見出し画像

フランクル『夜と霧』と、人生のコペルニクス的転回

『夜と霧』のことは、名著として概要とタイトルは知っていた。高校の倫理の教科書にも「人生のコペルニクス的転回」の解説が書かれていた。

でも、私は心の準備が出来なくて、『夜と霧』をずっと読んでいなかった。

『夜と霧(新版)』(Amazonから引用)

ユダヤ人精神分析学者がみずからのナチス強制収容所体験をつづった本書は、わが国でも1956年の初版以来、すでに古典として読みつがれている。著者は悪名高いアウシュビッツとその支所に収容されるが、想像も及ばぬ苛酷な環境を生き抜き、ついに解放される。家族は収容所で命を落とし、たった1人残されての生還だったという。

強制収容所の現実が書かれている。人間が人間を虐殺した事実がある。それを知ることに対する恐怖があった。自分自身、人間を信じきれない部分もある。だから、その衝撃に打ちのめされてしまうと思っていた。

そんな私が最近、あるきっかけから『夜と霧(新版)』を読んだ。

読んでみて、とても良い本だと思った。

その概要と、感想を記載する。

補足:引用した文中の「中略」「太字にした箇所」は、すべて引用者によるものである。

『夜と霧』の重要な要素

強制収容所の惨状

未来に希望を持つこと

人を愛すること

過去の経験は最も確実な「あること」

ふたつの人間の種族、そして人間とはなにか

人生のコペルニクス的転回


強制収容所の惨状

強制収容所で被収容者は、文字どおり肉体以外のすべての財産を奪われる。そして、餓えと暴力に容赦なくさらされる。その中で、否応なく感情は鈍磨させられていく。

それを伝える箇所を(数ヵ所だけ)引用する。

私たちは、みなそのことを知っている。私たちはためらわずに言うことができる。いい人は帰ってこなかった、と。(『夜と霧(新版)』 P.5)
友人Pの行方が分からない、ともらしたのがきっかけだった。
「その人はあなたとは別の側に行かされた?」
「そうだ」
「だったらほら、あそこだ」
中略
「あそこからお友だちが天に昇っていってるところだ」(同書 P.19)
 「鉄条網に走る」という収容所の特有の言い回しは、収容所ならではの自殺方法を言い表している。つまり、高圧電流が流れている鉄条網にふれるということだ。(同書 P.28)
居住棟の仲間はばたばたと死んでいった。つぎはだれか、自分の番はいつ回ってくるか、だれでもかなり正確に予見できた。いろいろ見聞きしているために、確実に死期を予言できる兆候をいやというほど知っていたのだ。(同書 P.49)
被収容者のこうした非情さは、いかに生きのびるかというぎりぎり最低限の関心事に役立たないことはいっさいどうでもいい、という感情のあらわれだ。被収容者は、生きしのぐこと以外をとてつもない贅沢とするしかなかった。(同書 P.54)

未来に希望を持つこと

その惨状の中で、希望を持つこと、希望を持たせること、希望を持ちづづけることが、いかに重要だったかが書かれていた。

 このFという仲間は、わたしに夢の話をしたとき、まだ十分に希望をもち、夢が正夢だと信じていた。ところが、
中略
戦況が三月中にわたしたちを解放する見込みはどんどん薄れていった。すると、三月二九日、Fは突然高熱を発して倒れた。そして三月三十日、戦いと苦しみが「彼にとって」終わるであろうとお告げが言った日に、Fは重篤な譫妄状態におちいり、意識を失った……三月三一日、Fは死んだ。(同書 P.127)
この収容所は一九四四年のクリスマスと一九四五年の新年のあいだの週に、かつてないほど大量の死者を出したのだ。
中略
この大量死の原因は、多くの被収容者が、クリスマスには家に帰れるという、ありきたりの素朴な希望にすがっていたことに求められる、というのだ。(同書 P.128)
すでに述べたように、強制収容所の人間を精神的に奮い立たせるには、まず未来に目的を持たせなければならなかった。(同書 P.128)
 勇気と希望、あるいはその喪失といった情調と、肉体の免疫性の状態のあいだに、どのような関係がひそんでいるかを知る者は、希望と勇気を一瞬にして失うことがどれほど致命的かということも熟知している。(同書 P.127)

