坪内逍遥(2) 坪内逍遥の文体変化1/2

此記事は黄旭揮氏の論文をまとめたものである。

<はじめに>

 文芸作品における文体分析は、通常二つのカテゴリーに大別できる。一つは作家の書体での表現手段に対しての文体分析であり、もう一つは、作家の内面性の伝達方法に対しての文体分析である。前者は、時代の隔たりを問わず、形式的な基準(和文体、漢文体、和漢混合体など)、又は、ジャンル・類型別により区分される文体(文語体や口語体、雅俗折衷体など)の公的な表現手段で単純に文章に表記すると言う意味で行われる分析である。後者は、特定の時代のもとで作家がその置かれた時代の言語事情や社会風習などに触発された自らの感情や思想を用語・語法・修辞などに託して反映した文章様式を対象にして行う分析である。

 作家作品の文体分析は、既に多くの研究者たちの手によって敷衍・展開がなされており、大方前者は、「形式的文体」や「時代の文体」、後者は、「個性的文体」や「個性の文体」と言う標題で掲げられ、考察が行われて来た。確かにこの様な分類基準に従えば、二様の文体の特徴をさらい出し分析すれば十分にも思える。とはいえ、それを論理的に借定するのは、十分な説得力に欠け、両者の意味内容が完全に把握されているとは言い難い。例えば、二葉亭四迷や山田美妙などが試みた言文一致体の採用や、坪内逍遥の作品に見られる従来の旧文体とは実質的に異なる雅俗折衷体の取り入れも当時の作家たちにとっては、まさに一種の「他の模倣・追随を許さざる独自性を発揮した」独創的な”個性的文体”であって、その違いのボーダーラインをどこで引くかが微妙な問題になるからである。したがって、両者の区分をより的確にするため、本論では言語活動の機能を単純に言葉という公的手段で外面に書き記した文章様式を”作家の外様形式文体”と名付ける。一方、言葉という公的手段を通して自らの内面意思を表出した文章パターンを”作家の思想表出文体”と称することにする。

 二つの文体をめぐる分析は、多岐にわたり実質的な変換期を迎えた明治時代に活躍した文芸作家たちの実作を対象とする事により、一層その重要性が見えてくる。何となれば、日本近代文学の嚆矢といっても差し支えない彼らの作品は、当時婦女子の玩弄物として扱われていた小説ジャンルの芸術的価値を高め、ひいては、文学の社会的地位を確立させたという文学史上に於いて非常に大きな意味があるからである。さらに、後のナチュラリズム作家など後世の文壇を支える作家たちの文章表現は、殆どこれらの作品の中で構築された文章作法を手本としていることから考えても、明治初期、中でもリアリズムという分野が近代文学変遷の上で必要不可欠な存在であることは言うまでもあるまい。故に、それらの小説の文体を解析する事により、当時の作家たちが如何に画期的な試みをなしていたのか、また、彼らが文体上に現した自らの文学的姿勢や態度が如何なるものであったのかを突き止めることが出来ると考えられる。

 だが、幾分実験的なところのある明治文芸の文体を分析するに際し、留意しなければならない点がある。それは、単一作家による作品群の中に文体の変遷・変転があるという事実だ。文芸作家は、常に同じ文体により作品を綴り続けているとは言い難い。時代の推移に伴い、内的体験が少しずつ蓄積されていくのは当然のことであり、内的体験が増加すれば、事物に対する認識も複雑多様となる。それが実作に反映された場合、主題や趣意も変化するであろう。結果、総体として作風に変化を起こすことから考えても、作家の文体の変遷は、その各風の変遷と軌を一にしているものと思われる。激動の時代に処した明治初期の小説家たちの実作は、まさに時代の流れに応じ、社会全体の変遷に即して生まれた時代的な産物である。そのため、同一作家による作品でも、執筆活動が長期となった場合、綴られた述作のなかに現れた文体の変化・変転が皆目なかったとは到底考えられない。例えば、坪内逍遥というリアリズム唱導者の場合を取り上げてみても、彼が小説家として初めて試作した「当世書生気質」(明18)は、”作家の外様形式文体”に於いて、次に挙げる例文冒頭の地の文章が示している様に、雅文体で表現されている。

さまざまに移れば変る浮世かな。幕府さかえし時勢には、武士のみ時に大江戸の、都もいつか東京と、名もあらたまの年毎に、開けゆく世の余沢(かげ)なれや。貴賤上下の差別もなく、才あるものは用ひられ、名を挙げ身さへたちまちに、黒塗馬車にのり売の、息子を髭を貯ふれば、何の小路といかめしき、名前ながらに大通路を、走る公家衆の車夫あり。栄枯勢衰いろいろに、定めなき世も知恵あれば、どうか生活はたつか弓、春めくあれば霜枯の、不景気に泣く商人あり。...(略)

