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だから叫び続けろ、少年少女よ!

私はつい先日まで某引越し業者のアルバイトととして労働に勤しんでいた。「体を鍛えながら金がもらえるなんて割りのいいジムみたいなものじゃないか」と最初は楽観的に考えて働いていたのだが、辞める前に感じたのは、労働に対する虚しさと、少しばかりの悲しさだった。

何も僕は仕事そのものが嫌だったわけではない。暴言残業なんて当たり前の超ブラック企業で労働も時給の割に過酷だったが、もしその大きな虚しさがなければ、僕はだらだらと続けていたのかもしれない。金払いは格段にいいわけではないが、それでもたまに客からもらえる「ご祝儀」や「お昼代」などの臨時収入、過酷な現場を社員と切り抜けた時に生まれる絆のような連帯感、そして何より本当に重いものを運ばなくていいという数々の利点は、僕をそこに引き止めるには十分だと思われた。

だが作業が終わって帰路に着く4トントラックのなかで、見慣れたはずの街並みを車窓から眺めながら隣に座る彼ら「社員」のことを思うと、何故だかやるせない気持ちになっていくのだ。

あまり詳しく書くと訴えられるので詳細は省くが、この某業者の社員、基本給が月数万円で、そこから件数によって「ボーナス」が発生する。ところがこのボーナス、一ヶ月に100件超えて初めて貰えるというではないか。一ヶ月の出勤が20日と仮定すると、一日最低5件という計算になる(これは僕の憶測ではなく、正社員の人に教えてもらったことである)。バイトの僕は時給制だが彼らは俗にいう歩合制、どんなに夜遅くまで働いても、残業手当がつく私と違って一円にもならない。おまけにシフトが確定するのはバイトと同じく三日前ときた。根幹は体育会系なので朝の朝礼などは大声で行うのだが、それでもどこか社員たちの目にはやる気がなく、「やめたい」「辛い」「だるい」と嘆く言葉は短い間に何百回も聞いたものだ。たまの休憩にはタバコを吸い、更衣室では酒か女かギャンブルの話で盛り上がり、客への不満やバイトへの八つ当たりでストレスを発散する。レーニンが想像するであろう「ザ・労働主義者」とも言える彼らに僕は、一抹の寂しさを覚えたのは、何も彼らと僕の境遇を比べて見下しているからではなく、彼らにはできない生き方が、僕の選択肢に含まれているからだったに違いない。

某引越し業者の社員の大半は地元でもそこまで偏差値の高くない高校出身者だった(誤解しないでいただきたいのだが、僕は何も高卒を見下しているわけではない。これは仕事で一緒になった数人の社員に聞いて確かめた「事実」である)。終わりなき成果なき喜びなき労働に従事する彼らがその場所に止まり続けるのは、何も彼らの明確な意思ではない。学というただ一つの物差しで勝手に「人間性」を測られた結果、ふるいにかけられて「ロクでなし」のレッテルを貼り付けられ、残った健全な肉体を生かす場所が太古の昔僕らがまだ狩りをしていた時代には大いにあったはずなのに、理性が優先されて知性がその地位を確立させるクライテリアになってしまった今、肉体の活躍する場が限定されてしまっているのからだ。結局そうした「五体満足ならば誰でもできる」というハードルを一番低く設定された仕事は「底辺」として認知され、彼らは他に選択肢がないものだからそこで仕事をせざるおえない。僕たちは学校で「頭の良さ」、それはただ勉強ができるだけというある一つの才能に着目した言葉だが、その言葉を勝手に目指すべきものとして押し付けられ、何故だか高卒が恥ずかしいものとして認定される。挙げ句の果てに勝手にピラミッドを作り、そうした肉体労働者をその下の方に位置付ける。それが当たり前になっている世の中で、いくら「平等」と叫んだところで、それは暖簾に腕押しではないのだろうか?

