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群衆哀歌 09

Before…

【十六】

 前回来た時とは打って変わって、凪の夜だった。
 スマホを見る。午後八時。予定より一時間早く、先に飲んでいようとあの紙切れに殴り書きした時から決めていた。

 苛立ちが募り続けた一日だった。今まで気にならなかった事が全て怒りへと変貌し、感情の赴くまま身体は動く。

「アイツだよ、染谷喜一。極悪人。」
「こないだ中年のおっさんカツアゲしてたって連れが言ってたぜ。」
「マジかよ、よく退学にならねぇな。」
「おっかねぇから近寄らねぇ方がいいぜ。俺らだっていつ金取られるか分からねぇもんな。」

 昼時、学生食堂で聞こえてきた戯言。とうに聞き慣れたはずなのに、感情を制御できない。食べ終えた食器を片付けた後、その連中を放っておけず、連中に殺意の目を向けて声を掛けた。

「おい、そのカツアゲしたって話してる奴今すぐ呼べよ、話してやっから。」
 脳が思考を巡らせるより先に身体と口が動く。
「いや、ちょっと待ってくれよ。俺ら軽い冗談のつもりで…」
「冗談って言えば何言っても許されんのかよ、てめぇ殺すぞ。」
「マジで勘弁してくれって、おめぇに目つけられたらこの学校で生きていけねぇよ。」
「冗談だよ馬ぁ鹿。冗談なら何言っても許されんだろ?」
 奴等は何も反論できなかった。苛立ちは頂点に達し、イヤホンを着けて上げっ放しの音量で重低音の世界へ身を沈め、その場を去った。憤怒の波を何とか押し止める為に、講義中以外はイヤホンを外せなかった程だった。

 感情の制御を失っていた自分にますます腹を立てながら、バーの扉を開く。
「いらっしゃい、喜一。今日はいつも通り一人かい?」
「いつも通り一人っすよ。この間はすみません、連れが迷惑かけて。」
「酒場なんてそんなもんでしょ、大丈夫大丈夫。いつものでいいかい?」
「うっす、お願いします。」
 五十手前であろうマスターは、店が貸切状態の時にだけよく話す。自分の倍以上生きている分、俺みたいな奴が何を求めているか何となく分かるのだろう。俺が神妙な面持ちで何かを話し始める時、人払いに店を貸切にしてくれる。
「お待たせ、バタースコッチと灰皿。」
「あざす、いただきます。」
 煙草に火を点け、甘ったるい酒を喉にゆっくりと流し込む。煙を吸い込んでは吐き、酒で喉を潤す。潤ったのは、喉だけでなく荒み切った心もだった。
「マスター、聞いてもらっていいっすか?」
「いいよ。喜一、今日は何があったんだい?」
 マスターが隣の席に来て、いかにも度数の高そうなウィスキーをロックで入れる。マスターは「貸切」と書かれた店の看板を持って外へ出た。
 頭の中を整理する。戻ってきたマスターは隣の椅子に座る。酔いが回る前に、先に一万円を渡す。
「いつも渡してくれるけど、この額まで飲まないのに。いいんだよ。」
「いえ、気持ちです。もしよければ、前払いって事でプールしといてください。」
 今日初めて、笑顔を見せた気がした。そして、今日の出来事をひとつひとつ話す。穏やかな笑顔で相槌を打つマスター。
 グラスが空になると、注文通りの酒を入れてくれた。酒と煙草をのみながら、ゆっくりと今日の事実を伝え続けた。
「そっか。喜一も大変だね。でも珍しいね、女一人に振り回されるなんて。この間来た友達とは関係あるのかい?」
 話を聞き終えて、優しい笑顔を保ったままマスターは問う。
「あいつは春っていうんですけど、関係ないっす。これから色々あるかもしれないけど。」
「色々、って?面白いことになりそうかい?」
「分からないっす、正直。でも春はいい奴です。その哀勝って女は正直滅茶苦茶ムカつきましたけど、聞いてもらえて大分落ち着きました。俺の挑発に乗ってれば、九時に来るはずなんですけど……。」
時計に目をやると、九時十分。やはり来ないか、と思いながらラムコークを飲み干す。聞いてもらえて有難かったし、帰るか。立ち上がろうとした時、喜一の心を読んだかのように、マスターはまたにっこりと微笑み、一言告げた。
「お連れさん、十五分くらい前から来てるよ。店の前で煙草吸ってるよ。」

【十七】

 午後八時五十五分、約束の場所に着いた。「貸切」の看板が立っている。入っていいのかな、分からないや。とりあえず、灰皿あるし一服しよ。

 四限目に一緒にいた男連中が、昼時に喜一君に絡まれたらしくて酷く怯えていた。やっぱり喜一君、荒れてたみたいだね。

「その噂してる男の子、会わせてよ。色々気になるし。」
 その男連中に聞いてみたら、予想通りの答えが返ってきた。
「正直、悪ノリだったんだよ。俺が適当言っちまって…。」
 ―やっぱりね。
「今度喜一君に会ったらちゃんと謝んなよ。それはあんたが百悪いよ。そんな事言われたら、誰だって怒る。」
「わ、悪い…。」
「私じゃないでしょ、謝る相手。」

 馬鹿だな、やっぱり。適当言ってる奴も馬鹿だけど、それにキレる喜一君も馬鹿。まぁ、発端は絶対私だけど。
 目の前にある古ぼけた自動販売機で度数の高い缶チューハイを買い、飲みながら煙草を吸う。待ち合わせの時間は、もうすぐ十分を過ぎる。これ飲み干したら帰ろ。きっと先に店取られて引き返したんでしょう、あの馬鹿。
 灰皿の隅で火種を押し潰し、最後のひと口を飲み干して家路を歩もうとした時、店の扉が開いた。
「もっと美味ぇ酒飲ませてやるよ、馬鹿女。」
 散々胸中で呟き続けた「馬鹿」という台詞を投げつけて、喜一君は私を睨んでいた。

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