二葉亭四迷(2) 二葉亭四迷の言文一致観

  日本国の言文一致運動は文壇の大きなうねりであった。殊に二葉亭四迷の浮雲は言文一致の進行に大いに貢献したと言われている。坪内を驚かせた本格的西洋文学理解をもとに、「日本最初の近代的小説」と評される『浮雲』は書かれた。森鴎外は二葉亭の追悼文集に寄せた文章で語る。

「あんな月並の名を署して著述をする時であるのに、あんなものを書かれたのだ。(......)『浮雲、二葉亭四迷』という八字は珍しい矛盾、稀なるアナクロニスムとして、永遠に文芸史上に残して置くべきものであらう。」

 この様に評される『浮雲』の新しさは何処にあったのだろう。

 『浮雲』はストーリーとしては、次の様なものである。主人公内海文三は叔父の家に寄宿し、その娘お勢とは婚約者同然の関係にある。そして、お互いに芽生え始めた恋愛感情を抱いている。ところが突然、文三は官を罷免になってしまう。それ以降、娘の母親お政の態度は変わり、お勢の態度もよそよそしくなり、逆に、文三のもとの同僚で、立身主義者の昇に関心を寄せ始めている様に文三には感じられれる。お勢の真意を測りかね、果てしなく文三は心中の煩悶を続ける。

 このストーリーの中に、あるいは人物設定、心理描写、社会批判などに「近代性」が表出されていたと考えられている。だが、作者自身は文体の革新が先ず第一に『浮雲』の課題であり、そこにこの作品の功績があると信じていた。すなわち、端書きに彼はこう書く、

薔薇の花は頭に咲いて活人は絵となる世の中独り文章而已は黴の生えた珍奮翰の四角張りたるに頬返しを附けかね[なんとも出来ず]又は舌足らずの物言を学びて口に涎を流すは拙し是はどうでも言文一途の事だと思立てば矢も楯もなく文明の風改良の熱一度に寄せ来るどさくさ紛れお先真闇三宝荒神さまと春のや先生[坪内逍遥]を頼み奉り欠硯に朧の月の雫を受けて黒硯流す(一巻五頁)

 カビの生えた訳の分からない文章を排して、自然な口語体の文を創出したいという意気込みは、無論高く買わなければならない。ところが、この文章自体、地口や枕詞などを多用したもので、どこが新時代なのだろうと不思議になる。第一編の書き出しは更に詰屈としたものである。「千早振る神奈月も最早跡二日の余波となツた二八日の午後三時頃に神田見附の内より塗渡る蟻、散る蜘蛛の子とうようよぞよぞよ湧出でて来るのは孰れも顎を気にし給ふ方々」(第一巻七頁)端書きに「言文一途の事」と言いながら、実際の文章は読本の文体からさほど変わっていないのである。


 では二葉亭四迷の言文一致とは何であったのだろうか。また、日本文壇に何故それが必要だったのか。

 二葉亭自身は「くち葉集 ひとかごめ」に収められた「日本文章の将来に関する私見」と言う文章の中で次の様に説明している。

言語ハ人の意思の反映にしてまず無声の言語有りて然る後有声の言語有るを得へく、まづ無形の文字有りて然る後有形の文字有るを得べし。然からバ則ち言語と文章とハ意思の声に形はれ形に形はれたるものと云ふも固より不可なかる可き哉、(......)文章は談話にあらず談話は文章にあらず、然れども談話を紙に写せバ是れ文章にして、文章を声に現せば即ち是れ談話なり、同一の意思が否同一の言語が口にて云はれ或ハ筆にて書せられたれバとて豈にその性質を異にすへき理有らんや

 つまり、言語とは「人の意思の反映[であり、したがって有声の言語の前に無声の言語があり、有形の文字の前に無形の文字がある]」と言う命題である。二葉亭は記号表現(音声乃至文字)と記号内容(意味)があって初めて成立する言語行為と言うものを否定し、言語化(記号化)される前の純粋思惟と言う様なものを想定しているのである。したがって、それが外化されるにあたって、音声が用いられようと、文字が用いられようと、元の思惟(二葉亭の表現では「意志の声」)が一つである以上、それ等は同一のものでなければならないと主張しているのである。

 二葉亭の言語間・思考観は、二十世紀初頭のロシアの心理学者ヴィゴツキーのそれを想起させる。彼は主著『思考と言語』の最終章でこう論じる。

思惟はほかの思惟から生まれるのではなく、私たちの意識の動機付けに関わる領域から生まれる。この領域は私たちの意欲や欲求、興味や衝動、情動や感情を包摂している(三五七頁)