だが悲しいかな、僕はその社会的物差しに当てはめると、「上」の方である。勘違いして欲しくないのは、僕は自分のことを「頭がいい」などとは思わない。様々な哲学者や人類学者、さらには身近にいる先輩や後輩の思想に触れるたびに「ああ、なんて自分は頭が悪いのだろう」と痛感させられる。大学のブランドは確かに輝かしいものかもしれないが、あんなチンケな内容で馬鹿みたいな授業料をとるのだから、家に籠もって書物を読み漁る方がずっといいとさえ思えるほどだ。

だがそれでも、その大学の名前だけで、僕は最近某予備校の採点バイトに合格できた。その予備校はそもそもの基準に「東京大学・京都大学・旧帝国大学」などと設けており、一次審査で受けさせられる試験ですら通過儀礼のようなものである。そうしてなんとか一次審査に受かった私を待っていたのは、自宅でできる時給二千円の労働だった。

朝六時に起きて汗水垂らして何時に終わるかもわからない時給1000円の過酷な肉体労働と、家でゴロゴロしながらマニュアルに従いながらのんびり採点して時給2000円の労働、どちらがいいかなんて明白である。僕はできるだけ楽がしたいものだから後者を選んだが、彼ら引越しの正社員には、この選択肢が初めから存在しない。どんなに独学で学ぼうとも、学歴だけで弾かれる。僕の先輩も大学を中退した後数年後に再受験したが、辞めた理由をネチネチと面接で聞かれ、結局不合格になったそうだ。そうやって「学のない物」、「学からはみ出た物」は社会からのけもとして扱われ、誰もやりたいと思わない労働を渋々行わなくてはいけない。「僕は将来大きくなったら引越し業者の正社員になりたいです」と将来の夢文集で書く幼稚園生がいただろうか。みんなが子供の頃なりたいのは宇宙飛行士とかサッカー選手とかお花屋さんとか芸人ではなかっただろうか。そうして現実を見つめるにつれて僕たちはこの最低な世界を直視しなくてはいけなくなる。「学」だけを基準に作った最低な社会を。

僕は頭にきているのかもしれない。この社会の姿について。いや、本当はそうではない。僕は僕自身に怒っているのだろう。薄々気づいていたことなのだ。「異邦人」だって「審判」だって、そういった社会のあり方がテーマだったのではないだろうか。「不条理」、「理不尽」とも言い換えることのできるそれは、もはや社会の至る所に蔓延している気がする。多くのリベラリストが高学歴な理由がよくわかる(もちろん全ての高学歴がそうではない。時間を惜しみバイトをしながら家族のために大学に行くもの、世俗を無視しある一点の学問のために全てを捧げるもの、「知識」が全てではないと切り捨てロックに人生を歩むもの、彼らにとって「大学にいる」ことになんら価値などないのだ。何故なら彼らからすれば大学など一つの「場」に過ぎず、彼らには彼らの歩む人生の荒野が見えているからだ。僕がここでいうのは、大した苦労も知らずに大学に入り、少し学問をかじったからといって偉そうに他人に説教をたれ、あまつさえ半端な知識で世界を知った気になっている連中である)。彼らは理想のみを掲げているに過ぎないのだ。ジョナサン・ハイトは「何故社会は左と右に分かれるのか」にて次のようなことを述べている。

「国も宗教もない世界を想像してみよう。私たちを隔てる国境や境界を消し去ることができるなら、世界はきっと「一つ」になるだろう。これはいわばリベラルの天国だが、そんな世界はすぐに地獄と化すはずだと保守主義者は考えている。思うに保守主義者の直感は正しい」ージョナサン・ハイト

