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『猫を棄てる』を読んで、コーラ瓶に集めたコインを憶う

「家系図、作りたいんだけど」
そう書いて送ったショートメールの一文に、父はなんの反応も示さず、同時に伝えた別の用件にだけ返信をしてきた。

スルーしやがったな、と舌打ちする私。
生まれを辿ることは、彼の傷に触れることなのだろうか。そんなこともいまだによくわからないままだ。
単に、「家系図」という突拍子もない単語がでてくる意味がわからず、返事のしようがなかったのかもしれない。ちなみに「家系図案」は、私が最近感じていた自分の人生に対する言いようのない不安感からきたものだった。どこか根っこのようなものが欲しいと思った。私は、血の繋がった父方の祖母、母方の祖父のことをほとんど知らないのだ。

父の実母(私にとっては血の繋がった祖母)は、産後の肥立ちが悪く、父を産んでまもなく亡くなったのだということ、父はその後、亡き母の実家で小学校を卒業するまで育ったのだということを、何かの話の折に聞いた。
父が母親の里家で暮らしている間に祖父は再婚し、父の新しい母(つまり私が知っている祖母)との間に二人の子どもが生まれた。父には兄が一人いた。つまり、四人兄弟のうち父だけが、そこそこ長い間、家族と離れて暮らしていたということだ。私が知っているのはそこまでで、なぜそんなに長い間両親や兄弟たちと別れて暮らしていたのか、詳しい事情は知らない。その話への深入りを避けたのは、子どもながら無意識に、片隅でひっそりと呼吸している傷の存在を感じ取っていたからだろう。自分の生が、そのまま親の死と直結しているという事実を前にした時、自分ならそれをどう受け止めるのかを想像し、途方に暮れ、私はその傷から視線を逸らし続けるしかなかった。

『猫を棄てる 父親について語るとき』は、村上春樹さんが父との思い出を辿りながら紡いだナラティブストーリーだ。
この回想の物語は、棄てた猫が帰ってくる話で始まり、棄てなかった猫が帰ってこない話で終わる。

私にとっての帰ってきた猫のストーリーは、コーラの瓶に詰まったコインだ。瓶入りジュースがメジャーだった当時、大きなサイズのコーラ瓶に、私たち家族は小銭を貯めていた。
「たくさん貯まったら、どこか旅行に行こう」なんて話をしていたような気がする。父、兄、そして私は、時々そのコインを瓶から出しては数え、母はそれを微笑ましく眺め、いくら貯まったかを確認しては、私たちはそれを満足気に瓶に戻す、という行動を定期的に行なっていた。いわば儀式だ。
コーラ瓶に詰まったコインは、大げさにいえば希望だった。
その希望は、結局何に使われたのか憶えていない。

一方、我が家にとってお金は傷の象徴でもあった。
父はよく借金をしては母と喧嘩していた。お金を借りるため、借りているのを隠すため、家族の怒りを鎮めるためにたくさん嘘をついた。
父の嘘はすぐにばれる。嘘をつくのが最高に下手なのだ。

母は借金の尻拭いに疲弊し、私が大人になるとその害はこちらにも回ってくるようになった。お金で心の欠乏を埋める、なんてありきたりの文句で人の心がわかるはずがない。けれど、私はどこかで父の傷がそうさせているのだと思い、そしてそれを無視し続けた。大人の傷なんて子どもには関係ない、距離さえとっておけば済むことなのだと思いながら。

『猫を棄てる』は、そんな私の気持ちを揺さぶった。

人には、おそらく誰にも多かれ少なかれ、忘れることのできない、そしてその実態を言葉ではうまく人に伝えることのできない重い体験があり、それを十全に語りきることのできないまま生きて、そして死んでいくものなのだろう。『猫を棄てる 父親について語るとき』p.33

無傷で人生を終えることなんて、誰にとっても不可能だ。
大なり小なり誰もが傷を抱いて生きている。
傷の形もさまざまなだ。
ぱっと見て目を覆いたくなるようなひどい傷もあれば、見えない場所にひっそりとある傷、それとわからないのに何故か痛む傷、あるいは何かの拍子に突然現れて騒ぐあぶり出し絵のような傷もある。
そもそも、生まれてきたことそのものが傷なのだ。生まれてくることそのものが苦しみであると、釈迦が説いているように。

おそらく「戻らなかった猫」とは、受け継がれることを待っている「傷」なのだ。誰のなかにも、帰ってきた猫もいれば、枝の上に登ったまま戻らなかった猫もいる。そして戻らなかった猫がいること、それを誰かが共有してくれること、受け継いでくれること、戻ってきた猫のようにその傷を癒してくれることをそっと願っている。
日々の淡々とした暮らしのなかで。時に激しく、時に静寂のうちに。

親に「捨てられる」という一時的な体験がどのような心の傷を子供にもたらすものなのか、具体的に感情的に理解することはできない。ただ頭で「こういうものだろう」と想像するしかない。しかしその種の記憶はおそらく目に見えぬ傷跡となって、その深さや形状を変えながらも、死ぬまでつきまとうのではないだろうか? 同書、p.32

私の父も、「捨てられた子」だった。
そしてきっと、父のもとからいなくなった猫は、まだ帰ってきていないのだ。コーラ瓶のコインだけでは、それはチャラにはならない。

何かを伝え合うには少し不器用な親と不器用な娘は、今でも傷をうまく受け渡し受け継ぐこともできないでいる。
疎遠になっていた父親と再びゆっくりと言葉を交わした時、春樹さんは60近くになっていたと書かれてある。
私たち親子もいつの間にかずいぶんと年をとってしまった。

我々は、広大な大地に向けて降る膨大な数の雨粒の、名もなき一滴に過ぎない。固有ではあるけれど、交換可能な一滴だ。しかしその一滴の雨水には、一滴の雨水なりの思いがある。一滴の雨水の歴史があり、それを受け継いでいくという一滴の雨水の責務がある。我々はそれを忘れてはならないだろう。たとえそれがどこかにあっさりと吸い込まれ、個体としての輪郭を失い、集合的な何かに置き換えられて消えていくのだとしても。いや、むしろこう言うべきなのだろう。それが集合的な何かに置き換えられていくからこそ、と。 同書、pp.96-97(筆者による傍点は太字に変更して記載)

親子は、命とともに傷を受け継ぐ。
それは偶然であり、運命だ。
親子に生まれた偶然と、その傷を受け継ぐ運命だ。
春樹さんが一滴の雨水としてその運命を受け入れたように、私もまた運命を受け入れなければと思った。

家から巣立った私は、父にとって、もう一匹の出て行った猫だ。
出て行ってからなかなか家に寄りつかない。けれども、こっちの猫は時々帰ってはくるなと思うことできるなら、父の「捨てられた」という傷は、やがて大きな海に同化した一滴となり、悲しみのうちにその場所に訪れた人々の、慰めのひとつになったりもするのだろうか。

言っておくが、私はなかなかのお父ちゃん子だった。花札や麻雀といった、ちょっと悪い感じのする遊びを教えてもらった。たぶん一度も怒られたことがない。一本10円で白髪抜きのバイトを依頼されると、嬉しくて夢中で探した。毛づくろいをする猿の親子のように。
もらった100円で、わたしは跳ねるように駄菓子屋さんへ駆ける。たしかに、コインは希望の猫だった。嫌なことばかりじゃない。私は父を捨てないし、誰だって本当は父を捨てていない。色々な事情があったのだ。

今度家に帰ったらもう一度、
「家系図作ろう!」と言おうと思う。



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