人を愛すること

極限状態の中で、人が人を愛することが生きる力になった。そのことが書かれていた。

また、このことが、本書が長く人々に読み継がれる原動力のひとつになっているようである。それを知って、人間を信じたい気持ちになれた。

諸富祥彦さんは同書の解説書『「100分 de 名著」ブックス フランクル 夜と霧』に、こう記述している。

 人間が体験しうる中で究極の体験価値の一つは、やはり「愛」です。人間は、人とのつながりなくして”生きている喜び”を感じることはできません。フランクルの過酷な収容所での日々を支えたのも、生きているかどうかもわからない「妻への想い」でした。
『夜と霧』の読者に、この本のどこがいちばん印象的でしたか、と質問すると、「フランクルが収容所での過酷な労働の合間に、引き離された妻の姿を思い浮かべていた場面です」と答える方が少なくありません。
 陰惨な記述も少なからずあるこの本が、同時にさわやかな人間賛歌のような趣を持っているのは、この場面の力によるところが大きいのではないかと思います。(『「100分 de 名著」ブックス フランクル 夜と霧』 P.85)

該当箇所を引用する。

 だがこのとき、わたしたちにはわかっていた。ひとりひとりが伴侶に思いを馳せているのだということが。
中略
 今この瞬間、わたしの心はある人の面影に占められていた。精神がこれほどいきいきと面影を想像するとは、以前のごくまっとうな生活では思いもよらなかった。
 私は妻と語っているような気がした。妻が答えるのが聞こえ、微笑むのが見えた。まなざしでうながし、励ますのが見えた。妻がここにいようがいまいが、その微笑みは、たった今昇ってきた太陽よりも明るくわたしを照らした。
 そのとき、ある思いがわたしを貫いた。何人もの思想家がその生涯の果てにたどり着いた真実、何人もの詩人がうたいあげた真実が、生まれてはじめて骨身にしみたのだ。愛は人が人として到達できる究極にして最高のものだ、という真実。
中略
 人は、この世にはもはやなにも残されていなくても、心の奥底で愛する人の面影に思いをこらせば、ほんのいっときにせよ至福の境地になれるということを、わたしは理解したのだ。(『夜と霧(新版)』 P.60~P.61)

人を愛することの該当箇所として、挙げておきたい箇所がもうひとつある。それは私の大学時代に、こんなことを教えてくれた先生がいたからだ。

私は大学時代、自分なりには、「人を愛するということは、その人を理解すること」だと思っていた。でも、(それが出来ていると思っていたが)実際は出来ておらず、苦しい思いをした。そのとき、力になってくれた先生がいた。

その先生は、こう教えてくれた。

「人を愛するということは、その人の存在を認めること」だと思う。
「人間が他者を完全に理解することは不可能」だと思う。

私は、先生にこのことを教えてもらってから、以前より、生きるのがずっと楽になった。

ある人を理解しようと努めても、きっと、すべてを理解することはできない。でも、その人の存在を認めることは、その人を愛していることになる。

私は、そう思うようになった。

その先生の解説には『夜と霧』の、この部分が引用されていた。

ある女性が木と会話をする場面である。

 この若い女性は、自分が数日のうちに死ぬことを悟っていた。なのに、実に晴れやかだった。
中略
 「あの木とよくおしゃべりするんです」
 わたしは当惑した。彼女の言葉をどう解釈したらいいのか、わからなかった。譫妄状態で、ときどき幻覚におちいるのだろうか。それでわたしは、木もなにかいうんですか、とたずねた。そうだという。ではなんと? それにたいして、彼女はこう答えたのだ。
 「木はこういうんです。わたしはここにいるよ、わたしは、ここに、いるよ、わたしは命、永遠の命だって……」(同書 P.116~P.117)

過去の経験は最も確実な「あること」

過酷を極める強制収容所の生活。それでも奪えなかったことは、人間が何をどう感じるのか、そして、その経験であった。その経験は、どんな力をもってしても奪えない。

太字にした一文が、私にとっての、瞠目すべき一文だった。

 「あなたが経験したことは、この世のどんな力も奪えない」
 わたしたちが過去の充実した生活のなか、豊かな経験のなかで実現し、心の宝物としていることは、なにもだれも奪えないのだ。そして、わたしたちが経験したことだけでなく、わたしたちがなしたことも、わたしたちが苦しんだことも、すべてはいつでも現実のなかへと救いあげられている。それらもいつかは過去のものになるのだが、まさに過去のなかで、永遠に保存されるのだ。なぜなら、過去であることも、一種のあることであり、おそらくはもっとも確実なあることなのだ。(同書 P.138)

