見出し画像

伴奏

この記事から派生した、吹奏楽部 に続く中学生時代の話第二弾である。

中学生の行事の代名詞といえば合唱コンクールみたいなところがある。

合唱の伴奏は私の人生を語る中で欠かせない。今回はそんな合唱の伴奏についてのお話。ちなみに今回も長文。

全ての原点 小学校

私が初めて合唱の伴奏をしたのは小学5年生。在校生が6年生に送る合唱の伴奏。当時はオーディションで選ばれてホッとしたのは覚えている。

翌年は私はオーディション無しで6年生の合唱、『旅立ちの日に…』の伴奏を弾いた。

それまであんまり自分のピアノを上手いと思ったことも無かったし、なんならピアノ習うのも既に辞めていた。けれどみんなが口々に美音ちゃんのピアノは天才みたいに沢山沢山褒めてくれて(本当に超良いクラスだった6年2組)それが自分の特技というか自信を持つものに変化していった。

友達達も一緒にオーディション受けてある意味勝ち負けみたくなるのに認めてくれてそれて仲が悪くなるとかはなかった。寧ろ逆で元々仲は良かったけど逆に深まったような。ありがたい限りだし恵まれていた。

卒業まであと僅かのある土曜日、6年生と保護者と先生方で卒業を祝う会みたいな行事があって、その日の最後も旅立ちの日にの伴奏を弾いた。色んなお母さん達に美音ちゃんピアノ上手だねーって帰り際声かけて貰ったし、保護者の発表で母も保護者の合唱の伴奏を弾いていたため、流石親子だねーみたくあの日は親子共々嬉しい言葉を頂いた。

(母は元中学の音楽教師で私が小学校に入ってからは自宅でピアノ教師をしている。)


中学1年生

私が通っていた中学は隣同士の学区2つの小学校が一緒に1つの中学校になるシステムだった。

中学の合唱コンクールの伴奏も当然やる気満々で入学する。

うちの学年は1年生の時は4クラスあった。

私は1年2組になった。小学校の時に一緒に合唱の伴奏のオーディションを受けていた子達は他クラス。隣の小学校の子達も特に伴奏をやっていた子はいなかったような。

最初の音楽の時間、授業が始まる前に同じ小学校の子が美音ちゃん旅立ちの日に弾いてーみたいに言ってくれてサクッと伴奏を弾いた。その時にみんなが凄いとか上手いとか言ってくれたような。

その日の音楽の時間に先生が二学期になると合唱コンあるからピアノ弾ける人ーみたいな調査もあったかな。(このあたり記憶が流石に曖昧)

なんかもうその時点で伴奏はやらせて貰えるかなあっと雰囲気は有ったし、夏休み前の伴奏者決めも割とすんなり課題曲も自由曲も伴奏美音ちゃんねみたいに決まった気がする。

課題曲は『COSMOS』自由曲は『想い出がいっぱい』

課題曲は調号的にも曲の雰囲気的にもなんとなく好きで割と楽しく弾いていた。難しかったけど気合いでなんとか。

しかし自由曲はサビが16分音符だったり原曲がポップスなことも手伝い大苦戦した。なんか歌詞の意味もピンとこないし中々最後まで苦戦した。

夏休み明けやっと指揮者が決まって、本格的に練習開始。

この頃とっても気掛かりなことがあった。

学年合唱である。

私の中学では(一般的にもそう?)合唱コンで各学年のクラス発表の前に学年全員で課題曲を歌う学年合唱が全学年ある。その指揮者と伴奏者はどこかのクラスの課題曲のペアをそのまま起用すると説明されていた。

個人的にはとてもとてもやりたかったが課題曲の指揮者に学年合唱やりたい?って聞いても別にそこまでやりたそうでもない。(当時同じ班で掃除時間に雑巾片手に聞いたような)

内心気になっていたけど落ちるのが怖くて期待しないようにしていた。だからクラスメイトに学年合唱の話を振られても曖昧に濁してたし、できれば振らないでくれと内心苛立ちさえ覚えていた。