道徳真理や宗教、部族などの「マルチレベル選択」が、いかにして大規模な社会の発展へと繋がっていったかは、今日の社会学研究にて様々な論文が示しているとこである。そしてリベラルがその集団や内部構造を破壊し「自由」を得ようとするならば、道徳資本すらも失われるだろう、とジョナサン・ハイトはいう。つまるところ、我々は抑圧されているようで実はその構築されたシステムに守られているのだ。もちろん全てのしきたりや風習が守られるべきものではない。功利主義でおなじみのJ・S・ミルも、保守主義もリベラルも、健全な政治には必要不可欠だと説く。我々はシステムを守りながら、少しづつ改革していかなくてはならないということだ。だがリベラルたちは、あまりにも宗教だとか国家だとかを卑下し、まるでそこから生まれる連帯感や忠誠心が悪であるかのように罵る。ならば「小林さんちのメイドラゴン」で自らメイドになりたいと「隷属」を選んだ盗賊の少女の願いは「悪」なのだろうか。神や集団を心の拠り所とするものは、「弱い」連中なのだろうか。誰もが自由に生きれる社会など断言しよう、そんなものは絶対にありえないのだ。何故ならば僕たちは見えない邪悪か何かに支配されているわけでも束縛されているわけでもないからだ。僕たちが自由を交換しているのは、何を隠そう「他者」である。そして僕たちが資本主義という「まやかし」のなかで個々の繋がり分断されているから「孤独」だ「一人」だと錯覚させられているが、本当は蜜蜂やありのように「集団」の中で社会を形成し、他者と「共に生きる」生物なのだから、誰かのために自分の力を使うことは当たり前のことなのだ。それなのに自己ばかりを肥大化させ、さも自分が世界の中心にいるような傲慢な考えにたどり着いた結果「人はもっと自由であるべきだ」などと嘘ぶく腐った連中は、知識ばかり蓄えて、結局自分はそのピラミッドの上の特権の甘い汁を吸い続け、下流階級の人たちに寄り添うのなんて口ばかりで、本当は自分勝手な不自由さを取っ払いたいだけなのだ。釈尊の言葉「我唯足知」は「どんな人にも、平等に悩みがあり、どんなに望むものを手に入れようとも、その悩みが尽きることはない」というところから転じて「なれば私は、今生きていることが全て足りていることであると知る」という考えに至ったものであるが、彼らはそんなことすら満足に認識できていない。もちろん人間は利己的である。だがリバタニアンがいつも忘れているのは、同時に人間が「利他的」でもあるということだ。そしてそれは僕たちが「社会」というコロニーの中で生きている以上、必ず存在する本質である。「人間とはこうである」と勝手に定義づけ、知識だけで人や社会を判断する「典型的な高学歴」な連中には、なかなか理解されえない話である。

だが事実として、学歴というのは、未だこの日本社会に根付く習慣である。いくら私がここで叫ぼうとも、その事実が揺らぐことはない。それは私が大学で得た知識から学んだことではない。僕が先ほどから批判している「知識」とやらは、誰かの言葉を書物やネットから引用し、さも自分の言葉のように論じる「盗まれた」言葉たちである。そしてその知識に変わるべくものとして、いや、本来僕たちが知識の前に先立って触れるものとして「経験」というものがある。僕があの引越しのアルバイトで「学んだ」のは、知識からではなくこの「経験」からである。ならばもし「知識」に先立って「経験」があるのだとしたら、僕たちはこの「学歴」=「健全」な風習を裏付ける「経験」がどこかにあるのではないだろうか。

残念ながら、そんなものは存在しない。というか、読者諸君に思い出していただきたいのだが、あの義務教育の勉学が「健全」な学びであっただろうか。あの「大学受験」とやらが「健全」であっただろうか。少年少女たちの心を挫き、体調を悪化させ、挙げ句の果てその手柄は大人たちに回収される「団体戦」だと嘯いて孤独な戦いを強いているあの状況が、「健全」であっただろうか。科目以外の特筆した才能を否定し、全てをあの数科目の中に還元させ、その人の能力値や人間性を測ろうとすることが、「健全」であっただろうか。いい大学に入るのは、いい仕事に着くため、自分を押し殺させ、誰が作ったかもわからない「人並みの幸せ」なる基準に人を押し込めることが、本当に「健全」なのだろうか。

