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短編小説『神に恋した島』

たった一人の美しい人へ。

・総字数約24,000文字。30分程度で読めます。
・孤独な女の子が若い神父と短い旅をする話です。


 その神父の祈る姿は、神様に似ていた。神様は祈られる側なのに、祈る姿が神様みたいだなんて変だと渚は思ったが、やはり何度見ても、姿勢をまっすぐにして目を伏せ、胸の前で十字を切って「アーメン」と呟く彼は、頭のてっぺんから爪先まで何者にも汚されないような清廉さに包まれていた。

 祭壇の背後にある細長いステンドグラスの窓から、春の陽光が優しく射し込んでいる。その柔らかい光はガラスを通って赤や青の色をまとい、神父の背を照らしていた。その光景によって、彼はいっそう神聖なものとして少女の目に映るのだった。

「全能の神、父と子と聖霊の祝福が、皆さんの上にありますように」

 神父が透き通るような声で告げたあと、教会に集まった信徒たちはめいめいに「アーメン」と祈りを捧げた。渚は最前列にいるにも関わらず、ただ聖書を持って突っ立っていた。

「では閉会の歌を歌いましょう」

 神父がそう告げると、修道服に身を包んだ初老のシスターがいそいそと歩いてきて、オルガンの前に腰かけた。

 オルガンの柔和な響きと、信徒たちの大小さまざまな声が生み出す聖歌を、神父は微笑みながら聴き、自分もまた歌っていた。渚は歌の輪に入らず、ただ黙って神父を見つめていた。床に敷き詰められた深紅の絨毯に、彼の着ている真っ黒なキャソックがよく映えている。

 この神聖な空間で美しく祈り歌うこの人は、聖書の中の神様よりも神様なのだと、渚は固く信じていた。イエス・キリストも神の奇蹟も、彼女にとってはどうでもよかった。ただ、日曜日に会えるこの年若い神父だけが、彼女の薄暗い世界の中で唯一、救いの光を放っていた。

 聖歌が響き渡る中、渚は小さなため息をついて手に持っている聖書を見つめた。彼が自分のことなど気にも留めていないことはわかっているし、それでいいと思った。彼女のため息は分厚い聖書の中に吸い込まれていく。聖なる書物は、まだあどけない彼女の手には少しだけ重かった。

「それでは、本日のミサはこれにて終了いたします」

 神父の宣言とともに、教会の中は少しずつざわつき始めた。隣人と話す人、席を立って足早に帰る人、老若男女さまざまな人の声が礼拝堂にこだました。

 渚も帰り支度をしていたが、ふと自分の目の前で黒い靴が立ち止まったことに気づき、思わず顔を上げた。

「最近よく来てくれていますね。ミサはどうでしたか?」

 彼女の目の前に、聖書を小脇に抱えたまま神父が立っていた。まだ椅子に座ったままの渚に目線を合わせて中腰になっているため、黒いキャソックの裾が床についている。

「あ……」

 目を見開き、胸がいっぱいになった渚は、何も言うことができなかった。神父は渚の瞳をまっすぐ見つめ、微笑んで続けた。

「何かあったら、いつでも相談してくださいね」

 自分の顔に貼ってある大きな絆創膏を見て言っているのかと渚は思ったが、それでも彼の世界に一個人として自分が映ったことが嬉しくて、目を潤ませながら「はい……」と蚊の鳴くような声をやっとひねり出した。

 もう一度にこりと笑った神父は中央の道を歩いて行き、他の信徒たちに声をかけ始めた。気難しそうな老人からも、小太りのマダムからも、親に付いてきた子供たちからも心を寄せられている様子の彼を見て、やっぱり神様みたいだと、渚はまだ熱が冷めない瞳でぼうっと見つめた。

 新しく来た神父はまだ年若いのにずいぶんしっかりしている、おまけに見目麗しいと近所のおばさんに聞かされたのは、去年の今頃のことだった。まだ二十歳そこそこらしい彼は、毎日の祈りを欠かさず、いつも微笑んで決して怒らず、信徒だけではなく町中の全員に優しく、噂通りの理想の神父だった。神様になんて興味はないけど、もっと早くこの教会に来ればよかったかもしれないと、渚は少し後悔した。静かで、厳かで、あの神父がいるこの教会は、渚にとってたった一つの心の拠り所だった。

 帰り支度を済ませた信徒たちが戸を開けた。その瞬間、花の香りを乗せた春の暖かい風が教会の中に入り込んだ。信徒たちに混ざって外に出た渚は、石塀から身を乗り出した。高台の上にあるこの教会からは、町を一望することができる。青色や茶色の瓦屋根の上に、今年最後の桜が花を散らしていた。南から吹く暖かい風は再び教会へと向かい、渚の短い黒髪を揺らした。春が終わろうとしていた。


 町で買い物をした渚が帰宅する頃には、もう日が傾き始めていた。夕日に赤く染められた町の、誰もいない路地をとぼとぼ歩いて行く。あまり日が当たらない通りの一角に、彼女の家はあった。

「……ただいま」

 返事はない。父は今日も、弟の病院に寄ってから帰宅するのだろう。渚は軽くため息をつき、小さな祭壇の上に置かれている母の写真を一瞥したあと、荷物を置いて部屋の電気をつけた。

 一人で夕飯を済ませた渚は、食器を片付けると自分の部屋に引っ込んだ。小さな六畳の部屋は、電気をつけてもどこか薄暗いような気がする。隅にある落書きだらけの机の上には、埃をかぶった教科書が雑然と積み上げられていた。

 渚はそのままくたびれたベッドの上に寝転び、教会でもらった聖歌の本を手慰みにパラパラとめくった。知らない歌、聞いたことがある歌、さまざまな歌が書かれていたが、どれも神を讃えるための歌だった。最前列で聞いた神父の歌声を思い出し、少しだけ幸せそうに微笑んで、渚は眠りについた。

 物音で目が覚めたのは、真夜中零時を過ぎた頃だった。居間の方に歩いて行くと、帰宅したばかりの父親と鉢合わせた。継ぎ接ぎだらけのジャケットから、糸が何本か飛び出している。

「ああ、寝てたか」
「うん」

 一言だけ交わしたあとは、父親の荷物を整理するガサガサという音だけが、乾いた部屋に響いた。少し病院の匂いがする。薬でいっぱいの、子供が嫌がりそうな匂いだった。

「あの……貴志は?」
「今日は具合良さそうだった。まだ退院はできないらしいが」

 床に屈んだままの体勢で父親が答えた。渚は、今ごろ病院で寝ているであろう、十も年の離れた弟を思った。

 荷物を整理し終えた父親が、一息ついて渚に尋ねた。

「お前は? 今日はミサの日だったろう」
「うん」
「ちゃんとお祈りしてきたのか?」
「うん」

 嘘をついた。神への祈りなど、彼女はろくに捧げたことがない。

「それならいい。明日は学校行くんだぞ」

 それだけ言うと、父親は寝室に歩いて行ってしまった。時計が秒針を刻む音がする。食卓の白熱球が放つ暖色の光が、廊下の薄暗い闇と混ざって、虚ろな空気を作っていた。

 祈りなど無意味だ。それが、十四年生きてきた渚の出した結論だった。お金が欲しいと祈ったときも、おいしい食事が食べたいと祈ったときも、もっと幸せな場所に生まれたかったと祈ったときも、神様は何もしてくれなかった。病床の母親が死に向かっているときでさえ、もう寂しいのは嫌だといくら祈っても、何も変わらなかった。母はそのままこの世から去った。