過去に経験したことがある。その事実は、誰にも消すことができない。それこそが、存在していることを証明しているという。

ふたつの人間の種族、そして人間とはなにか

経験から、どのように立ち振る舞うのか。それが、その人の精神性を示した。そしてそれが、人間とはなにかとの答えにつながり、その答えが示される。

収容所の監視兵のなかには、厳密に臨床的な意味での強度のサディストがいた、ということがひとつ。そして、選り抜きの監視隊を編成するときはサディストが求められた、ということがふたつである。(同書 P.141)
 三番目に指摘されるのは、収容所の監視者の多くが、収容所内で繰り広げられるありとあらゆる嗜虐行為を長年、見慣れてしまったために、
中略
すっかり鈍感になっていた、ということだ。この鈍感になり、心が干乾びてしまった人びとの多くは、すくなくとも進んでサディズムに加担はしなかった。しかし、それがすべてだ。彼らは他の連中のサディズムになんら口をはさまなかった。(同書 P.142)
 四番目に挙げられるのは、収容所の監視者のなかにも役割から逸脱する者はいた、ということだ。ここでは、わたしが最後に送られ、そこから解放された収容所の所長のことにだけふれておこう。彼は親衛隊員だった。
中略
この所長はこっそりポケットマネーからかなりの額を出して、被収容者のために近くの町の薬局から薬品を買って来させていた。(同書 P.143)

フランクルはこう続ける。

収容所監視者だということ、あるいは逆に被収容者だということだけでは、ひとりの人間についてなにも語ったことにはならないということだ。人間らしい善意はだれにでもあり、全体として断罪される可能性の高い集団にも、善意の人はいる境界線は集団を越えて引かれるのだ。したがって、いっぽうは天使で、もういっぽうは悪魔だった、などという単純化はつつしむべきだ。事実はそうではなかった。収容所の生活から想像されることに反して、監視者として被収容者に人間らしくたいすることは、つねにその人個人のなせるわざ、その人のモラルのなせるわざだった。そのいっぽうで、みずからが苦労をともにしている仲間に悪をなす被収容者の卑劣な行為は、ことのほか非難されるべきだ。品位を欠くこうした人間が被収容者を苦しめたことは、他方、監視者が示したほんの小さな人間らしさを、被収容者が深い感動をもって受け止めたことと同じように明らかだ。(同書 P.143~P.144)
 こうしたことから、わたしたちは学ぶのだ。この世にはふたつの人間の種族がいる、いや、二つの種族しかいない、まともな人間とまともでない人間と、ということを。このふたつの「種族」はどこにでもいる。どんな集団にも入りこみ、紛れこんでいる。まともな人間だけの集団も、まともではない人間だけの集団もない。したがって、どんな集団も「純血」ではない。監視者のなかにも、まともな人間はいたのだから。
 強制収容所の生活が人間の心の奥深いところにぽっかりと深淵を開いたことは疑いない。この深みにも人間らしさを見ることができたのは、驚くべきことだろうか。この人間らしさとは、あるがままの、善と悪の合金とも言うべきそれだ。あらゆる人間には、善と悪をわかつ亀裂が走っており、それはこの心の奥底までたっし、強制収容所があばいたことの深淵の底にもたっしていることが、はっきりと見て取れるのだ。
 わたしたちは、おそらくこれまでどの時代の人間も知らなかった「人間」を知った。では、この人間とはなにものか。人間とは、人間とはなにかをつねに決定する存在だ。人間とは、ガス室を発明した存在だ。しかし同時に、ガス室に入っても毅然として祈りのことばを口にする存在でもあるのだ。(同書 P.144~P.145)

