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母親に受けた虐待の話

幼い頃から母親との関係に苦労してきた。母は気分屋で、機嫌の善し悪しで態度が大きく変わるからだ。機嫌のいい時は無限に俺を甘やかす一方、虫の居所が悪いと俺を無視したり攻撃する。機嫌は常時変化した。普通の母親らしく振舞ったと思えば、一転して子供の人格を破壊するほどの暴言を吐く。それが俺の母親だった。

その極端な例として、5歳の時、「死ね」と言われたことがある。きっかけは些細なもので、床に落ちた食べ物を俺が拾い食いしたのだ。それを見とがめた母が口にしたのが死ね、という言葉だった。

ーーーリョウなんて死んじゃえばいいんだ。

その時、母は半笑いだった。笑いながら死ねという言葉を吐いたのだ。俺は一瞬変な冗談かと思った。だが、どうもそうではないらしい。母は何も考えてはいなかったのだ。

またある時、夫婦喧嘩の責任を押し付けられた。普段文句ばかり言う母に、いつも何も言わない父が突然キレて始まった喧嘩だ。俺が見ている前で物を投げたりぶつけたり、とにかくひどい有様だった。最終的に父は部屋を飛び出してゆき、俺と母だけが残された。とりあえず散らかったものを片していると、母がぽつりと言った。

「リョウが悪いんだよ」

血走った目で俺を睨む。

「リョウが外に行きたいなんて言うからいけないんだよ」

その喧嘩は、元はといえば俺が遊びに連れて行けとせがんだことから始まった。二人の間で子供の押しつけ合いとなり、喧嘩に発展したのである。俺は何も言えなかった。

そう言うや否や、母はクッションに顔を埋め、豚のような大声で泣きだした。俺が初めて目にした大人の泣く姿である。大人は子供と違い泣くものではないとずっと思っていたから、ショックであるとともにすごく意外な気がした。

小学校に上がった頃、今度は役立たずと罵倒された。その日、学校から帰ってくる姉を車で拾って帰る手はずになっていたのだが、姉を見つけられず俺だけ戻ってきたのだ。母は怒った。

「リョウの役立たず!」

腹が立つより、ショックであるより、ただ怖かった。そしていくらか申し訳ない気もした。


そんな具合でその日の機嫌で攻撃か受容かが決まるわけだから、俺は常に顔色をうかがい、機嫌を損ねないようあくせくし、時には媚びを売って自分を守るようになった。わがままを言わず、積極的に手伝いをし、母の喜びそうなことばかりをする「いい子」の皮を被った。

しかしその努力が報われることはほとんどなかった。大抵の場合、母の理不尽な怒りとともに何もかもが吹き飛んでしまう。何もしなくても罵倒されるが、機嫌をとっても罵られる。彼女が不機嫌である以上は。

この仕打ちが虐待だと知ったのは、高校生の頃だ。何かの本で心理的虐待の存在を知ったのだ。子供を罵倒するのも虐待であれば、目の前で激しい夫婦喧嘩をやることも虐待であり、泣き叫ぶといった行為も虐待に類する。心理的虐待は将来的に自傷行為などの問題行動につながるとも指摘されており、実際その通りになった。その時はああ、そうなのだなあと他人事のように思ったのを覚えている。


昔も今も、母の仕打ちに対して怒りや憎しみといった当然の感情が湧かない。思い出すと軽い頭痛を覚えるが、それだけなのである。

ただ少しだけ感謝していることはある。それは、世の中が理不尽であることを、幼い頃から身をもって知れたことだ。どれだけ相手に尽くしても報われないことがあること、姉と母は仲が良かったので自分だけに降りかかる災難があるということ、何も悪いことをしていなくても不幸な目にあうこと。それを学べたおかげでこれまでの人生で理不尽な目にあったとしてもさして不満を覚えることがなかった。多少のことならまあ仕方ないと諦めの境地で受け入れることができるようになったのである。これは大いなる宝ではないか。

一方で、その苦しい経験が長じてからの自傷行為や自殺未遂の遠因ともなっているわけで、なんというか人生って複雑だよねと思った梅雨の終わりである。

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