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廃れたこころ

私は、人と話す時に緊張する。目は泳ぐし話の内容はしどろもどろ。
過度に人の目を気にする。反対の意見だと思われて相手が怒らないか考えて自分の意見が言えない。否定しないから寄ってたかってくるモラハラたち。

何があっても人生は続いていくと映画のセリフにもあったけど、そうは思えない。親切にしてくれる人がいたから死ねなかった。「生きて」とも、「死んではいけない」とも言わない、あたたかい微笑みが私に向けられたからせめて死にたいとは思わないようにした。そしていつか親切にしてくれた人のように自分もなれたらと。美しく生きたい。だけど「私は悪い」「私はダメ」と、どこかからともなく響いてくる。

迷える子羊A「私は…何かいけないことをした?」
カウンセラー「それほど苛まれるほどのこととは思えません」
周囲の人たち「過去は過去だ、現在のあなたを見ている」
迷える子羊A「そんな」
「でも…私は何かいけないことをした」

「違うよ」と、私が私に答えられるようになるまで、あとどのくらい掛かるんだろう。日曜の教会に行ったことがあった。それは●●区に、3年前になるのか。とても新鮮な一日だったと振り返ることが出来る。

争いは避けたい、自分のことを傷つけたりもせず大事にしたい。
だけど、どうしても許せないことがあると立ち向かうしかない。

上司「勤務態度が悪い社員がいるから見張ってて、会議の様子を報告して」私「勤務態度が悪いなんて許せない!!かしこまりましたっ!!」
数日後の私「なんでこんなことしてるんだろう、スパイしてるみたいだし自分が嫌になってきた」
基本は何事も穏便に済ませたいからと、素の自分を隠しながら場を取り繕うふるまいをして疲れる。

抑うつ状態が続く気分障害かもしれないねと心療内科の医師にポそりと言われたくらい。かもしれないねって何なんだ。人格障害の気もなく脳の障害もなさそうで(検査をされていないから詳しくは知らない)私は病気なのでしょうか、検査をさせてくださいと此方から質問しなきゃいけないのか。

でも、元々の性格のせいな気がする。病気でもないのに自分の心の状態について深刻に悩み、そのせいで眠れないとなるとすぐ不眠ですねと言われて抗うつ薬が処方される。安易に心療内科のお世話になったことを悔やまなくもない。なぜなら根性論とか精神論の前ではボロボロに砕け散る内容の悩みや困りごとで、処方薬だって依存こそしていないものの服用していなかったら毎日のようにお酒は飲むことになっているかもしれない。お酒が薬に置き換えられているだけでお金をかけて堕落しているように感じてしまう。べつに、お酒を飲んだって薬を飲んだって全然いいと私は思うのだけど。
私じゃない他の誰かがそういうことをしてるのは別に咎めたりもしない。
昔の友人がタイか何処かの風邪薬を個人輸入で手に入れて一瓶すべて一晩で飲み干したことで遥か宇宙の彼方へトリップしてるタイミングで電話を寄越してきたけれど、その時に友人が語らっていた話は今になっても私はだいぶ気に入っているの。「●●さんの声が音楽みたいに聴こえる」…私は普通に話してるだけだけど…。「卵焼きを作ったけど、全然おいしくなかった」美味しくなさそうでもない卵焼きの写真が送られてきたので、明日ケチャップでも掛けて食べたら?とか言った気がする。

よしと思わない他人の視線を気にしてしまう。私を見ているのは誰?近寄らないでほしい。堕落にせよ気分の落ち込みにせよそうなりたくてなってるわけじゃない。本人としては一大事なことでも取るに足らないこととして処理されてしまう。


病院の窓から見える景色は好きだ。生き生きと伸びる背の高い木々たち。
それから街頭。道なりに進むと公園になっている。でも、この公園に入ることはない。いつか椅子を持っていって、そこに腰かけてボンヤリしていたいなんて思うことはある。ピクニックをしたくなるような公園。晴れやかな気分の時にでも、いつか時間を気にせず、ぼうっと誰かを待っていたい。