そんなもの、健全なわけがない。大体もし高学歴が健全なのだとしたら、旧東京帝国大学(現東京大学)を卒業した芥川龍之介が自殺などするだろうか。旧制弘前高等学校文科甲類に優秀な成績で入学し、後に旧東京帝国大学に入学した太宰治が、あんな自堕落で最低な生活をした挙句、愛人と入水自殺などするだろうか。旧制一高(現東京大学教養学部および、千葉大学医学部)の藤村操が、17歳でこんな辞世の句を残して逝くだろうか。

「ホレーショの哲學竟に何等の
オーソリチィーを價するものぞ。萬有の
眞相は唯だ一言にして悉す、曰く、「不可解」。
我この恨を懐いて煩悶、終に死を決するに至る」ー藤村操

どんなに高学歴であろうと、苦悩というものは人について回るものである。「不可解」とは、そんな優秀な知識を持ってしても解決できなかった世界に対する見事な形容詞だ。どんなに頭が良くても、この世界で生きている以上、僕たちは悩み続けなくてならない。そして、もがき続けなければならないのだ。ならば本当に必要なのは、使えるかどうかもあやふやな知識よりも、僕たちの身体や精神、さらには感覚に根付いた「経験」というやつなのではないだろうか。

ところで上妻世海氏は、著書「制作へ」にて、中村雄二郎のこんな言葉を引用する。

常識とは、私たちの間の共通の日常経験の上に立った知であるとともに、一定の社会や文化という共通の意味場のなかでの、わかりきったもの、自明になったものを含んだ知である。ところが、このわかりきったもの、自明になったものは、そのなんたるかが、なかなか気づきにくい。常識の持つ曖昧さ、わかりにくさもそこにある。ー中村雄二郎

結局「常識」という知識のような概念すらも、経験が先立つ、ということである。その常識が何故常識たりえるのか、その気付きは、僕たちの日常生活の中での経験に拠るものである。そしてその常識を疑うのも、その常識に「気持ち悪さ」を感じるのも、経験ゆえの感覚なのだ。常識とは大きな経験の集合知であると同時に、個人が有する特権的な知でもあるのだ。いくら僕たちが「常識なんて」と反抗精神を見せたところで、この常識とやらは必ず僕たちについてまわる。何故なら僕らは個人的な生き物であると同時に、社会的生き物でもあるからだ。社会的側面がある以上、この「常識」から逃れることはできないし、逃れる必要もない。僕たちを統制している、と言えば言い方は悪いかもしれないが、僕たちを繋ぎ止めていると言ったらどうだろう。少しは常識というやつに同情心が芽生えるのではないだろうか。

さて、堂々巡りになっているような気がするが、僕はこの社会を嘆くと同時に賛美するし、労働者階級の生き方に同情するとともに自分も本当はそこに属しているはずなのに、俗にいうエリートの生き方に嫌悪感を抱く。昔夢見た「自由と平等」などという理想郷は、何も甘美な空想ではなく、「人間」という生命をよく知らなかった無知ゆえの愚考であった。そして僕はそんな肉体労働者にはなれないけれど、同時にそうした人たちを必要とする人間が一定数いる以上、「学力」ではかるという方法は実は古代文明が生み出した集合的経験知、「常識」なのかもしれない。

僕はどうすればいいのだろう。これではまるでオスカー・ワイルドの「ドリアングレイの肖像」に出てくるヘンリー卿だ。意見をすぐに矛盾させ、まるでこの世の中を「読者」のような俯瞰した目で見つめるその姿勢は、最近ハマっている海外ドラマ「LUCIFER」の主人公ルシファーをも彷彿させる。何が正しくて、何が間違っているかなんていう二元論的問いはこの際なんの役にもたちはしない。正義なんて語ったところで、政治家の不正が消えることも、カルト宗教なくなることも、殺人も、浮気、ストーカーも、労働者への差別も、行き過ぎた愛国心も、消えることなんてない。それはそうだ。そもそも正義がそもそも不確かで、正義の対局はまた誰かの正義に過ぎないのだから。