ある日クラスメイトから「美音ちゃん、学年長の先生が呼んでるよ、今職員室行って」と言われる。

何をやらかしたかと怯えながら職員室に向かう。

そこに居たのは学年長の先生と1組の指揮者。

学年合唱をこの2人でやってくれと頼まれた。

選ばれた時嬉しさよりも安堵感が強かったことを覚えている。

教室戻って「美音ちゃん用件何だったの?」とクラスメイトに聞かれる。そこで学年合唱に選ばれたことを伝えた。伴奏に選ばれたのを自分より喜んでくれてびっくりしたなあ。

そこからは余計なことから解放されて問題はクラス合唱という感じで必死に2組の伴奏者をやっていた。

ちなみにちょくちょく他クラスの伴奏者に教えていたりする余裕もあった。

自由曲は最後まで苦手意識拭えなかった。課題曲は好きだったけど、自由曲練習する時間は何となく憂鬱で気が重かった。当時から♭が好きで♯が苦手。今と変わらない。

幸い指揮者2人が学級委員長と副委員長だったから仕切るのとか注意とか全部任せてただただピアノを弾いていた。優等生なクラスだったし割と平和だったんだけど、当時は初めての手探り感やら初めての伴奏2曲で余裕なかったり何か1人で心の拠り所が無い気になっていて、色々としんどかった。実は3年間で1番辛かったのがこの1-2の合唱コン。

結果は毎評判通り金賞(優勝)。

嬉しさと共に終わった寂しさと解放感が入り混じった気持ちだった。


中学2年生

中学2年生に進級すると3クラスにクラスは減った。

私は3組になった。1年生の時に合唱コンで伴奏したのは自分しかいなかった。

2年生のクラス替えした時点で、これは私3年間2曲伴奏できるか?とちょっと期待はしていた。

結果無事夏休み前の伴奏者決めで、課題曲と自由曲の伴奏者になる。なんか1年生の時より更にあっさり決まったかなあ。みんな伴奏は〇〇(名字)みたいな雰囲気が割とあったかと。

ちなみに当時合唱委員だったためその手の決め事をクラスでやる時自分で話、伴奏者も自分がやるという感じで妙な感じだったような。

課題曲は『自分らしく』

自由曲は『With You Smile』

課題曲が死ぬほど簡単で3日で弾けるようになった。自由曲は結構難しかった。かなり苦戦したし手も痛めた。弾き方が悪くてなさけない。

夏休み明けようやく指揮者が決まった。

自由曲の指揮者は、1年生の時も同じクラスで前年課題曲を組んだ人だったから決まった時に安心したし、色々とやりやすかった。

学年合唱は立候補&話し合い制に変わった。伴奏は美音ちゃんって感じですんなり2年連続学年合唱の伴奏をさせて貰った。

そう、1,2年生はクラスの課題曲と自由曲+学年合唱という同じパターンで最大数伴奏させて貰えて安泰だったしここまでが伴奏者として良い時期だった。

クラスの合唱は色んな意味で中々上手くいかなかったし、なんか色んなプレッシャーとかあったり手は痛いししんどかったけど楽しかった。少なくとも1年生の時よりはある意味本気で獲りに行けたし、自分も色々音楽的な事とか言い始めて良くも悪くも超感情出してたなあ。

課題曲がハ長調でとにかく面白みが感じられず記憶がない←

私は毎年課題曲と自由曲のどっちかは好きで嫌いだから伴奏者としてだめだね。

ところで自由曲なんであんなに指揮者とテンポ煽りあって速くしようってなったんだっけ?