 渚の心が、きゅうと音を立ててしぼんでいく。この心許ない感覚が、彼女は嫌いだった。皆が自分を置いていってしまうような感覚が、心を掴んで離さない。あるいは、自分がその感覚を手離せないのかもしれないと思った。父も弟も、天国にいる母でさえ、自分のことがどうでもいいのではないかと、いつからか思うようになった。こんな最悪な状況で神に祈るなんて惨めだ。無意味だ。祈りは心が平穏な人に許された行為だ。あの人のような。

 こちらに目線を合わせ、微笑みながら話しかけてくれた今朝の神父を思い出した。この町で、この世界で、彼だけが輝いているように思えた。


 一週間ぶりに制服に着替えた渚は、埃を払いのけた教科書を鞄に詰め込んだ。学校に行く意味がわからなくなり、ここ最近は週に一度、多くて二度しか登校していない。制服を見ると、スカートに大きな皺が一本ついていたので、手で無理矢理ぴんと張った。

 空は曇っていた。昨日の強風は収まっていたが、桜が残した香りが鼻をくすぐり、渚は少し表情を緩めた。

「あ、本町」
「あ、ほんとだ。めずらしー、今日は登校日ですかあ」

 聞き覚えのある声が耳に入り、渚の表情は再び固くなった。二人組の学ランが、にやにやしながらこちらに近づいてくる。同じクラスの男子たちだった。相手をするのも馬鹿馬鹿しかったので、渚は無視して歩を進めた。

「無視かよ。あ、昨日お前の父ちゃん見たぜ、超ぼろいカッコしてんの」

 渚の身体の中で、血液の温度が上がり始めた。相手にしてはいけないと自分に言い聞かせ、緩い坂道を上っていく。学校まであと五分だ。

「弟まだ入院中なの? 貧乏だからいいもの食えてねえんじゃん」
「母ちゃんもそれで死んだんだろ?」

 その瞬間、頭の中で何かがはじけて、気がついたら渚は二人のうち一人の胸ぐらを掴み、思いっきり殴り飛ばしていた。

「て……てめえ何すんだよ!」

 突然のことに気圧されたもう一人が吠えたが、渚はそちらにも同じように掴みかかった。殴ろうとしたが、向こうの方が力が強い。体勢を崩されながら、渚は相手の足を引っかけて転ばせた。転ばせる瞬間、男子の爪が渚の顔をかすり、頬にピリッと痛みが走った。

「やめなさい!」

 不意に鋭い声がした。渚も男子も驚いて振り向くと、いつも優しい顔で微笑んでいる神父が、険しい顔で立っていた。

「何をしているんですか。暴力は恥ずべきことです。学校に連絡させてもらいますよ」

 足早に歩いてきて渚との間に割って入った神父を見て、転ばせられた方の男子が騒ぎ立てた。

「こいつが悪いんだぜ! 俺たち何もしてないのにいきなり殴りかかってきたんだ」

 その言葉を聞き、神父は彼の瞳をじっと見つめた。何もかも見透かすような静かな剣幕に射られた男子は、みるみるうちに小さくなっていく。

「神はすべて見ていますよ。誰かを傷つけることをしてはなりません」

 神父の表情はいつもの穏やかなものに戻っていた。しかし、彼の瞳の奥で燃える小さな怒りの炎は、男子を捉えて離さない。先ほどの渚への侮辱が知られていると気づいた彼らは、なんだよ! 神様なんていねーし! と捨て台詞を吐きながら学校に走って行った。

 呆れたようにため息をついた神父は振り返り、道路の上に座り込んでいる少女を見た。

「貴女は……」

 渚の肩が大きくびくっと揺れ、次第に小刻みな揺れに変わった。神父は昨日そうしたように、しゃがみ込んで彼女と視線を合わせようとした。

「ミサに来ていましたよね? ここの生徒だったんですか」

 静かな炎を瞳から消した彼の表情は、すっかり優しさを取り戻していた。それでも、渚は顔を上げることができなかった。次第に熱い涙が目に溜まり、アスファルトに数滴の染みを作った。自分の醜態を、彼に見られてしまったことが何より恥ずかしかった。揶揄や罵声を浴びせてくるクラスメイトとの喧嘩など慣れたものであったが、これほど暴力を後悔したのは初めてだった。「いつでも相談してください」と言ってくれた彼の尊い心を踏みつけて、こんな形で迷惑をかけてしまった。加えて、男子たちの言葉から、自分の家の恥ずべき状況を彼に知られてしまったことも耐えがたく、彼女の後悔と恥を乗せた涙は次々と溢れ出て止まらなかった。

 神父は彼女の様子を見、しばらく考え込んでいたかと思うと、優しく肩に手を置いた。

「もしよければ、教会に来てもらえませんか? 学校はいいですから」

 渚は顔を上げた。真っ赤に充血した目がまん丸に見開かれている。神父はぽかんとしている彼女の手を取り、他の人には内緒ですよ、といたずらっ子のように笑って見せた。


 月曜日の午前十時の教会は、ずいぶんと静かだった。日曜日のミサのような賑わいはなく、絨毯の上を歩く神父のトッ、トッという足音がやけに響いて聞こえる。外の音に耳を澄ませば、窓の外で鳴いている鳩たちの声に混じって、学校のチャイムが小さく聞こえた。不思議な背徳感と優越感を覚えた渚は、神父に促されるまま、聖堂の脇にある小部屋に入った。初めて入る部屋だった。

「神父、お茶を入れましょうか?」
「ええ、お願いします」

 昨日オルガンを弾いていた初老のシスターが顔を出し、神父の返答を聞くとにっこり渚に笑いかけ、またどこかへ歩いて行った。

 小部屋の中には小さなマリア像が置いてあった。乳の優しい匂いが香ってきそうなその像は、穏やかな笑みを浮かべて渚と神父を見つめている。像をしげしげと眺めている渚を見て、神父は彼女の前に腰かけた。木製の椅子がギッと音を立てた。

「さて、改めて自己紹介をしましょうか。私は柏木史郎と言います。どうぞよろしく」

 この状況にまだ完全についていけていない渚は、慌てながら頭を下げた。

「あ、あの、本町渚です。よろしくお願いします」
「先ほどは勇敢な戦士のようだったのに、ずいぶんおとなしくなっちゃいましたねえ」

 神父の冗談に渚は顔を真っ赤にしたが、神父は年の離れた妹でも見るかのように、微笑ましそうに笑っていた。

「まずは手当てですかね。ほっぺ、痛いでしょう?」

 そう言われて初めて、渚は先ほど引っかかれた傷のことを思い出した。意識すると途端にズキズキと痛む。触ってみると、止まりかけの赤い血が指に付いた。

「貴女に殴られた彼も心配ですが、まあ走れてましたし、大丈夫でしょう」

 沁みますよ、と一声かけ、神父は消毒液を浸した脱脂綿を渚の頬の傷に当てた。ピリッと痛みが走ったが、渚の意識は目の前の神父に持って行かれていた。彼がまばたきをするたびに、長い睫毛が頬に影を落とした。男の人の顔をこんなに間近で見たのは、初めてだった。

「これでよし。とりあえず絆創膏を貼りましたが、痛まなければ今夜にでも取ってしまってください」
「ありがとうございます」

 救急箱を手際よく片付ける神父に、渚は神妙に礼を告げた。神父は棚の中に救急箱を戻すと、椅子に戻ってふうと息を吐いた。

「さて、本題に入りましょうか」

 怒られるだろうか、と渚は身構えたが、神父の口から出てきたのは突拍子もない言葉だった。

「実はですね、再来週から離島に出張に行くのですよ。大学生の教会実習の面倒を見なければならなくて」
「は、はあ」
「しかしこの教会で動けるスタッフは、私と先ほどのシスターしかいません。それでは足りませんので、どなたかボランティアを募ろうということになりまして」
「……はい」

