ずぶ濡れの天才たちへ
いよいよ梅雨が始まった。
こうやって記録に残せるのは良い。
季節は変わり始めこそワクワクしたり、切なくなったりするものの、結局気づけば"為っている"事が多いので、なんだか刹那にしおりを挟んだようで良い。
雨の日は好きな日と嫌いな日がある。
もっと言えば好きな雨と嫌いな雨がある。
勿論それは、phとか温度といった雨そのものではなく、シュチュエーション。
予定の無い昼過ぎ、起き抜けの雨なんかは好きだったりするし
一人の帰り道、駅前の雨は何となく嫌い
しかし、気圧の関係もあるのかこの時期は気持ちが落ち込みやすい事の方が多い。
少し待てば嘘のように、スコーンッとぬける様な暑さと青空で何を悩んでいたのかすら思い出せなくなったりすることもあるのだが。
ここ最近の情勢に、更に季節まで梅雨入りして私同様、沈みがちな人も多いのではないかと、押しつけがましく推測する。
大人は大変だ。
泣き叫んだところで、誰もあやしてくれない事の方が圧倒的に多いし、それこそ雨が降ったところで、じゃのめでお迎えに来てくれる事も無い。
それなのに、目の前でドアを閉める電車や、偉そうな口ぶり、落としてしまった卵、笑えない冗談、口内炎、足りない充電、かかとばかり脱げるスニーカーソックス、間の悪い電話、些細な事に突然爆発してしまいそうなぐらい嫌になる。
そんな時、自分の中の幼児性にビンタしては、また自分を泣かせるのである。
悲しみの雨にびしょびしょになった自分に辟易する。
最早、セルフネグレクト。
人は欲深い生き物である。
それは時として、理想や夢などと美化されるが、結局のところ、それも広義に解釈すれば欲求の一つである。
殆どの人が、自分に対して「もっと」と思って生きている。
仕事やダイエット、資格や趣味だけでなく、日常生活の隅々に至るまで。
理想の自分を目指して日夜戦っている。
しかし、それらが強制的脱自分になっていないだろうか。
少しサボってしまったり、何かミスをしてしまった時に「こんな自分ではいけない。」という気持ちばかりが先行し過ぎてはいないだろうか。
人にされて嫌な事はしない
とはよく言うが、時として
人に強要しない事は自分にもしない
というのも必要なのではないかと思う。
衣食住のみならず外的コミュニケーションにも気を配り、公共料金や税金を払い、更には世の事にも憂慮したりしながら、生活というものを築き上げている。
それだけでも天才的なのに、更に自分を向上させないといけないなんて。
そしてこの雨である。
いつか止む事などは分かっている。
大事なのはどうやって傘をさすか、少しの間でも雨宿りできるか。
この先に良い事が待っているなんて誰にも保証は出来ない。
だからせめて今、びしょ濡れで泣いている自分を暖かなタオルでくるんでやっても良いのではないだろうか。
君も私もえらい。
雨に濡れるのは怖くない。
怖いのは自分を許さず、いつまでもずっと雨の中にいる事。
例え今はこの傘を受けとら無くても。
せめて土砂降りの中でもいつか歌えるように。
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