でもあの自由曲は厨二…いや中2のあの時しかできない勢いみたいなものがあって好きだよ。数少ない凄く乗って弾けた楽しい本番だったし。

今でもあの日の自由曲の伴奏は人生で1番上手く弾けたピアノだったと思う。色んな人に伴奏凄かったねと口々に言ってもらえて嬉しかったな。

人生で2回だけあった神がかって何かが降りた演奏の日。

自由曲はイメージ的に黄色オレンジ、晴天と海、キラキラ!青春全開みたいな素敵な脳内で弾いていたから本当に楽しかった。

結果銅賞で死ぬほど泣いたし落ち込んだけど。でもそこまで1,2組と大差ないから来年巻き返せるかなって期待も薄らあった。

さて、1年生の時の感覚でいけば来年の合唱コンまで伴奏からは遠ざかるのだがここから話は更に続いていく。

基本的に10月の文化祭(合唱コン)で生徒会など様々な代替わりが行われて3年生から2年生にバトンタッチする。

そのタイミングで2学期の終業式から校歌の伴奏を卒業まで1年と少しの期間務めることになる。

校歌は良くも悪くもなく…という感じで上手くもないし下手でもないみたいな感じだったかなあ。あんまり上手く弾けなくていつも75点だった記憶がある。

2学期の終業式、3学期の始業式、終業式、卒業式、離任式…。2年生の間だけでこのくらい出番があった。

あと3送会(3年生を送る会)でも2年生の発表で合唱があってファンキーモンキーベイビーズの『桜』を伴奏したんだけど、びっくりするくらい記憶がない。

そして3学期卒業式で歌う全校合唱『大地讃頌』の伴奏を唐突に頼まれとても苦しんだ。時間が無いし難しいし弾けない。全校の前でとにかく醜態を晒すはめになってあの時期かなり泣いていた。

卒業式前日に3.11 東日本大震災が起こって卒業式は1週間延期になった。岩手だが内陸だったので大きな被害はなく3日間停電しただけ。その間余震が続き停電している中でも必死に家のグランドピアノで練習して本番は何とか間に合った。

そして何とか2年生が終わる。


中学3年生

始業式。校歌を弾くつもりでいつも通り登校。

そしたら午後の入学式で歌う『君が代』の伴奏音楽の先生が急遽欠席だから弾いてくれと体育館で頼まれ半泣きだった。ほぼ初見で楽譜にドレミ振るぐらい必死だった。今思えば楽譜にドレミを書いても大して弾けないだろうが。

入学式では大地讃頌と校歌、君が代を伴奏した。

対面式も何か全校合唱弾いたかな?とりあえずこれで終業式の校歌までは伴奏はひと段落する。

これは別途に書こうと思ってるため割愛気味に記載するが、夏休み前Nコンに出場するための特設合唱部に参加した。そこでも課題曲『証』と自由曲『予感』の2曲を伴奏する。

クラスの合唱コンも恒例の伴奏者決め。私やっていいですかー、どうぞーの秒で決まり3年間クラスの課題曲と自由曲を伴奏することが決まった。

つまり受験生にとって大切な中3夏は吹部は仮引退したものの4曲の伴奏練習と特設合唱部の練習と伴奏に明け暮れる夏になる。

夏休み明けまずは始業式の校歌。

そしてすぐにNコン。Nコンの前に全校朝会で特設合唱部の発表があった。そしてNコン当日を無事終えると指揮者を決めいよいよ最後の合唱コンの練習が始まる。

ちなみに自由曲の指揮者は去年と同じ。つまり私は結果的に片方の曲は3年間同じ指揮者と組んだ。ちなみにこの指揮者が振る曲は何故か3年間♭だった。個人的にこの話が超面白いのだがあまり面白味が伝わらない。

ちなみにうちの学年で指揮を3年間振ったのは1年生の時同じクラスだった2人だけだった。私も3年間2曲伴奏したから1-2の指揮者&伴奏者優秀じゃんと自画自賛しておこう。

この時の課題曲は『時の旅人』
自由曲は『Best Friend』(kiroro)

この合唱コンはとにかく私も必死すぎたしいわゆるリーダー的に仕切ることをしたため、リーダー同士でぶつかったし凄く苦しんだ記憶がある。ある意味みんなそれぞれ必死だったんだけどそれを上手く纏められなかった感じ。指揮者ともなんか上手く連携取れなくて結構直前まで泥沼カオスだったw(笑い事じゃない)