 まさか、と渚が思うのと同時に、神父が白い歯を見せて爽やかに笑った。

「その役目を、務めてもらえませんか。本町渚さん」

 急で申し訳ないんですが、と付け足して神父は渚をじっと見つめた。突然のことに何が何だかわからないまま渚が何も言えないでいると、コンコンと木製の扉を叩く音が聞こえた。

「どうぞ」

 神父が告げると扉が開いた。シスターが穏やかな顔で部屋に入り、慣れた手つきで二客のティーカップを神父と渚の前に置いた。カップの中から、甘くて香ばしい良い匂いがする。渚が覗き込むと、夕方の海のような色をした紅茶が、天井に吊り下げられた電球の光を反射して煌めいていた。

「この方……本町さんにあの話をお願いしたんですよ」

 神父がシスターを見上げてそう告げると、彼女は目尻の皺を深くして、

「まあまあ、こんなに可愛らしいお嬢さんが」と優しそうに笑った。
「どうでしょう、本町さん。お嫌でしたら無理にとは言いませんが」

 再び神父に問われ、渚は戸惑ったが、内心で答えは出ていた。教会の仕事になど興味はないが、この牢獄のような町を出られるのなら何でもよかった。何より、この神父に必要とされているという事実は、彼女の心に光を射した。渚は膝の上で両の拳をぎゅっと握り、神父をまっすぐ見つめて言った。

「よ、よろしくお願いします」


 晴れ渡る空の下、三人を乗せたフェリーが出航したのは、それから二週間後のことだった。船になど一度も乗ったことがない渚は、初めての遠出に目を輝かせていた。「甲板に出ませんか」という神父の提案で、三人は風の吹き付ける中、フェリーが波を切って進む様を目の当たりにしていた。

「船なんて久しぶりに乗りましたわ。晴れてよかったですねえ」

 帽子が飛ばされないように頭を押さえたシスターが、空を見上げて呟いた。四月も終わりの晩春の空は、このまま見ていたら吸い込まれてしまうのではないかと思うほど青く、地平線の向こうまで雲一つ浮かべていない。海はその空よりも青く、穏やかな風を受けて時折白い飛沫が舞っているのが、甲板から見えた。潮の香りが三人の鼻をくすぐった。

 生まれ育った町が、もうあんなに遠い。離れて見るとひどく小さく感じる故郷を、渚は船の縁に捕まりながらじっと見つめていた。神父はそんな彼女の様子を見て、同じように本土を見つめながら話しかけた。

「学校には私から連絡しておいたので大丈夫ですよ。一ヶ月間の留学ということにしてもらいました」

 あなたのお父様も承諾してくれてよかった、と彼は付け加え、渚と目が合ったタイミングで、念押しのようにさらに一言告げた。

「他にも何か不安なことがあれば、言ってくださいね」
「いえ、何も……」

 渚がどぎまぎした様子で返答するのを見て、シスターが彼女の両肩に優し
く手を置いた。

「心配しなくても大丈夫よね。渚ちゃんには私がいますから」

 ね、と笑顔で渚の顔を覗き込んだシスターに、渚も照れくさそうに笑みを返した。

「ええ? 何です、いつの間にそんなに仲良くなったんですか」

 神父は風で乱れた黒髪を掻き上げ、目を丸くしてシスターに尋ねた。

「おばあちゃんみたいだって。ふふ、こんな孫がいたら私も嬉しくなっちゃう」

 シスターはわくわくした様子で、照れている渚の頭をそっと撫でた。

「なんだか私が仲間外れですね。私も渚さんとお呼びしても?」

 神父が少し腰を折り、渚の目をまっすぐ見つめた。彼の黒い瞳の中に、水面で反射した太陽の光がきらきらと映り込んでいる。渚は相変わらずどぎまぎしながら、はいと返事をした。

「よかった、これで私も仲間入りというわけです」
「神父は意外と負けず嫌いですものねえ」

 誰かとこんなに会話をしたのはいつぶりだろうと渚は思い返した。思えば、母が死んだ三年前からずっと、自分は薄暗い世界で生きてきたのかもしれない。晴れ渡った青空が疎ましくないと感じたのも久しぶりで、むしろ爽やかな旅情が自分の中に芽生えているのを感じていた。渚はもう一度船から身を乗り出し、どんどん距離が開いていく本土の町を見つめ、ぽつりと呟いた。

「もう町があんなに小さいですね」
「ええ。渚さんはこれが初めての旅行ですか?」
「はい。船に乗ったのも初めてです」

 それなら今日は絶好の旅日和ですね、と言って神父が笑った。

「……こうして見ると、良い町ですねえ」

 もう豆粒ほどにしか見えない本土の町を見つめ、神父がぼそりと呟いた。その顔を見上げ、自分にとってはあまり楽しい思い出のない町だが、神父にとっては違うのだろうと渚はぼんやり考えた。シスターを見ると、彼女は町ではなく、神父を見つめて物憂げな顔をしていた。


 数時間かけてフェリーは離島に到着した。港を後にした三人を迎えたのは、山々に囲まれた小さな集落だった。山に守られているようにも閉ざされているようにも見えるその集落は、岡の上から見下ろすとひどくこじんまりしている。集落の中心に、白い十字架が天に向かって突き立った建物が見えた。

「あれが、今から私たちが行く教会です。ここからだと歩いて二十分くらいですかね」

 神父が渚にわかりやすいよう指を差し、所要時間を確認するようにシスターに振り返った。

「そうですね。まだ時間にも余裕がありますし、ゆっくり歩いて行きましょうね」

 シスターの返答を合図に、三人は教会を目指して歩き出した。

 島の町並みは本土と異なり、同じくらいの背丈の民家が密集している。人気はあまりなく、島民は四、五人ほどしか見かけることはなかった。故郷で自分が感じていたものとはまた違う閉塞感を感じた渚は、思わず空を見上げた。嫌ではないけれど、なんだか静かで神秘的な空気がこの島には流れているような気がした。空はただ青く、広く、まるで天への道だけが開かれているようだった。

「神父さまだ!」

 突然、背後からあどけない声がしたかと思うと、ティーシャツと短パン姿の幼い少女がこちらに向かって駆けてきた。

「神父さまでしょ? 黒いお洋服で十字架かけてるもん」

 少女は神父を見上げ、きゃっきゃとはしゃいだ。手には誰かの手作りと思しき人形が抱かれている。神父はにこりと笑い、しゃがみ込んで少女に目線を合わせた。

「ええ、そうです。あなたはもしかしてこの島の信徒さんですか?」
「? わかんない。でもいつも日曜日にミサに行くよ」

 なら信徒ですね、と神父が頭を撫でると、少女は嬉しそうに笑った。かと思うとくりくりした目をキョロキョロさせ、渚と目が合った瞬間、彼女のもとに駆けて行く。幼い子ども独特のちょこまかした動きに、三人はほんの少し翻弄された。

「お姉ちゃんたちもミサ行くの?」
「いや、わたしたちは……」

 渚がとっさに返答できず狼狽していると、背後からシスターが優しい声色で説明した。

「ミサじゃないけど、教会に用があるのよ。お嬢ちゃんも一緒に行く?」
「うん、行く!」

 人なつっこい少女は渚にくっついたまま、三人に同行していった。渚の弟より少し大きいくらいの年齢に見える。渚は、人形のことや道端に咲いている花のこと、教会のことなどを少女に尋ね、くるくる変わる彼女の表情を微笑ましそうに見ていた。

