二葉亭四迷(3) 社会批判としての「浮雲」

 前回の記事にあたる『二葉亭四迷(2) 二葉亭四迷の言文一致』では、彼の言文一致観に関して少々説明した。それを踏まえて「浮雲」を考えていくために、ここで少し前回を短く纏ると、二葉亭四迷の言文一致の観念とはつまり、日常語を文学的言語に昇華させた新たな特権的文体を作り出す事だった。「談話」と「文章」との呼応とは、二葉亭の目指す完全形であり、ロシア文学者のヴィゴツキーの言う様に「純粋思惟」の表出を目的としていた。

<社会批評としての「浮雲」>

 では、その様な方向性で書かれた「浮雲」だが、社会批評の一面も持っている事を知っておいて貰いたい。文体が形式面での新しさだとすれば、描写の対象は内容における新しさであった。「浮雲」では本格的社会批判が試みられており、それは前近代の日本文学には見られない特徴であった。

「浮雲」がゴンチャロフの「断崖」に倣って新旧世代の衝突を描いたものであった事については作者自身の述懐があり、それに関する研究も多いが、ここには官僚制、啓蒙主義、女子教育など、新世代の制度や思想の的確な描写とそれに対する批評があった。物語を通じての社会批評というものは徳川時代の文芸ではそれほど発達していなかったし、そもそもその様な行為が「文学」的営為の主眼として認知されていたかどうかは極めて疑わしい。これに対して、文学の目的が、時代の、現代社会の特徴と動向を明らかにする事にあるのだという様な問題意識は、ロシアの文芸評論受容を通じて、二葉亭は明確に意識されていた事であろう。そして、この「現代社会の特徴」とは、登場人物の性格付けによって表現されるのだというのも、二葉亭がロシア文学から学んだ事であろう。明治初年代の日本社会の様々な問題は、文三なり、お勢なり、お政なり、昇なりと言った人物たちの造形を通して表現されるのである。

 二葉亭は『浮雲』の登場人物にモデルがあるかどうか尋ねられて、「予が半生の懺悔」にて、その造形の秘密を明らかにした。つまり、彼の性格論である。

いきなりモデルを見附けてこいつは面白いと云ふやうなのでは勿論ない。さうぢやなくて、自分の頭に、当時の日本の青年男女の傾向をぼんやりと抽象的に有つていて、それを具体化していくには、どう云ふ風の形を取ったらよかろうか。といろいろ工夫する。(第四巻二九〇頁)

 少し話は逸れるが、二葉亭がこの様に西洋近代文学における「性格」の概念を性格に把握していたわけだが、それとは違って、坪内がその理解を欠いていたことも、今日では広く知られた文学史上の事実である。東京帝国大学文学部の授業でホートン教授に性格批判を求められて、その意味が分からず、見当違いの回答をして悪い点をつけられた経緯である。

シェークスピアの『ハムレット』の試験に王妃ガーツルードのキャラクターの解剖を命ぜられて、初めての時には其意味が解りかね、「性格を評せよ」と云ふのだから、主として道義評をして、悪い点を附けられ、それに懲りて、図書館を漁り、初めて西洋小説の評論を読み出した。(「回憶漫談」三百四十五頁)

 ガートルードの性格を儒教的な勧善懲悪の立場から評したのが、それでは彼女の性格に表現されている人間の、或いは同時代の社会のありようと言うものを分析することにはならない。それが近代西洋の文芸批評で求められているものではないことに気付き、勉強を始めたと言うのだが、其成果が『当世書生気質』に現れているかと言うと疑問である。『気質』と言うタイトルに示されている様に、そこで逍遥は類型的で発展性のない性格、つまり、必ずしも社会の傾向を反映したものではない性格しか描写できなかった。それに対して、『浮雲』では性格はダイナミックなものである。——登場人物たちの性格や行動は社会の現実と弁証法的な関係を持っており、作品の展開に連れて発展し、変化していく。

 話を戻すが、二葉亭に其様な理解を与えたのは、やはりベリンスキーを始めとするロシア文学理論の摂取であったと思われる。例えば、二葉亭が読んでいたことが分かっている「『知恵の悲しみ』論」には、「文学は現実である、或いは現象の中における心理である」(百九十六ページ)という書き出しで始まる段落がある。文学は現実を捉えるのが使命だが、その現実の背後には理想的な観念があり、それが具体化したものが現実だという認識があるわけである。そして、理念と現実は対立しつつ、同時にお互いを規定して、動的な、弁証法的な関係をとって、展開していく。

理想とはある一つの観念の、自然の中に彼方此方に散在し、そしてある一個の人間に集約して現れる特徴の集合体ではない。なぜなら、特徴の寄せ集めは機械的なものでしかなく、それは文学的作品のダイナミックな特徴と矛盾するからだ。(......)理想とは、個別性を獲得するために自らの一般性を否定する様な、一般的な(絶対的な)観念である。そして、それは個別的現象になったならば、再び一般性に帰ろうとする。

 そう論じた上で、ベリンスキーはシェークスピアを例にとって、自分の議論を説明する。

『オセロ』の観念とはいかなるものか。愛が裏切られ、愛と女性の美点に対する信頼が踏み付けにされたことに結果としての嫉妬の観念である。それは詩人が作品の基礎として自覚的に選び取ったものではなく、知らず識らずに詩人の魂に入り込み、それがオセロやデズデモーナの性格に発展していったのだ。

 この様な表現は、先に引用した「予が半生の懺悔」の中の性格論とよく対応しているだろう。そして、ベリンスキーが例に出しているは『ハムレット』ではなく『オセロ』だが、この様な理解を持っていた二葉亭がホートン教授から性格批評を求められたならば、恐らくは教授を唸らせる回答をしたであろう。


参考資料:『二葉亭四迷:くたばってしまえ(ミネルヴァ日本評伝選)』

     『浮雲/二葉亭四迷』


  

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