人生のコペルニクス的転回

 冒頭に、高校の倫理の教科書に、「人生のコペルニクス的転回」の解説が書かれていたと記した。当時の私は、その意味を正しく理解できていなかった。

 今回、「人生のコペルニクス的転回」の意味を、ようやく理解できたと思う。

 フランクルの記述を引用する。

 ここで必要なのは、生きる意味についての問いを百八十度方向転換することだ。わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているのかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない。哲学用語を使えば、コペルニクス的転回が必要なのであり、もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。生きることは日々、そして時々刻々、問いかけてくる。考えこんだり言辞を弄することによってではなく、ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される。生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることにほかならない。
中略 
ここにいう生きることとは決して漠然としたなにかではなく、つねに具体的ななにかであって、したがって生きることがわたしたちに向けてくる要請も、とことん具体的である。この具体性が、ひとりひとりにたったの一度、他に類を見ない人それぞれの運命をもたらすのだ。だれも、そしてどんな運命も比類ない。
中略
すべての状況はたったの一度、ふたつとないしかたで現象するのであり、そのたびに問いにたいするたったひとつの、ふたつとない正しい「答え」だけを受け入れる。そしてその答えは、具体的な状況にすでに用意されている。(同書 P.130~P.131)

諸富祥彦さんは前掲書で、以下のとおりに解説している。今回、この解説を読んで、フランクルが書いた文章の意味が正しく理解できた。

 「人間は常に人生から問いかけられている」ーーフランクルは、ここにこそ、人間の本来あるべきあり方がある、と考えました。
 そしてこの本来のあり方からはずれていく時、人間は慢性的な欲求不満の状態に追い込まれていく、と考えたのです。
 たとえば、もし人が、自分の欲しいもの、やりたいこと、なりたいものなどを探し続けていくと、どうなるでしょう。人間の欲求には際限がないので「もっともっと」と何かを求め続けてしまいます。そしてその結果、人は絶えざる欲求不満の状態に追い込まれていくのです。(『「100分 de 名著」ブックス フランクル 夜と霧』 P.59)
 フランクルの言っていることは、わかりやすく言えば、こういうことです。
 私たちは、「何のために生きているのか」「この人生に意味なんてあるのか」と思い悩むことがあるけれど、ほんとうは、そういったことに悩む必要なんて、これっぽっちもありはしない。なぜならば、私たちがなすべきこと=実現すべき意味・使命は、私たち人間がそんなふうに思い悩むかどうかとかかわりなく、「私を越えた向こう」から、私たちの足下に、常にすでに送り届けられてきているからだ。
 つまり、「何のために生きているのか」という問いの答えは、私たちが何もしなくても、もうすでに、与えられてしまっている。
 したがってむしろ、私たちがなすべきこと、行うべきことは、私たちの足下に、常にすでに送り届けられてきている「意味と使命」を発見し、実現していくこと。「自分の人生には、どんな意味が与えられており、どんな使命が課せられているのか」ーーそれを発見し、実現していくこと。ただそれだけであり、私たちは、何も、それを求めて思い悩む必要はないのだ。(同書 P.60~P.61)

全体の感想

『夜と霧(新版)』を読んで、私は今までより人生を生きるのが楽になった気がした。

「人生のコペルニクス的転回」から、なぜ生きるのか、その問いはむしろ人生から自分に問われているとする、その意味がやっと分かった。ただ、正直なところ、その問いの答えを探すことも、それはそれで大変だ、と思った。

フランクルは、「善と悪の合金ともいうべき」人間の両面を、極限状態の体験を元に知っていた。そして、それでも、生涯、人間を愛し続けた。このフランクルの人間への深い愛が、本書を名著たらしめたと、強く感じた。

最後に

最後に、前掲書の中から、以下を紹介して終わりにする。

これを読んで、なんとか、凡人の私でも、「人生から自分に問われていること」を探せる気になった。

できるか不安であるが、「何のために生きているのか」「この人生に意味なんてあるのか」とずっと思い悩み、身動きすら取れなくなるよりは、実は難しくないのかもしれない、とも感じた。

(ただ、引用した文章で紹介されている方は、やはり天才だと思う。)

引用するのは、姜尚中さんの文章である。

 フランクルのように強い意志を持った人だからできるのであり、自分などには無理だとおっしゃる人もいるかもしれません。しかし、そんなことはありません。フランクルは重度のニコチン中毒、カフェイン中毒で、タバコや濃いコーヒーをかたときも手放せなかったと言われます。彼ほどの人でもよりすがるものは必要だったのです。私はフランクルのそんな人間的な部分に親近感を感じます。
 同じように、ウェーバーや漱石が精神を病み、体を壊したのも、彼らが超人でなかった証拠です。彼らはそれでも精神の力で持ちこたえ、何かをつかまえました。そこに私は感動するのです。(『「100分 de 名著」ブックス フランクル 夜と霧』 P.139~P.140)

じゃあ、また。

参考文献

 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?