「渚さんは子どもがお好きなんですね」

 神父が歩きながら振り向き、感心したように渚と少女を交互に見た。

「いえ、年の離れた弟がいるので、単に慣れているだけです」
「それでも小さな人たちの話をちゃんと聞けるのは、素晴らしいことですよ」

 神父に褒められると、胸の中がむずむずする。人に褒められることがあまりなかった渚は、どんな顔をすれば良いかよくわからなかった。

 教会に着くと、眼鏡をかけた壮年の神父が三人を出迎え、柏木神父に諸々の説明を始めた。長い話に飽きた少女は、教会の庭に駆けていって人形遊びを始めた。

「退屈しちゃったね」

 追いかけてきた渚が声をかけると、少女はでも待てるよ、と返した。よく見ると、彼女の首には小さな十字架がかけてある。

「ねぇ、あのさ」
「なにー?」

 少女は人形遊びに夢中になったまま返事だけをした。渚は構わず彼女に尋ねた。

「どうしてお祈りするの?」

 少女は飽きたのか人形遊びをやめ、渚のもとにとてとて歩いて彼女を見上げた。

「えー、わかんない。神さまがいるからお祈りしてるだけだよ」

 少女の瞳はまっすぐに渚を射貫く、無垢な光そのものだった。まだこの世に生まれ落ちて十年も経っていないであろうこの子は、意味もわからないまま、叶えたい望みもないまま、ただ祈っている。その事実は、渚の世界にすぐには受け入れがたいことだった。

「……そっか」

 おーいという声が聞こえた。神父二人がこちらを向き、シスターが呼んでいる。

「呼ばれたね。行こう」
「うん!」

 二人は神父たちの元へ駆けて行き、少女は眼鏡をかけた神父の足に抱きついた。彼は少女と顔なじみらしく、一人で出てきちゃだめだろう、おうちに帰りなさいと諭すと、少女は「やだぁ」と駄々を捏ねていた。

「これから夕方のミサがあるそうです。見学していきましょう」

 柏木神父の言葉を合図に、渚とシスターは彼に続いて教会に入っていった。

 島の教会は外観よりも広く、アーチ型の天井をしつらえた室内はよく音が響いた。しばらくすると何人かの信徒が訪れ始め、ミサの開始と共に教会の空気が荘厳なものに変わった。渚の故郷にあった小さなオルガンではなく、教会と一体化したような巨大なパイプオルガンが音を響かせる。天使が歌うとしたらこんな声なのだろうか、と渚は思った。

 控えの椅子に座り、渚は信徒一人一人の様子をじっくり観察していた。先ほどの少女のような小さな子連れ以外は年配の人が多いが、その誰もが、ぴったり両手を合わせ、切実な面持ちで神に祈りを捧げていた。真剣やひたむきといった言葉に収まらないほどの熱心な祈りは、神に心を捧げる人間そのものの姿を、強烈に渚の心に焼き付けた。

「神は神だけで存在するのではなく、祈る人間がいて初めて神として存在できるという考え方もあります」

 ミサが終わったあと、シスターが小さな声で渚にささやいた。

「この教会も、島の人口が少ないので信徒の数も多くはありませんが、彼らの祈りがあってこの地に成立してるんでしょうね」

 渚は黙り込んでいたが、迷うようにゆっくり口を開いた。

「……でも、ごめんなさいシスター、わたし、祈る意味がまだよくわからない。意味なんてないように思えるの」

 渚の小さな告白にシスターは一瞬驚き、何か諭そうと口を開きかけ、少し考えてやめた。そして、いつもの優しい口調で一言だけ渚に告げた。

「大丈夫ですよ、今はまだわからなくても」

 渚はシスターの顔をちらりと見て、晴れない顔のまま視線を戻した。

 海が近いはずなのに、波の音が聞こえない。教会の静寂は、信徒たちの祈りを乗せ、荘厳な尊さを孕んだ聖なる空気となって、そっと天に昇っていくようだった。


 三人は一ヶ月間の宿として、教会近くの元神学校の寮を一部屋ずつ与えられた。ベッドと机と椅子しかないシンプルな部屋だが、壁も床も傷や汚れ一つなく、窓から射し込む陽光が真っ白な室内を照らしていた。

「学校の校舎っていうからもっとこう……ボロボロなのかと思ってました」

 渚が感想を述べると、シスターがフフフと笑った。

「今は私たちのような教会のゲストの宿泊用にしているようですからねえ。快適な一ヶ月を過ごさせてもらえそうです」

 二人で談笑しながら廊下を歩いていると、神父の部屋のドアが開き、彼が顔を出した。

「二人とも、近くの浜辺まで行きません? ちょうど花の時期なんですよ」

 神父の提案で、三人は港と反対側の海岸を訪れた。晩春の海は穏やかだった。遠くに見える西の空は微かに赤らんでいたが、上空の空はまだ昼の青さを残している。その下には、船から見たのと同じ青色の海が水平線まで広がっていた。潮の香りが心地よい。

 東の方角には大きな山のような岩があり、青々とした苔の質感が離れた場所からでも見て取れるほどだった。浜辺は白く、それよりもさらに白い波がザザンと音を立てて打ち寄せては消え、海のリズムを響かせていた。

「わあ……」

 渚が感嘆の声を上げたのは海を見たからではなく、浜辺の手前に広がる桃色の花畑を目にしたからだった。

「すごい! 海なのにお花がいっぱい……」
「ハマヒルガオという花ですよ。ほら、形はヒルガオそのものでしょう」

 神父の言うとおり、天に向かってラッパを吹くような形の小さな花は、渚の知るヒルガオそのものだった。微かな甘い香りが、潮の匂いに混じって彼女の鼻をくすぐった。

「なるほど、浜に蔓を張っているんですねえ。見事ですこと」

 感心したシスターの横で渚が興味津々に花を眺めていると、海の方からぱしゃんと音がした。振り向くと、キャソックを脱いでシャツとスラックスになった神父が、裾をまくって足だけ海に入っていた。

「うーん、まだ冷たい。でも気持ちいいですよ」
「あらあら、お元気ですこと。さ、行ってらっしゃい渚ちゃん。私はここで見ていますからね」

 あれよあれよという間に海に送り出された渚は、神父と一緒になって浅瀬で海水と戯れた。だんだんと濃さを増してきた暮色が海を照らし、青かった海を橙色に染め上げている。神父はしばらく浅瀬の中で魚を探していたかと思うと、急に渚に向かって片手で救った水を投げた。

「わっ!」

 渚が驚くと、愉快そうに神父は笑い、やり返してこいとでも言うように手を自分に向けて振ってみせた。

 最初は遠慮がちに水をかけていた渚だが、だんだん普段の威勢が戻ってきて、二人はしばしの間本気で水をかけ合っていた。神父は心底楽しそうに、「ははは、もう一回」などと言って、男子学生のように無邪気に浅瀬を駆け回っていた。

「ほらほら、そろそろ帰りますよ」

 シスターが浜辺まで二人を呼びに来たのは、もう太陽が水平線に触れようとしているときだった。

「はあ、久しぶりに遊んだなあ。渚さん、大丈夫ですか? けっこう濡れちゃいましたかね」
「いえ、大丈夫です。わたしこそ、いっぱい水かけちゃって……すみません」

 渚はシスターにタオルで手足を拭かれながら謝ったが、神父は全く気にしていないといった風に無邪気な笑顔を見せた。

「端から見たらご兄妹のようでしたよ」

 にこにこと笑って神父にもタオルを差し出したシスターは、言ってから一瞬だけはっと何かに気がついたように顔を強ばらせた。神父はタオルを受け取って足を拭きながら、用事でも思い出したときのように、何気ない様子で笑った。