そして文化祭まであと2週間くらいの頃に全校合唱2曲の伴奏を頼まれる。一曲なんて明日全校で合わせますよってタイミングで言われた。クラスは上手くいかないし全校合唱は大慌てだし、吹奏楽部は引退前ラストスパートだし、特設合唱部もそろそろ練習再開(特設も文化祭で2曲発表有り)だし受験生&テスト期間ととにかく自分で思ってたより心に余裕が無かったらしい。



そして文化祭約10日前?ぐらいに大事件を起こしてしまう。学年合唱事件って呼んでいる話である。

自分が悪いと言えば悪いがちょっと思っていたことと違うことが生じ、同じクラスの指揮者にとばっちりをくらわせ、学年合唱の伴奏降りるとか大騒ぎした。あの瞬間3年間頑張ってきた伴奏が全てどうでもよくなったし折れた。(文化祭当日全校、クラス、特設合唱、学年合唱と6曲7回の伴奏を決まっていたが全て降りそうな勢いと剣幕だっただろう。

正直学年合唱ってよりそこまでの色んなストレスとかプレッシャーで潰れてたところにダメ押しみたくなって、爆発したのだろう。

あの日は今思い出しても頭を抱える黒歴史なのだ。
端的に言えば自分の思い通りにいかずヒステリ起こしたようなもので、普通に考えたら私は各所から怒られて当然なのだけど、先生達もクラスメイトも何も言わなかったしクラスのリーダー達ともなんかそこまでぶつからなくなったし、課題曲の指揮者とも隣のクラスの指揮者のおかげで特に問題なく最後まで合唱コンと学年合唱を終える事ができた。

雨降って地固まるじゃないけど、明らかにあの後から文化祭終了まで多方面が私に対して気を使っていた気がする。ある意味腫れ物だったな。申し訳なかったな。

当日は全校合唱『夢の世界を』、特設合唱部『証』『予感』、学年合唱、クラス合唱の課題&自由曲、全校合唱『明日という日が』の6曲7回を伴奏した。あの日は吹奏楽部の発表もあったから盛り沢山だった。

合唱コン3年間課題曲と自由曲を伴奏したから故のこぼれ話はなのだが、曲間の時間さっさと楽譜を変え、残り時間は指揮者が交代するのを見ている時間が好きだった。自由曲の指揮者はどんな表情で指揮台まで歩いてくるかな、今日で最後になるこの曲はどんな合唱になるのだろうか。そんな事を考えて人間観察をすることで気を紛らわせていたのかもしれない。1年の時のこの人は強いなあって感じる揺るぎない安定感も、2年の時の自由曲に対する緊張と終わる寂しさも、3年の時の何かが今日は違うって期待感と不思議なワクワク感も鮮明に記憶されている。意外と合唱コンで1番覚えているのはその時間。

ピアノの場所から見える景色は伴奏者特権で唯一自分だけが見ることができるからなんか特別だった。

ちなみに中1の自由曲を弾いている時は何だかんだこの人とは絶対これで最後ではなく指揮伴奏組んでそうだなーとふと思い、中1の課題曲を弾いている時はこの人とは最後の指揮伴奏だからさよならだー来年は誰と組むんだろう?と思った。

何故か私の予感は外れて、課題曲の指揮者とは3年間組み、自由曲の指揮者とは1回っきりになった。なんかこれは未だに不思議だし、逆なら腑に落ちるのだが多分だからこそあのような中学生活だったのだろうなあと納得せざるを得ない。

さて話は戻り、3年生のクラス合唱。
自由曲『BestFriend』は今でも覚えているぐらい素敵な合唱だった。本当に本番が1番良かったし、全員が楽しそうに笑顔で歌ってた。声も勿論出ていた。とにかく指揮者の安定感が超抜群で3年間の中で1番楽しそうに振っていた気がする。珍しく私も完全に指揮に頼って自分は自由に楽しく伸び伸び弾かせて貰った。伊達に3年間組んだ訳じゃなかったなあって救われたし嬉しかったしこの人の指揮で3年間伴奏できて良かったなあと心から思った。正直時間が止まって欲しかったし、凄く綺麗でキラキラしていて間違いなく人生で1番楽しい伴奏であった。人生で1番楽しい演奏だったかもしれない。