 しかし、その四年後に自らのリアリズム志向が一つの完成に到達したとみられる『細君』(明22)では、次の引用文にみられる様に雅文体とはやや異質な叙述で表出されている。

引窓を引いて後は、昏さ四方より覆ひかかり、ランプの影は台所の天井に月の形を写したり。秋の日はとツぷり暮れて柱に掛かる時計の音耳につく程鳴ひびく。けふもあるじはまだ役所より帰り来まさず、離れ座敷の女隠居と縁者と聞きし十七八の娘は近い所の寄席へ行き、頬の赤い女中も買物をととのへに外へ出でぬ。奥も台所も寂として、別けて新参もの、手持なき、お園は独りツクネンと女中部屋に物思ひ。...(略)

 また、”作家の思想表出文体”の上でも、上記両作は依然として相違なる趣向を呈している。『当世書生気質』は、人物の造形・筋の構成・脚色の設定などに関し、作者・逍遥が極めて世俗的、現実的な態度で臨んだため、結局現出されたのは”従来のままの通俗的な読み物”とあまり変わらない旧套的な内容であった。

 一方、『細君』は、「引窓を引いて後は、...(中略)時計の音耳につく程鳴りひびく」という、登場人物(お園)の詫びしい心情を直接反映する叙景描法を採用する事によって、作中人物の内面せいや心の動きなどがより細密な文章作法で叙述されている。

 以上のことから言えるのは、『細君』は『当世書生気質』に見られた外面的な写実観点から更に一歩進み、内面的に発展させていくという近代的リアリズム小説としてのあるべき態度で描き出された作品ということである。この様に同一作家であったとしても、執筆活動中に起きる何らかの事情によって、多岐に文体が変転することは十分に考えられることであり、不思議では無いと思われるのである。確かに、文体の変化・変転は、長い歳月の経過とともに必然的に起こり得る現象であろう。しかし、逍遥の様にあしかけ四年という一般的には決して長いとは言い難い年げつで綴った作品において、文体自体にここまでの差を呈出するということは、当時、混沌とした時勢の中で起きた、彼の新文体追求に現した意欲が如何に旺盛であったのかをも示している。と同時に、”作家の思想表出文体”における精神面で著しい成長・発展ぶりを物語っているものと言えよう。よって、近代明治の小説家たちの実作の文体を探求する文体学なるものが成り立つとすれば、一作家における一作品のみを対象とするのではなく、多作品に於いて、更に、同一流派内における諸作家の文体差を解明することが重要になってくるのだ。

 明治期のリアリズムは理論的な面に於いては、坪内逍遥の『小説神髄』での主張がその発端であることは既に定説になっている。実作では、同じく逍遥の『当世書生気質』、二葉亭四迷の『浮雲』、及び、尾崎紅葉、山田美妙を中心とする現友社の即物的手法の作品群にその実践化を見た。前期リアリズム作家と呼ばれるこれらの小説家たちが各々の実作で表出した写実は、全般的に第三者的純客観の立場に立ち、対象物の外面描写に終始する傾向がある。また、人生や社会の真実なるものを見抜くための視角としてのリアリズムをあまり重要視しなかったため、真の写実追求の根本的な思想・主義を欠いていることがよく非難の的になっている。だが、この様な外面描写に忠実に努めようとする写実精神があるからこそ、さまざまに文体の改良が試みられたことは認めなければなるまい。つまり、この時代に、特に生活の感覚を持って語ろうとするところの言文一致体が要求され、口語文体の創造の努力が始まったのである。そして、後期リアリズム作家、ひいては、後世の文壇の小説家たちは、ほとんど彼らが築き上げたものを下敷きにし、益々円熟した執筆で一層細密な写実の世界を展開していったのだ。

 よって、本論では、明治文芸を対象にした文体分析を行うにあたり、前期リアリズムの代表的な存在である坪内逍遥の実作を取り上げ、彼の処女作『当世書生気質』、及び、その四年後に創作された生涯最終作『細君』それぞれが、どの様な”作家の外様形式文体”により表現されているのかを検討する。また、二作で試みられた即物的な表現様式、すなわち、”作家の外様形式文体”と”作家の思想表出文体”との関わりが如何なるものであるかを地の文における叙事・叙景描写と、人物の風貌・心境描写から探るのが目的である。

