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「死んだら悲しい」は本当か

また、知り合いが自殺した。
その人とは何人かで集まる時に居合わせるという感じで、個人的にすごく話したというわけではなかったので、「〇〇自殺したよ。」と聞いた時、驚きはしたけど「驚き」程度だった。
「まじか。」に次いで出た言葉は、「OD?」だった。その人がやたら薬に詳しくて度々ODしているのを知っていたから出た言葉だったが、自殺の知らせを聞いてから何も考えずに自殺方法を尋ねてしまうくらいには、私はおかしい。

その手のニュースに私は上手く反応できなくなっている。
友達が死んでも、周りは幸せに生きていく。その死を思い返すことはあるかもしれないけれど、一時たりとも忘れないわけではない。死んでしばらくすれば、ハッピーなインスタを投稿することも可能だ。
芸能人も最近結構自殺する気がする。完全にゴシップである。私はまんまとのせられて、ニュースを読む。当人しか知り得ない死因を適当に推測して、その人の友達だった芸能人の反応をのせて、ガイドラインでもあるのか、最後には「辛いときは」みたいな相談窓口をのせる、というお決まりの流れ。

知り合いの自殺の知らせを聞いた後、その人ととても仲良かった人は今どうしているんだろうと気になった。
死んだその人の名前は出さずに、その人と仲良かった人にLINEした。「最近ふと思い出して。久しぶりに会いませんか」。
飲みながら色んな話をして、昔の話になって、「そういえば、〇〇亡くなったの知ってる?」と言われた。「はい」。「そうか」。それでその会話は終わった。
仲良かったその人は、何か感情的な反応をするでもなく、何かをジャッジするでもなかった。
騒がしい飲み屋を出て、私は最近買ったクロスバイクを引き連れながら、夜道を一緒にお散歩した。「この自転車軽すぎて、前の普通の自転車より、乗ってる時に自殺衝動湧くんですよね。」と話した。「そうなんだ。『重い』って大事なのかもね。重いリュックとか背負ったら?」「毎日重いリュックで通勤してますよ。」「偉いね」。
この人は、私が自殺しても、「そうか。」と一言で受け止めてくれそうだと思った。

病棟では、今の所1ヶ月に2人のペースで人が死んでいる。
同じ病棟に入院している患者さんは、たった今すぐそばで人が死んだなんて気づいていないだろう。それくらい、淡々と物事は進んでいく。新人の私は、ナースステーションのモニターでレート「0」が表示されているのを横目に見ながら、自分の業務をこなす。
先輩たちはすっかり慣れていて、患者さんが亡くなった時の様子とか、家族の反応とか、カフェで友達と近況報告をするくらいの感じでペラペラとおしゃべりしている。
学生の頃、「患者さんが死んでいくのにいつまでも慣れなかったから、看護師をやめて研究者になることにした」と教えてくれた先生の感性は、周りを見渡しても、(自分の中にも、)どこにも見当たらなかった。

「人は死ぬ時は死ぬから。」医者をやっている人にそう言われた時は嫌悪を持って聞いたけれど、今なら「はい。」と応えるだろう。
人の死を経験してなお生きていくうちに、人は死ぬという事実にイエスともノーとも言えなくなってくる気がする。

「人が死んだら悲しい」のは当たり前だと思っていた。
もちろん、生前のその人との関係に依存して、湧く感情の種類やその深さは変わってくる。
それにしても、誰か一人が死ぬということは、「圧倒的な喪失」であらねばならないと思っていた。
私は "grievability" という、ジュディス・バトラーという哲学者が作った概念が好きだった。
"grief"(人が死ぬ悲しみ)+"ability"(可能性)。誰しもが、死んだら悲しまれるべき存在として、生きていなければならない、という主張の中で生まれた概念である。この概念を出発点にして、戦争の犠牲者や難民、ホームレス、など省みられることのない生について論じられていた。

でも、"grievability" という概念は、生きているからこそ意味のある概念なのだと思い至った。生きている間にその生をいかに尊重するか、ということが問題なのであって、人の死を悲しむことを強要する概念では全く無い。

初めて友達が自殺した時、しばらくはしょっちゅう涙が出た。その子は私と同じ病気を持っていたから、何かもっと共有できる言葉があったんじゃないか、と後悔した。
その子の自殺を「なんてバカなことを」と言って悲しむ子もいた。
でもそれを聞いて、その子の自殺が何か仕方ない「結果」なのかその子の「選択」なのかはわからないけれど、私は、その「結果」やら「選択」やらを貶めたくはないと思った。

親しい人が死んでからも人は生きていくことができる(できない場合もあると思うけれど)。そうでなかったら、人類は今頃滅亡している。
だから、死んだら一週間くらいは悲しんで、それから徐々に忘れていって、1ヶ月くらいしたら普段と変わらないハッピーなインスタでもあげて、命日には思い出すくらいが「普通」で「ちょうど良い」んだと思う。
その「普通」さこそが、皆の日常生活を成り立たせている。

私は、一年間365日のうち360日くらいを「死にたい」と思いながら過ごしている。(じゃあ残りの5日って何だろうと考えてみたけれど、そんな5日なんて無いかもしれない)
つい「死にたい」と口からこぼれることもある。
「死んだら悲しい。絶対に死なないで。」ほとんど皆そう言ってくれる。その思いを否定しないのは、よく訓練された心理士くらいである。

「死んだら悲しい」。その言葉は、私が死を実行に移そうと試みるときに、よく私を引き留めてくれた。
でも同時に、どんなに近い人でも、一年、十年、、、と経てば、悲しみは薄れていくだろうし、一年、十年、、、と生きていくだろうとも分かっている。
「死んだら悲しい」の言葉は、私の「死ぬのが怖い」という気持ちと共鳴したとき、効果を発揮しているだけなのかもしれない。

人が「死んだら悲しい」のかという事実の話と、「死んだら悲しい」という言葉の話が混ざってしまった。
でも、この2つの話はどちらも、「自殺をどう考えたらよいのか」という視点に端を発している。
死を悲しむということには、死を否定するニュアンスが含まれている。
しかし、人が自ら死んだ時、その人を否定せずにその事実をどう受け容れれば良いのだろうか。
人が死にたい時、死んだら人を悲しませるという事実や言葉が、足枷となる、すなわち引き留めてくれるものでもあり重荷でもある、というアンビバレンスをどう処理すれば良いのだろうか。

人の死に過剰に慣らされたり、それを超えて死がゴシップ化したりするのも嫌だけれど、死や死にたい気持ちを否定したくもない。
知り合いの、「そうか。」の静かで柔らかな響きを思い出す。
悲しいのかもしれないけれど、何かに対して判断を下すことを留保して、とりあえず首肯する。
その姿勢は、自ら死んだ人のことも、死にたい人のことも、ふわっと受け容れてくれるように感じられる。

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