「あぁ、そういえば渚さんは博子と同い年ですね」

 そちらのタオルも私が持ちましょう、と渚から使用済みのタオルを受け取り、神父は寮に向かって歩いて行った。後ろからシスターと渚が続いた。

「シスター、博子って誰?」

 不思議そうな顔で尋ねた渚に、シスターは苦笑いしながら小さな声で答えた。

「神父の妹さんですよ。もう亡くなっていますが」

 水平線に飲み込まれ始めた太陽が、三人の影を長く伸ばしていた。島にまもなく、夜がやってくる。夕闇に響く優しい波の音は、渚の耳からしばらく離れなかった。


 島に来て一週間が経った頃、しとしとと雨が降り続いた日があった。皆で夕飯をとり、既に部屋に引き上げていた渚は、ふと聖書がないことに気づいた。おそらく、教会に忘れて来てしまったのだろう。窓から外を覗くと、夜の黒い空から雨粒が降ってきているのが見える。それほど強くない雨だったので、傘を持って部屋を出た彼女は、教会に向かった。

 雨の夜の島は、人の声がしない。もともと人口の少ない島だが、こんな天気のこんな時間に外を出歩いている人は皆無だった。水を含んだ土の上を、ぴちゃぴちゃと音を立てて歩いていると、後ろから誰かが付いてきているような気がする。渚は思い切って振り向いたが、ただ夜の虚空があるだけで、動いているものは雨の雫と自分以外、どこにも見当たらなかった。

 夜の教会は、思っていたよりも不気味だった。もう誰もいないのだろう、電気は当然ついていない。屋根の下に入り、教会のドアを目の前にした渚は、そこで初めて鍵が開いていない可能性を考えた。無駄足だっただろうか。傘をたたんだ渚は、半分諦めつつも木製のドアを押した。意外にも、ドアはギイイという長い音を立てて、聖堂までの道を開けた。渚は目を丸くした。

「だ、誰かいますかー……」

 中は暗く、ここからではよく見ることができない。もしかしたら誰かが鍵を閉め忘れたのかもしれないと思い、渚は暗闇に怯えながらも、そのままゆっくり中に入っていった。外の空気が教会の中に流れ込み、雨の匂いが充満した。

 懐中電灯を持ってくればよかった。そう後悔しながら、暗い聖堂の中を手探りで進んでいく。幸い、窓から外の光が少しだけ入ってきているので、ややもすれば目が慣れてくるはずだ。聖書を置いた場所はどこだったかとまた一歩踏み出そうとすると、前方でカチッという音がした。

「ひゃっ」
「おや?」

 渚は心臓が口から飛び出るほど驚いたが、そこに立っていたのは柏木神父だった。電池式の小さなロウソクに明かりを灯し、こちらを窺っている様子だった。

「渚さん? どうしたんですか、こんな時間に」
「あ、あの、聖書、忘れちゃって……」
「ああ、これは貴女のでしたか」

 そう言って神父は渚の方まで歩いて来たかと思うと、手に持っていた一冊の聖書を彼女にそっと渡した。確かに渚が探していた聖書だった。

「ありがとうございます」
「いいえ。もう忘れちゃだめですよ」

 そう言って微笑んだ神父は、渚が教会から立ち去るのを待つように、そこから動こうとしなかった。

「あの、神父さまは、どうしてここに?」

 ロウソクの明かりでぼんやり照らされた渚がおずおずと尋ねると、神父は窓の方に顔を向け、独り言のように呟いた。

「よく見えるんですよ……ここからだと」

 何が見えるのだろう、と神父の目線の先を追った渚は、教会の大きな窓の向こうに、小さく海が見えることに気がついた。その瞬間、海の上空で、稲妻がぎらりと光った。

「わっ」

 渚は思わず聖書を抱きしめて身体を強ばらせたが、神父は窓から顔を反らさず、表情もまったく変えなかった。数秒経ったあとに、小さくゴロゴロという音が聞こえてきた。ここからはだいぶ距離があるようだった。

「こちらには来ないので、大丈夫ですよ」

 そう言って渚の方を振り向いた神父の顔は、今まで彼女が見たことのないものだった。いつもの穏やかな表情なのに、目も口も、少しも笑っていない。ぼんやりとした明かりに照らされた彼の瞳の中に、黒い炎のようなものが見えた気がした渚は、何回かまばたきをしたあともう一度彼の瞳を見つめたが、もう炎は消えてしまっていた。

「キリスト教において、雷はさまざまな役割を持っているのですよ、実は」

 神父は窓に向かってゆっくり歩きながら語り始めた。

「雷は神の怒りの象徴という側面を持っているほか、神の言葉そのものであるという考え方もあります」

 彼はコトッと音を立て、出窓にロウソクを置いたかと思うと、窓の外の遠雷を見つめながらそのまま話し続けた。

「あの清いいかずちは、私にとっての救いそのものなのかもしれません」

 そう言って振り向いた神父の顔には、夜の海よりも暗い、自戒の念が満ちていた。

「神父さま……?」

 まるで雷が自分を撃ってくれるのを待ち望んでいるような言い草に、渚は戸惑った。彼が、自分の手の届かないところに行ってしまう感覚がする。

 遠くの海の上で鳴っている雷はなかなか収まらず、夜明けまでずっと、小さな雷鳴を轟かせていた。


「それは怖かったわねえ」

 翌朝、自分の部屋に来た渚の話を聞き、シスターは困ったように手を頬に当て、少し首を傾げた。

「怖かったっていうか……なんか、神父さまが知らない場所に行っちゃう気がして……」

 心細そうに目を伏せて話す渚の様子を見て、シスターは何かを考えていたかと思うと、やがて静かな声でゆっくり話し出した。

「ねえ渚ちゃん、驚かないで聞いてね」
「? なに?」
「神父はね、もう元いた教会には戻らないのよ」
「え……」

 その瞬間、渚は、胸に弾丸を撃ち込まれて穴が開いたような感覚を覚えた。シスターは絶望にも近い表情の彼女を見ると、眉尻を下げて少し俯いた。

「黙っててごめんなさいね。この一ヶ月の出張が終わったら、彼だけ東京に行くことになっているの」
「な、なんで……」
「神父には亡くなった妹さんがいるって、前に話したでしょう。その方の遺品が見つかったんですって」
「み、見つかったって、どこから」
「海から」

 壁に掛かった時計がボーンと鳴り、午前十一時を知らせた。残響が消え、静まり返った部屋に、波の音がかすかに響く。ハマヒルガオの浜辺から聞こえる音だった。

 シスターは昔、彼に出会ったときに懺悔されたという話をこっそり渚に教えてくれた。

 孤児院で育った神父とその妹の博子は、神父が十六になると同時に、それまで貯めた金を頼りにして孤児院を出た。船に乗って都会へ行き、安い部屋を借りて自分が働きながら二人で生活するという神父の計画に基づいたものだった。もっとも、当時の彼は神父でも何でもない、ただの若者だった。妹はまだ八歳だった。

 二人は無事に船に乗り込んだが、それが運命の分かれ道だとは知る由もなかった。彼らを乗せた船は、順調に航海を続けていたが、突然とてつもない衝撃があったかと思うと、みるみる傾きだした。何かにぶつかったのだと言われているが、詳しい原因は神父も知らないらしい。

 船内に水が入って転覆しかけている中、いくつもの脱出用ボートが海へと放たれた。神父、いや史郎は、妹と共にボートに乗り込もうとしたが、海から子どもの泣き声がしたので、転覆しかけている船から慌てて海を覗き込むと、ボートから落ちたのであろう子どもが溺れているのを見つけた。ボートの乗員たちは何とか彼を救おうと躍起になっているようだったが、潮の流れでどんどん離れて行く。史郎はとっさに近くにあった浮き輪を掴み、まだ船に残っている人たちに妹を頼みますと声をかけたあと、そのまま飛び込んだ。子どもから少し離れた場所に落ちた史郎は、浮き輪を頼りに彼の元に泳いで行き、無事に救出に成功した。