2年生の時に同じ指揮者と組んだ自由曲で人生で1番良い演奏をして、もうこれ以上のものは弾けないなあと思った。中2の文化祭後から中3の文化祭を迎えるまでの1年は、当時の13,4年生きてきた中で最大にどん底な1年間で、そこから約12年経った今振り返ってもやっぱり割と辛い部類に入る時期だったからこそ中2の文化祭の自由曲の時間は当時の自分の中で余計神格化されていた。

だからこそその中2の自由曲に肩を並べるような演奏ができたことが何よりの喜びだった。中2は躍動感と若さ、中3は静かで温かいとても対照的な内容だったけど。あの合唱があったからこそ3年間の全てが報われたというか自分の中学校生活が楽しかったと言える。自分的にやり直せるならやっぱり小学校時代の希望通り卒業した学区の中学には行かないし、(私は中学受験したかったんだけど親が反対で学区の中学に進まざる終えなかった)今でも納得できないことは山ほどあるけど苦しかったことも嫌な思い出も沢山あるけど中2、中3の自由曲があるからそれで全部チャラみたいなとこがある。

最後の自由曲を弾いていた数分間ちょっと1-2,2-3,3-3…3年間の色んな思い出が脳裏に浮かんでいた。毎年クラスの片方はその指揮者が振っていたから、ある意味合唱コン恒例だったこの人の指揮で弾く伴奏もこれが人生最後なんだなあって思ったら3年間早かったなあとまだまだ先だと思っていた卒業を実感した。多分人生一生ループしなければいけないシーンを選ぶなら私は迷いなく中3の自由曲を選ぶ。人生で1番あっという間、一音一音残り時間が減っていくのが名残惜しくて1拍1拍大切に噛み締めるように奏でた伴奏だった。

クラス替えもあるし、割と流動的だからこそ3年間組んだ指揮伴奏って学年で自分達だけだったんけど何となくそれが私的に今でも嬉しかった思い出である。別に音楽的に相性が良いとか音楽知識に長けてるとかでは1ミリも無かったけれど、私の中ではその人だからこそ弾ける伴奏や演奏みたいなのがあって技術以上に心や気持ちが本当に良い音楽には大切だって気づかせてくれたし、人生で音楽をやる喜びや良い演奏って中々得られないものを教えてくれたから。あの人が指揮をやらなければ私は音大にはきっと行けなかったでしょう。でも指揮者賞一回も取れなかったのが私の合唱コン唯一の心残りなのですが(伴奏者賞はなかった)そこも含みでらしいなあという気がする。


合唱コンクールは銀賞だった。前年度から一つ順位を上げたしクラスとしては大満足の結果だった。

その後、終業式、始業式、卒業式と校歌を伴奏し、卒業式は全校合唱『大地讃頌』と学年合唱EXILEの『道』を伴奏し中学校を巣立った。

卒業式の合唱、3組はみんな合唱コン並みにに声を出していて感動したし嬉しかったなあ。


高校生

高校でも合唱コンクールがあった。

会場は県民会館大ホール。

課題曲はアカペラだったため自由曲を3年間伴奏させて貰った。

毎年クラス替えがあったが何とか伴奏者をできたのである。

1年生は学年1位、2年生も学年1位、3年生は総合2位とかなり良い結果だったんだけど割と思い出さないようにしてる。

合唱好きだったけど、女子高で女声合唱が個人的に苦手だったりあまり楽しめなかった。

だから自分の中で合唱の伴奏は小学校〜中学までの認識だったりする。


私の人生振り返って音大行きたいとか音楽の進路を考えたきっかけにも大きく影響してたし、もし小5の時伴奏やらなかったらあんなに中学で伴奏していないだろう。

そう考えるとその時軽い気持ちで選んだほんの僅かな選択が後の人生を左右したりする。

今でも混声合唱の伴奏したい!とか思うしタイムマシンがあるのならば中学時代に戻って伴奏をしたいのだけれど、当時を思い出すと苦しかったし楽しかったし何とも言えない気持ちになるのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?