見出し画像

「選んだ孤独は、よい孤独」


#大切にしている教え

 

フランスのことわざらしい。

原文を探したが、見つからず。本当に存在するのか調べたが、言語の壁が固く、なかなか元ネタや歴史をつかめない。

 やっと見つかった情報が、数年前の朝日新聞の人生相談コーナーにて、回答者が「選んだ孤独は、いい孤独」を用いて、質問者に人生アドバイスをしたことがあるというもののみだった。
 朝日新聞の人生相談コーナーのアドバイザーは、このことわざが生まれた背景を「ひとりぼっちに傷つきながらも孤独を味わい尽くし、その孤独を人びとを深く慰める表現に持っていった人がいる」と書き残している。
 またさらに調べていくと、似たようなフランス語のことわざがあることも分かった。
「Choisir la solitude, c'est choisir de se connaître.」(孤独を選ぶことは自己認識を選ぶことである)という言葉が存在するらしい。自分自身と向き合い、内面を深く探求するための孤独を選ぶことが大切であるということを示しているとのことだ。※もしかしたら、訳の違いで元はそれぞれ同じことわざなのかもしれないです。

 さて上記の二つのことわざ(もしかしたらどっちも同じ可能性もあるから一つ)だが、共通して「孤立」と「孤独」を分けた上でこの言葉を受け止めなければならない。どちらも寂しい状況には変わりない表現だが、「孤立」は自分で選べない、「孤独」は自分で選べる。といえば、一番分かりやすいだろうか。

 コロナ禍とSNSの発達を境に「孤立」や「孤独」が近い存在になったのではないか感じる。わたしたちは「孤立」と「孤独」が身の回りで飛び交っている環境下でなるべく「孤立」を避け、「孤独」を嗜んでいる。

 数年前から「おひとり様」という言葉が流行った気がする。一人焼肉、一人カラオケ、一人ディスニーなど。しかし、それは一昔前である。2023年現在「おひとり様」にメディアが以前のように注目しないのは、そんなものはもうすでに現代人の「日常」であり、珍しくないと言う理由があるからだろう。実際に今、わたしが一人で焼肉に行ったことを友人に話したところで「へえそうなんだ」という反応が返ってきて会話が終わってしまうに違いない。おひとり様なんて今となっては、大したモンじゃないのだ。孤独を嗜む行動が、世間的に珍しいものではなくなった。

 わたし自身も一人行動は割と好きで、一人旅にもよく出かけるし動物園や水族館もいったことがある。一人焼肉や一人ラーメンも余裕。JKがワイワイとしている竹下通りのタピオカ屋にも一人で並んだことがある。将来は一人で外国旅行にいってみたいとも思っているし、最近は一人ディズニーデビューをするのに計画を立てたりしている。
 もちろん友達と遊ぶことも好きだし、人との繋がりは大切にしていきたいと心底思っている。友達や家族に助けられたことは今までに多くあった。周りの人に感謝は忘れてはいけない。特にわたしは、友人には恵まれており、常日頃ご先祖様や前世の自分に友人自慢をしている。
  
 しかし一人で長い時間考え事をしたり、誰にも迷惑をかけないわがままな行動を取ったり(たとえば以前動物園で、ゴリラを見た後ゾウを見て、またゴリラを見に逆走したりしました。一人動物園だからこそ叶えられるわがまま行動)する時間も必要なのだ。一人行動は、わたしにとって楽しくはないが必要なのである。恐らくわたし以外にも当てはまる人は多いと思う。生活をするにあたって、外部からのエネルギーを摂取するだけではなく、内部からのエネルギーの放出も必要なのだ。孤独を選択することはよくある。

しかし、なぜだろうか。どうしても「寂しい」が付きまとう時がある。

 
 ここまで個人的な孤独の必要性ついて書き残したが、ここでブログを終わらせるほどわたしは強い心を持った孤独マスターではない。わたしがまるでスナフキンのような孤独を愛する人間だと思ったら大間違いだ。わたしは欲の深いわがままOLだ。こんなブログでカッコつけて「孤独を愛する自分語り」だけで終わってたまるか!

 感情は生理現象。人間だからしょうがない。誰だって寂しさを感じる時はあるのだ。大学時代の努力家の友人が「努力するのは孤独だー」と言っていたのを聞いたことがある。彼の発言は、話の流れ的に「努力をするのは寂しい」という意味だったと思う。彼は世界レベルで努力家だった。成功者の彼でさえそう言うんだからどんな人でも孤独を感じる(寂しさを感じる)ことはあるんだろうと思っている。ガイ先生だって孤独(寂しさ)を感じたことがあるから他人を愛することができているし、瀬戸内寂聴も同じようなことを言ってた気がする。

きっと生きる上で、孤独に寂しさはつきものなのだろうな。
 一人行動はしても、できるなら寂しさは感じたくない。これがわがままOLの本音だ。しかしこれはどうしようもない。一人時間が必要なわたしにとっては、受け止めなければならない事実なのだろう。そして誰だって孤独になる瞬間はあって(あるいは必要で)、それにセットで寂しさという感情がついてくる。孤独を満喫するのにマイナスの感情を背負う覚悟が必要なのかと思うと、少々先々がしんどくなってくる。スナフキンはこの変えようもない真実をどう受け止めているんだろうね。

寂しさを無くすことは不可能。

でも寂しさを最小限にしながら

孤独の時間を過ごすことはできる


  寂しさを一切無くすことはできないけれど「選んだ孤独は良い孤独」という言葉を知ってから、孤独を選択するときに付きまとう寂しいという感情が少しだけ小さくなった気がする。「なんで自分は寂しさを感じているのか」と自問自答した時に「自分で選んでるから、それは悲観的になってもしょうがないな」と割り切れるようになった。もちろんケースバイケースではあるが、その寂しさの根源が孤立でない限り、自分の中でどうにか小さくすることはできるのだ。孤独に付きまとう寂しさを小さく、小さくすることは可能。
 自分で選んだ人生は自分にとって最善のはずだ。であれば、その選択に対して悲観的になることはないはずだ。
 もし道に迷うことがあれば、それは努力が足りないか、他人から強いられているか、孤独への勇気が足りないかのどれかなんだろうと思う。

 


ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 現代において「多様性」というワードは切っても切り離せない存在になった。一人一人の生き方が尊重される一方、今までになかった価値観を生み出し、最先端で表現している人たちは少なからず孤独を感じているはずだ。でもそんな彼らがいつもエネルギッシュに見えるのは、自分で選んでいるからだろう。孤独を選ぶことは勇気のいることだ。どうか彼らの価値観が未来では普通になり、選んだ孤独は良い孤独という言葉を超えることができる社会になるよう期待している。

 人に迷惑をかけている人には「多様性」という言葉をくっつけることはできない。ここは間違ってはいけませんね。人に迷惑をかけていながら「多様性」を訴える人の未来は「孤立」ですから。

 

孤独を味わい尽くし、このことわざを世に知らしめてくれたフランス人の方、ありがとう。勇気でたし、寂しさも小さくなったよ。



今日は終わりー!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?