 その直後、背後から悲鳴が聞こえた。史郎が血相を変えて振り返ると、彼の目の前で船がほぼ垂直になり、まだ船内に残っていた人間もろとも海の中に沈んでいくところだった。彼の妹や、妹を頼んだ大人たちの姿は、海上のボートを探しても、どこにもなかった。

「それで神父は、自分が妹さん見殺しにしたんだってずっと思っているのよ。事故だし、誰にもどうしようもなかったことなのにね」

 渚は、彼の壮絶な過去に打ちひしがれた。あんなに美しく笑う人に、そんなに暗くて悲しい過去があること自体が信じられなかった。もし彼の美しさがその悲壮な過去でできているのだとしたら、そんな悲しい美しさはなくていい、とも思った。

 渚は自分の心の中に、神父の過去への哀憐とは別に、もう一つ大きな感情がむくむくと湧き上がってくるのを感じていた。

「ああ、そういえば渚さんは博子と同い年ですね」と神父が言っていたのを思い出す。どうしてこんなに自分に良くしてくれるのか、ずっと不思議だった。自分の存在と、彼の亡き妹が、重なったような気がした。

 同時に、己のことばかり考えている自分自身に心底嫌気が差した。どうして自分の心はこんなに醜いのだろうとさえ思う。内側から鋭い茨でちくちく刺されているような感覚を覚え、どうしようもなくなって、渚はシスターの肩に顔を埋めた。シスターは何も言わず、黙って抱きしめてくれた。彼女の服から、どこか懐かしい甘い香りがした。

「……それで先月、海から引き上げられたものの中に、妹さんが使っていた手鏡があったんですって。この離島の実習があるからすぐに行くことはできなかったけど、これが終わったらその足で彼は東京に行くの。ついでにそのまま東京の教会に赴任することになっているって」

 シスターの言葉が、渚の心の底にドサドサと落ちて溜まっていく。その上からいろいろな黒い糸が絡まって、彼女の心を雁字搦めにした。母親も、父親も、弟も、神父も、みんな自分を置いていく。孤独を受け止めきれない渚は、自分の心の矮小さにも耐えかねていた。

 救いを求めて、神父やシスターとこの島に来たはずなのに、結局自分はどこにも行けないのだ。これから、どうやって生きていけばいいのだろう。どの方向を向いても希望が見出せなくなった渚は、シスターに悟られないよう、溢れてきた涙をそっと拭いた。


 島での生活もあと一週間を残すのみとなったある夜、渚は物音で目が覚めた。隣の部屋から、ギィと音を立ててドアがゆっくり閉まる音がした。時計を見ると、ちょうど零時を回ったところだった。

 渚は目をこすりながらベッドから抜け出し、そっとドアを開けて廊下に顔を出した。廊下の角を、誰かが曲がっていくのが見えた。視界に捉えることができたのは背中と足だけだったので、誰かはわからない。しかし、渚は妙な胸騒ぎがした。彼女の隣の部屋は、神父の部屋だ。

 もし彼が部屋にいれば、起こしてごめんなさいと謝ればいい。そう思って、渚は不安げな顔で彼の部屋のドアをノックした。返事はない。寝ているのか、それとも、さっきの人影が本当に神父だったのだろうか。草陰で鳴く虫の声がやけに響く。

 胸騒ぎが収まらない渚は、寝間着のまま靴に履き替えて寮を出た。しかし、さっきの人影はどちらに行ったのかわからない。寮の前の道路でどこに行けば良いか迷ったが、不意に海の方から波の音が聞こえた。それと同時に、夜風に乗って潮の香りが渚の鼻まで届いた。渚はじっと海の方を見つめていたが、やがて意を決したように、そちらに向かって歩き出した。

 ハマヒルガオの香りがする。夜の海は、何でも飲み込んでしまいそうなほど真っ黒だったが、頭上に浮かんでいる満月がそっと地上を照らしているおかげで、わずかに水の青さが見てとれた。

 渚が目を凝らして浜辺を見ていると、不意にぱしゃん、ぱしゃんと水を切る音がした。誰かが海の中に入っていこうとしているようだった。渚は音を頼りにして、夜の浜辺を一目散に走った。海に入ろうとしている誰かは歩いているらしく、渚との距離はどんどん縮まっていく。見覚えのある後ろ姿を捉えたとき、渚は心が締め付けられそうになった。

「神父さま!」

 太ももまで海水に浸かる位置で、ようやく彼の手を取ることができた渚は、大声で彼を呼び止めた。彼の動きは一瞬止まったが、それでもなお前に進もうとしている。渚の言葉は聞こえていないようだった。二人の寝間着は、既にびしょ濡れになっていた。

「神父さま! 神父さまってば!」

 渚が何度呼びかけても、彼は振り向かず、海に向かって進もうとする。彼がずっと水平線の方を向いているので、表情が見えない渚は不安になり、ついには叫ぶようにして彼の名を呼んだ。

「史郎さん!」

 神父の動きが完全に止まり、その場所から動かなくなった。渚が不安そうに彼の様子を窺っていると、いつも通りの彼の声が聞こえてきた。

「……あ、うわっ。え、ここは……」

 神父は、ここにいることに初めて気がついたように動揺し、振り返って渚がいることにさらに驚いた。

「渚さん……どうして……」

 渚は怒りと心配が入り交じった顔で神父との距離をさらに詰め、彼の両手をがっしり掴んだ。

「こっちの台詞です! どうして、こんな……」

 神父は彼女の悲痛な顔とこの状況を見て、何が起こったのか察したようだった。

「またか……すみません、夢遊病のようなものなんです」

 沈痛な面持ちで俯いた彼に、渚の心にはさまざまな感情が押し寄せた。どんな言葉をかけたらいいのか、まるでわからない。それでも必死に言葉をたぐり寄せ、喉にいちばん近い位置にあった言葉を、懸命に絞り出した。

「も、もう、妹さんはいないんですよ……」

 神父が表情を固くして渚を見た。目を丸く見開き、眉間に皺を寄せ、なぜそのことを貴女が知っているのか、とでも言いたげな表情だった。しかし、やはり言わなければよかったかと腰がすくんでいる彼女を見ると、フウと息をついて再び俯き、水面を見つめた。

「……誰から聞いたんです」

 いえ、シスターですね、と神父は渚が答える前に自問自答した。渚はまだ、海の中で神父の手を固く握ったままだった。静かな波が押し寄せるたびに、二人を水の音が囲んだ。

 どこまで聞いたのかわかりませんが、と神父が続けたので、俯いていた渚は再び彼の顔を見つめた。神父も既に顔を上げ、渚の目をまっすぐに見ていた。

「私には、祈ることしかできません」

 そう言い放った神父の瞳から、一筋の涙が零れているのを見て、渚は彼の顔から目を離すことができなくなった。満月を背にしてはらはらと涙を流すその姿は、ルルドのマリア像のようで、祈り方や笑い方が美しい人は泣き方も美しいのだと、渚は思わず見惚れてしまった。神父の奥底にある悲しい記憶が、余計に彼の美しさを残酷なまでに引き立たせているような気がした。自分も泣きそうになったが、必死に涙をこらえた。

「……帰りましょう。ここは寒い」

 そう言って、神父は力なく歩き出そうとしたので、渚は慌てて彼の手を握り直した。

「し、心配なので、わたしが部屋まで送り届けますから!」

 彼女の意を決したような宣言に少しだけ毒気を抜かれた神父は、はい、とだけ返事をして、おとなしく渚に腕を引かれて寮に歩いて行った。帰り道は、水を吸った寝間着がとてつもなく重かった。