<『当世書生気質』の文体構造>

 複合式文体の採用

 坪内逍遥が小説家として初めて世に送り出した『当世書生気質』と、作家生涯の終焉に際して発表した『細君』との間には四年の歳月の隔たりがあることについては、前節で触れた。更に、この二作には、作家の外様形式文体、思想表出文体共に相当な差異のある事も既に指摘した通りである。

『当世書生気質』は、周知の通り、『小説神髄』における小説論の裏付けとして発表された実践作であり、『小説神髄』で打ち出されている難解な抽象的理論の実態を解き明かす最大の材料である。所謂「表現苦の時代」に産出された此試作品は、”作家の外様形式文体”では、「俗言をもて物語の詞を写すは妨害なし、但し地の文にいたりては、俗言をもて写すべからず。」という主張に基づき、地の文が雅文体、会話文が俗文体でそれぞれ綴られている。とりわけ、地の文には様々な言語脈の表現様式が取り入れられ、いわば文体の坩堝である。いくつかを例に挙げてみると、以下の様になる。

「名もあらたまの年毎に、開けゆく世の餘澤なれや」(第一回)という様な滝沢馬琴調の流麗な七五調

「或は病室に閉籠、或は薬泉に遊候事」(第三回)という普通書簡文に用いられる候文体

「看官作者が苦心を察して、其想像の到らざるを痛く咎むるなかれ」(第七回)という往々にして戯作を思わせる様な文章作法。

「今一人は年の頃二十六七、色黒く口大きく、鼻は俗にいふ獅子鼻にて、天に朝したる形なるゆえ、横ぐはへにしたシガレットの、煙はまっすぐにたちのぼりて、蒸気の煙筒も宜しくなり。」(第八回)という様に、仮名垣魯文まがいの滑稽風刺の脈を引く様な筆致。

⑸「有情なるが故に相聚合し、有欲なるが故に相協力す。」(第九回)に見られる様な、漢語調で表現した簡潔で歯切れの良い理屈的文句。

 以上の様に、文語的で定型的な常套表現が至る所に散りばめられており、文章のスタイルや性格など異なる諸種の叙述形式が適切な箇所に配置されることによって、それぞれの持ち味が生かされている。更に、長編小説特有の、ともすると、散漫、冗長になりやすい物語の筋を引き締める効果もあり、一作品の中ではうまく使いこなしていると言っても良いだろう。また、単一文体による、とかく一本調子になりがちな文章に各種の異質の表現パターンを点在させる作法は、文の単調さを抑制することになり、文章に自由せいと活力を賊与し、作品の面白さを漲らせるには効果的に作用している様だ。例えば、七五調の取り入れがその一例である。中世・近世の詩歌、散文や近代の新体詩などの文章形態の主流を占めていた七五調は、規則正しく反復される長・短、すなわち七・五の二句がもたらす音楽的・詩的な感情の喚起作用に特色があると言われている。

「幼時深く薫染していた曲亭臭味は、実際、まだ抜けるどころではなかった。」

 と述懐した逍遥が馬琴調の七五調を地の文に挿入したことから、彼が「強弱リズムを欠く非音楽的」な雅文体に音楽的効果を狙ったり、詩的なムードを醸し出そうとする姿勢が窺われる。また、当時の文壇では馬琴調を用いる事は、既に作家通有の現象であったということに即して考えてみても、馬琴ばりの七五調、或は、近世戯作の残影が逍遥の地の文に自然と反映されるのは至極当然のことであろう。

 こうして、地の文の活性化を図るために、各種文章を織り交ぜた複合式文体を採用した逍遥の試みは、まだ新しい小説ジャンルの地の文体の一典型さえ形成されて居ない当時にしては、一種の実験であったと言えよう。のち、『当世書生気質』と前後して発表された他の数編の作品、例えば『諷誡京わらんべ』の中にも同様の文体の施し方が見られることから、雅俗混合体の仕様が逍遥の初期の小説創作上の基本的志向であった様に、複合式文体の採用は、もはや彼の地の文作成上の一つの基本方針だった様である。無論、それらの作品群に現れた各種文章型の併用・混成は、十分に意識的な物だったに違いないが、各種の文語文体は、尽く新味に欠ける旧式のものばかりであった。それは、逍遥自身が他の文体的には「持ち合わせの表現様式が無かったからである」(『回憶漫談』)と述べたことからも理解できる様に、彼の新しい文体創出への苦悩を象徴すると同時に、文体改新の真意への認識の不徹底さも露出しているのだ。