ならばどうして僕たちは道徳を考えるのだろうか。

何故僕たちの心には悪を許せない気持ちがあるのだろうか。

何故理性などという考える力があるのだろうか。

それらに答えなんてないのかもしれない。「進化」というプロセスの中で、いるかのヒレやイカの吸盤、ライオンの牙やクモの糸のように勝手に進化したものに過ぎなくて、それ以上でもそれ以下でもないのかしれない。

社会はきっとこのままでいいのかもしれないし、同じくらい変わらなくてはいけないのかもしれない。学歴が作ったピラミッド、学歴が作ったユートピア、学歴が作った歴史、そんなものはあって当然で、なくなって当然で、でもどっちでもなくて、結局どうでもいいのかもしれない。

それでも僕らは生き続ける。理由も意味も本当は必要のないこの世の中で、自分の足で生き続けなくちゃならない。誰かに不満を言うことも、ストレスを発散させることも、偽善者の皮をかぶることも、生きるためなら本当ならいいのかもしれない。

でも、いやだからこそ、僕らは叫びつづなければならないのだ。SNSで、自分の作品で、絵画で、行動で、そして言葉で。

経験と身体と世界との触れ合いの中で生まれる、「心」という奴を。

「間違えたっていいんだ、君らしく叫んでやれ」

とStance Punksが「すべての若きクソ野郎」の中で叫んでいたが、そうだ、社会がなんだって言うんだ。個人と集団がなんだって言うんだ。僕たちが確かじゃないことなんていくらでもあるじゃないか。どんなに高学歴だって、わかんないことばっかりじゃないか。だから僕たちが誰もが持つ、自分への愛と他人への思いやりを兼ね備えた心という指針にしたがって生きること、ひいては「君らしく生きる」こと、それが本当は一番大事なのではないだろうか。

何も僕は自己啓発的なことを言っているつもりはない。それは「自分勝手にふるまえ」と言うことではない。他者を愛し、自分を労り、世界に対して熱いキスを送りながら一方で両手で中指を立て、勝てないと分かっていても大自然に立ち向かい、誰かの悲しみにともに泣き、誰かの喜びをともに分かち合い、裏切られてもそれを笑って流し、それでも真っ直ぐな目で、自分の足で真っ直ぐに歩いていくことなのだ。僕たちは聖人にはなれないし成功者になれなくたっていい。それでもそんな「真っ直ぐ」なやつに、僕たちはなれなくちゃいけないのだ。誰に何を言われたって構わない、座って笑っている奴らなんて気にしちゃいけない。その「心」が、経験によって磨かれた「心」が、きっと君を導いてくれるから。

だから少年少女よ、感動せよ。怒れ、泣け、笑え。失恋には寂しいと号泣し、喧嘩している友には憎いと言って拳を振り下ろし、間違っていると思ったものにはどんな理論武装をされても間違っていると叫んでやれ。君たちは一人じゃない。そして君たちの心が思うことは、ポエマーなんてばかにされるようなものじゃない。人として、生きている命として、そうして生きている証として、確かにあるものだから。

君よ、君たちよ、忘れないでくれ。心ある限り、叫びつづけろ!

そして叫び続けている限り、生き続けるんだ!

それが僕たちが生まれてきたからにはしなくちゃいけないことだから。

それが、こんな理不尽な世界で僕たちが生きていていく、唯一の方法だから。

それが、僕や君や彼ら彼女らを想える、唯一の方法だから。

君に、僕に、そして君たちに、栄光と幸あらんことを。

佐々木 


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