています。しかし別の章で、「下の者こそ上」だと言っていて、下に置いた自分が実は上にいる人間なんだと、老子の自己顕示を垣間見ることができるのでした。

この章は老子の人間臭さが垣間見える珍しい章であり、また完璧な人間などいない事も学べる章でした。








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