 文体上の思想背景

 地の文に於ける複合式文体の意識的な採用について、逍遥は、後の書簡、日記、回想文などの追憶の中で直接の明言は避けている。然し、此問題について、『小説神髄』『文体論』の項で可能な限りの解説をしている。

 まず、地の文の基盤文体・雅文体について、

「雅文体はすなはち倭文なり。其質優柔にして閑雅なれば、婉曲富麗の文をなすにはおのづから適へり」

 と述べ、文体の属性から雅文体の性格が如何なる物であるかを帰納的に解説した。そして、地の文章が「婉曲富麗の文」であるべきだとし、それを綴るためには雅文体が相応しいと主張している。然し、「婉曲富麗の文」を主体とした雅文体は、「優柔にして閑雅」な性質を持ちながら、「活発豪放なる質には乏し」いため、文芸的な格調と美文意識に支えられた古典文芸に於ける記述に適するものの、当今社会の「激切の感情、豪放の挙動、もしくは躓宕なる情況なんど」と言った複雑多様の情勢の描出には叙述力が欠乏しているとも指摘している。

 彼の言葉を借りるなら、「若しあながちに此体もて上下貴賤の差別もなく我が開明に赴きたる世の情態を見るが如くに描きいださまく企てなば、徒に笑ひを促し、むなしく滑稽の著述視せらるる嘆あるべし。」と、時代的な効用のないこの文体で、「開明に赴きたるよの情態」を描いた場合、「二箇の失利を生ずるなり。一はすなわち豪放活発の気に乏しき事、一はすなわち滑稽に類似する事」になり、ひいては、作品自体が「滑稽の著述」になってしまうというのだ。適切な文体使用とは、小説に活写された「世の情態」から読者が感じ取ることのできる印象と、施される文体から感じ取ることの出来る印象が合致することである。つまり、両者は、諸条件・諸特徴に於いて辻褄が合って居なければならないという事を逍遥は訴えたいのだ。最後に、此条の議論の結論として、「目下の世況を写いだすには適当したるものとは思われず」と締めくくり、従来純粋なる雅文体の地の文での全体的な採用を否定したのである。

 ここに至り、逍遥がイメージした理想的な雅文体は、既に従来の純粋なるものとは異なり、より新しい時代に対応できる様な”近代的な雅文体”に変貌したことが理解できる。それは、木坂基氏が指摘した様に、近代文学の性格に結びつく要素が加味された一種の改良体としての新文体として用いられているものであろう。逍遥は、希望する結果に多少なりとも近づくための具体的な対策として積極的に地の文中に音楽性・韻律性のある七五調や、お馴染みの戯作文、その他、「あらたまった感じ、丁寧な感じ、硬い感じなどの外、特別である、積極的である、むずかしい、力強いと言った感じを与え」る漢語、漢語調の語句などの在来の表現パターンを取り入れたのであると考えられる。こうして、地の文に於ける複合式文体の採用について逍遥は直接明白には触れては居ないが、具体例を挙げ、此様な文体が何故、必要なのかに議論の矛先を向けた。

 要するに、「目下の世況を写しいだす」目的で創作された『当世書生気質』は、作者・逍遥が読者に作品の中身を「滑稽に類似する」「豪放活発の気に乏しき」と感受させないために、意識的に”近代的な雅文体”を採用したのである。然し、よく見れば、取り入れられた各種の文章型が旧套的なものばかりで、そこには、二葉亭四迷や山田美妙などの様に、新たなる文体の創作への工夫が全く見られない。『当世書生気質』が世間から実価以下の不評判を買った原因の一つは、まさに旧時代的な構成が濃く、近代的要素が希薄な文章作法が多数用いられているからであると考えられる。せっかく『小説神髄』に於いて、「我が将来の小説作者はよろしく此体を改良して其要素に応ずるやう準備すべきや勿論なるべし。」と小説文体の革新の必要を強く呼び掛けたにも関わらず、実作ではその理念が徹されず、あくまでも旧式の表現法の域を脱することが出来ずに終わったのである。そのため、『小説神髄』の主張を裏付けるものとして成立した『当世書生気質』は、明治書生の生活を写すという小説の主題上、新鮮な作意を見せるものの、結局、旧来の古めかしい表現様式、従来の戯作者風情を真似る様な筆致で描かれた述作になってしまった。

*後半に続く

参考資料:『明治文学に見る文体変化-坪内逍遥『当世書生気質』から『細君』へ-』黄旭揮


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