「タオル持ってきましたから、これも使ってください」

 渚は自分の部屋から大判のタオルを持ってきて、部屋でびしょ濡れの寝間着を絞る神父に渡した。

「ありがとうございます。あなたも冷えたでしょうに」
「平気です。わたし、体は丈夫だから」

 話すことが何もなくなって、沈黙が続いた。カチコチと音を立てる時計は、午前一時を指している。渚はもう部屋に戻ろうかと考えたが、このまま彼と別れたらいけないような気がした。

「神父さま」
「ん?」
「シスターに、全部聞きました」
「……ええ」
「わたしは、許せないです。どうしてそんなに、罪を背負って生きていこうとするんですか。どうして神父さまみたいな美しい人が、そんな罪に打ちのめされなければいけないんですか」
「渚さん」

 神父が渚をたしなめようとしても、彼女は言葉を止めなかった。

「だってそうでしょ、仕方なかったんですよ。悪気があったんじゃない、みんなわかってますよ! なのに妹さんたちに罪を感じて生きていくのは、い、妹さんを惨めにするだけです!」

 渚の言葉は、目の前の神父だけでなく、自分を置いて逝ってしまった母親と、まだ幼かった自分にも向けて放たれた。彼女の瞳には涙が潤んだ。ずっと自分を惨めにして生きてきたのは、誰でもない自分自身だということを、渚はこの瞬間、神父に叫びながら初めて理解した。

「貴女に、何がわかるんですか」

 神父は少し眉間に皺を寄せ、彼女を非難するように静かな声を出した。渚は、怯まずに続けた。

「だって」渚は言葉に詰まり、寝間着の袖でぐいっと涙を拭った。

「だって、そんな風に生きてたら、神父さまが、ずっと寂しいまま……」

 渚が涙声で絞り出した透明な声が、神父の心の最深部に雫を落とした。彼を覆っていた静かな怒りのベールが、みるみる剥がれ落ちていく。彼女の純粋な魂は、神父にはあまりにも眩しかった。彼は、ずっと誰かを救う側だった自分の心が、初めて救われたような気がした。

「……渚さん」

 優しく名を呼んだ神父の声に渚は顔を上げ、まだ潤む瞳で彼を見た。彼の表情には、ひどく優しい、安堵の色が滲み出ていた。

「ごめんなさい、心配をかけて」

 渚は首を横に振り、「もう一人で海に行かないでください……」と小さな声で懇願した。神父は笑ってわかりました、と返答した。

「あと、もう本土へは戻らないことも、聞きました」

 渚が鼻をすすりながら神父を見つめた。彼は、シスターは口が軽いですねと笑いながら、渚の頭を優しく撫でた。

「……すみません、黙っていて」

 嘘ですよ、と笑って否定されることをどこかで期待していたのかもしれない。渚の淡い希望は、神父の優しい謝罪で打ち砕かれた。頭を撫でる彼の手の熱が、いつまでも渚の中に残った。


 本土に帰る前日、渚は神父と共に山を登っていた。山と言ってもなだらかな斜面が続く道は歩きやすく、二人は息を切らすことなく、頂上の教会に向かって歩いていた。

 崖の上にある教会に出張してくれないかと神父が頼まれたのは、三日前のことだった。小さな山を登った先の崖の上にある教会は、ささやかながらも毎週、近所に住む信徒たちが集まってミサを行っているという。せっかくだから、神父主催によるミサをやってほしいということらしく、柏木神父とその手伝いとして渚が共に向かうことになった。道中険しい道もあるため、足が丈夫でないシスターは寮で留守番をすることになった。

「あまり天気が良くないですね」

 鼠色の空を見上げて、神父が言った。予報では、今日の島の天気は晴れとのことだったが、海辺の天気は変わりやすいらしい。

 あの夜の海の一件から、渚はあまり神父と話せていなかった。思ったより彼が忙しそうだったというのもあったが、彼と会う機会があっても何を話せば良いかわからなかった。神父と話せる時間は、あと一日しかない。明日、渚とシスターは本土に戻り、神父は東へ旅立ってしまう。

 崖の上の教会は、渚が考えていたよりも小さく、小屋を一回り大きくした程度の大きさだった。しかし教会らしく高さは充分で、小さいながらも立派な門の上部には、太陽を模したと見られる美しい装飾を施した穴が開いていた。真っ白に塗装されているおかげで、木々や海に囲まれていてもすぐに見つけることができる。教会の中に入ろうとした渚は、ふと崖の下の景色を見て感嘆の声を上げた。海や集落が、ひどく小さく見えた。

「こうして見ると、けっこう登りましたね」

 渚の背後から神父が顔を出し、感心したように海を見つめた。

「何も遮る物がないから、空も広いですね。やはり天気が悪くなりそうだ」

 神父の声につられて、渚も顔を上げた。崖の上からは、遙か彼方の水平線までよく見ることができる。西の空から、ひときわ濃い灰色の雲が近づいてくるのが見え、次第に湿った風がびゅうびゅう吹き始めた。

「嵐になるかもしれませんね。ミサが終わったらすぐに帰りましょう」
「はい」

 渚は神父に続いて小さな教会に入った。教会の中は、壁も椅子も優しい黄土色に染まっており、明かりをつけると照明に照らされた部分が金色に光って見えた。東に向かって開いたたくさんの小さな窓から、先ほどの曇天がよく見える。こじんまりとした教会で、椅子は二列しかなく、中央に太い廊が一本通っている。その道をたどって行くと、一番奥のささやかな祭壇に小さな十字架が置かれ、さらにその奥の壁に、七本のロウソクをかたどったステンドグラスが煌めいているのが見えた。赤と白のガラスでできたそのロウソクは、外の光をとらえ、ゆらゆらと燃えているようだった。

「きれい……」

 渚が思わず見惚れていると、神父が荷物を置きながら解説した。

「あれは新約聖書に出てくるヨハネの黙示禄の、『七つの灯火』からとったものだそうですよ」
「へえ……」

 本土の教会や島の大きな教会と比べると設備も少ないはずなのに、なぜか渚には、ここにはさまざまなものが揃っていると感じられた。目を瞑って耳を澄ませると、窓の外からかすかに波の音も聞こえる。渚が訪れたどの教会も静かで美しい時間が流れていたが、この教会はひときわ静かで、彼女の心に平穏を与えてくれた。

「どうしたんですか? ほら、これを向こうに運んでください」

 神父がてきぱきと動きながら、束になった聖歌集を渚に渡した。

「なんか、ここ、すごく居心地がいい気がするんです」

 指定された台の上に聖歌集を並べながら、渚は素直に感想を述べた。それを聞いた神父は意外そうな顔で渚を見たかと思うと、優しく笑いながら作業に戻った。

「それは、この教会が渚さんに合っているということでしょうね。本土に帰ってからも、遊びに来てはどうですか?」

 自分はもういないけれど、という彼の言外の言葉を渚は確かに聞いた。

「そうですね」と返したが、うまく返事をできていたかわからない。彼と一緒にいられる時間は、刻一刻と少なくなっている。

 これまで、たくさんの話をしたはずなのに、何を話してきたのかよく覚えていない。彼のことをたくさん知ったはずなのに、何も知らないような気がした。こんなに心細いような、愛しいような感覚を覚えた相手は、渚にとって後にも先にも、彼だけだった。


 出張ミサは昼過ぎから始まることになっていた。上空の雲がどんどん厚さを増していく中、信徒たちが一人一人やってくる。彼らは本土の神父に会えたことに感激し、感謝の念を告げ、ミサで丁寧な祈りを捧げていた。

