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明治初期の作家

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明治初期の作家です。坪内、二葉亭、鴎外、紅葉、露伴
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記事一覧

二葉亭四迷(2) 二葉亭四迷の言文一致観

 日本国の言文一致運動は文壇の大きなうねりであった。殊に二葉亭四迷の浮雲は言文一致の進行に大いに貢献したと言われている。坪内を驚かせた本格的西洋文学理解をもとに、「日本最初の近代的小説」と評される『浮雲』は書かれた。森鴎外は二葉亭の追悼文集に寄せた文章で語る。

「あんな月並の名を署して著述をする時であるのに、あんなものを書かれたのだ。(......)『浮雲、二葉亭四迷』という八字は珍しい矛盾、

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坪内逍遥(3) 坪内逍遥の文体変化2/2

 此記事は黄旭揮氏の論文をまとめたものである。

<『細君』に見る新たな文章作法>情景照応的な表現法の導入

『当世書生気質』が上梓された四年後、「国民之友」に刊行された『細君』は、”作家の外様形式文体”においても”作家の思想表出文体”においても、共に『当世書生気質』より一歩も二歩も前進した作品であり、まさに逍遥が小説家として歩んできた短い生涯の中で最も頂点に上り詰めた時期に創作された傑作であると

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坪内逍遥(2) 坪内逍遥の文体変化1/2

此記事は黄旭揮氏の論文をまとめたものである。

<はじめに> 文芸作品における文体分析は、通常二つのカテゴリーに大別できる。一つは作家の書体での表現手段に対しての文体分析であり、もう一つは、作家の内面性の伝達方法に対しての文体分析である。前者は、時代の隔たりを問わず、形式的な基準(和文体、漢文体、和漢混合体など)、又は、ジャンル・類型別により区分される文体(文語体や口語体、雅俗折衷体など)の公的な

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二葉亭四迷(5) 二葉亭四迷の翻訳

 東京商業学校を退学し、文学活動(『浮雲』など)に身を投じた二葉亭だったが、小説の執筆とほぼ並行してロシア文学の翻訳にも取り組んでいた。最初の企てとして、本人や坪内の回想からツルゲーネフの『父と子』をある程度訳し、『虚無党気質』という表題で刊行しようとしていたことが分かるが、何らかの事情で出版されていない。またゴーゴリの短編を翻訳して坪内に見せたこともわかっている。夫婦の会話の口調をめぐって、坪内

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二葉亭四迷(4) 「浮雲」の恋愛観

 前の記事では、『浮雲』を社会批判として観察する視点を持ったが、今回は、『浮雲』の語る恋愛観について見ていこうと思う。

 そもそも「恋愛」というものは西洋文学におけるロマンティックな愛の形を知って、近代日本の文学者たちが明治二十年代頃に「恋愛(ラブ)」という翻訳語を作り出すことによって新たに認知された新しい観念であった。従って二葉亭が描いた「恋愛」が新鮮なものであったという言い方は正しくない。む

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二葉亭四迷(3) 社会批判としての「浮雲」

 前回の記事にあたる『二葉亭四迷(2) 二葉亭四迷の言文一致』では、彼の言文一致観に関して少々説明した。それを踏まえて「浮雲」を考えていくために、ここで少し前回を短く纏ると、二葉亭四迷の言文一致の観念とはつまり、日常語を文学的言語に昇華させた新たな特権的文体を作り出す事だった。「談話」と「文章」との呼応とは、二葉亭の目指す完全形であり、ロシア文学者のヴィゴツキーの言う様に「純粋思惟」の表出を目的と

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坪内逍遥(1) 「細君」の意図についての考察

「細君」は明治二十一年一月の「国民之友」新年号の付録に掲載された作品である。内容は、新しい教育を受け、自我に目覚めた人妻が、離縁されるに至るまでの悲劇を描いたものである。

人間の不仕合わせは、無論其時の運不運、理屈を言えば、鬚の有無にて等差のあらう筈はなけれど、さうばかりにも言へぬが浮世。格別の気の毒なるは鬚なき人の身の上なり。誰か束髪と共に女の身方殖しといふや。同権論を書く主人も原稿料を得し後

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二葉亭四迷(1) 長谷川辰之助の人生総覧1/4

この記事は長谷川辰之助(二葉亭四迷)の人生のポイントを抑えてまとめた記事である。また、参考資料は『二葉亭四迷:くたばってしまえ(ミネルヴァ日本評伝選)』としている。

<第一章 長谷川辰之助の誕生>

・出生

 二葉亭四迷こと長谷川辰之助は元治元年(1864)二月二十八日、江戸市ヶ谷合羽坂尾張藩上屋敷で生まれた。この1864年は歴史の丁度転換点辺りであり、池田屋事件、禁門の変、第一次長州征伐な

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