 渚にとって、彼らの姿が、この一ヶ月間の留学で見る最後の祈りの姿だった。ぴったりと両手を合わせ、深く目を瞑り、身も心もすべて神に捧げていることが他人から見てもわかる彼らの姿は、この世の純白をすべてかき集めて人の形にしたのではないかと思うほど、美しかった。渚の脳裏に、島に来た初日に出会った少女の記憶が蘇った。彼女は、何も願ってはいないと言った。彼女もまた、無垢で美しい魂を持った一人なのだろうか。渚は、自分の中に立っている塔のようなものが、ぐらぐら揺れるのを感じていた。

「今日は本当にありがとうございました。本土の神父さまに来ていただけるとは……」

 ミサが終わると信徒たちは神父の周りに集まり、一人ずつ丁寧に礼を告げていた。神父は本土の教会でそうしていたように、穏やかな笑みで応え、あなたに神の祝福がありますよう、と一人一人に声をかけていた。

 最後の一人が教会を出て行く頃には、大粒の雨が降り出していた。

「いけませんね、雨脚が強くなってきた。渚さん、急いで片付けましょう」

 はい、と渚が返事をするのと同時に、天をつんざくような音がした。同時に教会の中は真っ暗になった。落雷による停電だった。

 雷鳴に驚いてその場に座り込んでしまった渚は、「渚さん」と神父の呼ぶ声に弱々しく答えた。

「大丈夫ですか? 怪我は?」
「だ、大丈夫です……」
「ならよかった。しかし困ったな……これではもう帰れませんね、今日は」

 神父は暗闇に目が慣れたのか、コツコツと足音を立てて窓際に歩いて行ったようだった。渚も座り込んだ場所から窓を見上げた。滝のような雨が窓を流れているのが見える。時折、雷で窓の外が強烈な光を放ち、そのたびに渚は怯えて身体を縮こまらせた。

「仕方ない、今日はここで夜を過ごしましょう」

 そう言ってまたコツコツと足音をさせて移動したらしい神父は、何か鞄を探るような音を立てたあと、「あった」と声を上げた。次の瞬間、シュッという音がして、わずかに辺りが明るくなった。神父がマッチで火を起こし、備え付けのロウソクに火をつけていた、

「備品の場所を聞いておいてよかった。真っ暗よりは良いでしょう」

 小さな燭台に乗せたロウソクの炎はゆらゆらと煌めき、巨大な神父の影を壁に映し出していた。渚は炎の光を見て、ようやく体から力を抜いた。

「そんなところにいたんですね。おいで、床に座ると痛いですよ」

 渚は手招きをした神父のもとに向かうと、安心したように大きなため息をついた。

「何です、人の顔を見てため息なんて」
「ち、違いますよ、安心したんです」

 すごい勢いで首を横に振る渚を見て、冗談ですよと神父は笑った。普段はどこか遠くにいるような彼の、年相応の笑い方だった。


 どれくらい時間が経っただろうか。雷は未だ大空を暴れ回り、誇示するように強烈な光と音を放ち続けている。空が光る度に渚がビクッと体を揺らすので、見かねた神父は渚の隣に座り、私はここにいるから大丈夫ですよと声をかけた。

「怖いですか?」
「はい……」
「雷が怖いなんて、まだまだ子どもですねえ、渚さんは」

 神父はわざと意地悪な調子で渚をからかったあと、右手で渚の左手をそっと握った。渚は驚いたが、すぐにバリバリという壮絶な音が外から聞こえたので、思わず神父の手を固く握った。どこかに落雷したらしかった。

「大丈夫ですよ」

 神父は雷には動じず、手を握ったまま、親指で渚の手を優しく撫でた。

 渚は遠い昔に、誰かが同じことをしてくれたことを思い出した。母だったのか父だったのか、それとも他の誰かだったのか、もうよく覚えていない。それでも彼の親指が手の甲を行き来する優しい感覚は、渚を安堵の底へ誘っていった。

「……神父さま」
「ん?」
「わたしは、博子さんでは、ないですよ」

 ずっと渚の心に澱んでいたものが、初めて形となって彼女の口から漏れた。こんなことを言うなんて馬鹿みたいだと自分でも思ったが、今言わなければ、一生言えない気がした。神父の顔を見ることはできなかった。

「ええ、もちろんわかっています。あなたは渚さんです」

 何を言うかと思えば、と拍子抜けしたように神父は答え、最後に一言付け足した。

「大切な、私の弟子です」

 出会ったときからずっと、近くにいるのに遠くにいるような気がしていた彼が、初めて間近に感じられた。もし、人の言葉を一つだけ宝箱にしまっておけるのなら、渚は躊躇なく、今彼が発した言葉を選ぶだろう。

 渚は、何も言えなかった。体温と同じ温度の涙が一粒、頬を伝って落ちていった。

 人が祈る意味を、ずっと探していたような気がする。そんなもの、もうどうでもよかった。神の声など、彼女には聞こえない。ただ、固く手を握ってくれているこの人の心音が止まなければいい、この人の生きている熱があれば、それでいい。そう思いながら、渚はゆっくり、微睡みの世界に落ちていった。


 教会の椅子にもたれかかったまま、渚はゆっくり目を開けた。気がつくと、体の上に神父の黒いキャソックがかけてある。月桂樹のような不思議な良い香りがした。時計を見ると、朝の六時だった。いつの間にか眠ってしまっていたらしい。

 隣で手を握ってくれていた神父がいないことに気づき、渚は辺りを見回した。彼は窓際に立ち、いつものまっすぐな姿勢で静かに窓の外を見ていた。昨夜の嵐は去ったらしく、すっかり晴天が戻っている。ちょうど東側に面している窓から朝日が射し、神父を照らしていた。その姿は、誰も知らない場所から静かに人間を見守る神のようで、渚はいつか本土の教会で、同じように彼を見つめていたことを思い出した。そのまま朝日に導かれ、天の上に昇ってしまうのではないかと思うほど、彼の脆い美しさは渚の瞳に焼き付けられた。

「おはようございます。よく眠れましたか」

 渚が起きたことに気がついた神父は振り向き、笑顔で朝の挨拶を告げた。朝日が彼の後頭部に当たり、後光が差したようになった。

「はい。おはようございます」

 彼は今日、天の上ではなく、東へと旅立ってしまう。次は、いつ会えるのかわからない。昨日まではその事実がちくちくと渚の胸を刺していたのに、今朝は不思議と、それを素直に受け止めることができた。

「よく晴れていますよ」

 自分を見て優しく笑った神父の顔を見て、渚ははっとした。彼の目が、わずかに赤く腫れていた。渚の心に、得も言われぬ愛しさの波が、堰を切ったように流れ込んだ。

 ずっと、神様のように美しい人だと思っていた。でも彼は、二十二歳の、一人の純朴な青年だった。彼の寂しさや怒りや、今までの人生で諦めてきたさまざまなものが、この島での日々を通して自分の心に流れ込んできたような気がした。神だと思っていたときよりも、いっそう彼を美しいと思った。

 渚は、気がついたら祭壇を見つめていた。ロウソクを模したステンドグラスの前に鎮座する小さな十字架は、昨日と変わらずそこにある。朝日がほんの少し当たり、金色に輝いているように見えた。

 渚は無意識に、生まれて初めて、神の御前で固く手を組んだ。

――ああ、どうか、この人の行く末が、幸福に満ちたものでありますように。

 渚は目を瞑り、固く手を握り、自分の身を投げ打っても良いと思えるほど、初めて他人のために祈った。心が真っ白に燃えていく。神父への少女の愛の祈りは、この日、神に捧げられた。

 崖の上の小さな教会は、日輪の光を浴びて輝いている。白く燃えるような朝の光が、二人をそっと照らしていた。

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