 思惟の源泉を意欲・欲求・興味・衝動・情動に見るヴィゴツキーの見方は、言語以前の思惟を「意志の声」とする二葉亭の考えと通じる。そして、ヴィゴツキーは——言語と思惟が相互にダイナミックに、弁証法的に規定しあう関係にあると論じながらも——「思惟の流れ・動きは、言葉の展開と直接には一致しない。思想の単位と言葉の単位は一致しない」(三五四頁)と述べて、究極的には純粋思惟と言うものを想定している気配なのである。

 勿論、二葉亭はヴィゴツキーが言語心理学者として名を挙げる前に死去しているから、上記の著作を読むことはなかったが、彼と同様の『純粋思惟』と言う言語観を有していた。そして、この様な言語観があるからこそ、「談話」と「文章」は一致しなくてはならないのであった。——それはただ「純粋思惟」を時に紙に書き、時に口に出すと言う違いだけのはずであるから。


 ところが『浮雲』の文章はどう考えても「言」と「文」の一致を示してはいない。だとすれば、二葉亭は「談話」と「文章」が完全一致しなければならないと考えていたわけではなく、ある種の呼応がそこに見られれば良いと思っていたのではないか。二葉亭も熟知していたはずの洒落本や人情本の類では「言文一致」はほぼ達成されていたのである。その様な「言文一致」は二葉亭にとって、究極的に目標とするべきものではなかったことになる。

 勿論、二葉亭は現実には江戸文芸の「言」を参照してはいる。「作家苦心談」では『浮雲』第一回は「三馬と饗庭さんのと、八文字屋ものを真似てかいた」と告白している(第四巻一五一頁)

*式亭三馬...しきていさんば、安永五年。江戸時代後期の地本作家で薬屋、浮世絵師。滑稽本『浮世風呂』『浮世床』などで知られる。戯号は四季山人、本町庵、遊戯堂、洒落斎しゃらくさいなど。著作には古典の翻案や既存作品の模倣や剽窃が混ざるが多作だった。黄表紙から書き始め、洒落本、合巻、滑稽本、読本と色々な形式の本を書き、主題も郭咄、仇討ち、武勇伝、歌舞伎もの、狂歌と広範囲だったが、中でも江戸庶民の日常を描いた滑稽本類が評価されている。短気ながら親分肌の人柄で、為永春水、楽亭馬笑、古今亭三鳥、益亭三友らを門弟にした。
 また、三馬は戯作の執筆をする傍ら、自ら肉筆浮世絵も描いている。代表作として「三味線を持つ芸妓図」が挙げられる。本図は、立てた三味線を持つ大島田の芸妓が、片膝を立てて振向いている様子を描いており、自画賛を入れている。

*饗庭篁村...あえばこうそん、安政二年-大正十一年。明治時代の日本の小説家、演劇評論家。根岸派の重鎮。日本人として初めてポーの作品を翻訳した人物としても知られる。「戯作者」世代と坪内逍遥、幸田露伴ら新時代の作家たちとの過渡期に位置づけられる。篁村はこの時期の代表的な作家のひとりと見られており、幸田露伴は、饗庭篁村と須藤南翠が明治20年前後の「二文星」、「当時の小説壇の二巨星」であったと記し、江見水蔭は「篁南両大関時代」としたという。
 篁村は読売新聞に編集記者として執筆していたが、1886年(明治19年)1月、前年に「小説神髄」と「当世書生気質」を世に出していた坪内逍遥(春のや主人)と知り合い、3-5月、読売新聞に長編「当世商人気質」を連載。これは人情の機微を穿った平明軽妙な文章で「商人(あきうど)」という職業身分の類型を3つの説話に描いたもので、篁村の出世作とされる。
「紀行文」でも、成島柳北とならんで明治初期、20年ごろの時期における代表的書き手で、根岸党の友人達との旅の紀行文などを新聞に連載した。明治20年代以降、幸田露伴、尾崎紅葉など、後進の小説家が新時代の小説を世に出すようになり、篁村は著作活動の比重を劇評や江戸文学研究に移していく。後年は「竹の屋主人」の名で朝日新聞に劇評を連載。

*八文字屋もの...京都の版元八文字屋が元禄から明和年間にかけて出していた浮世草紙

 別のところでは坪内逍遥の勧めにしたがって、三遊亭円朝の落語を参考にしたと書いている(「余が言文一致の由来)第四巻一七一頁)。しかし、こうして様々なテキストを模範に取って試行錯誤していると言うことは、それらそれぞれはそのままでは新しい文体とはなり得なかったことを示していよう。では何が問題だったのか。

「余が言文一致の由来」で二葉亭は、自分の文体の実験に向けられた幾つかの批判について言及している。

 坪内逍遥は「も少し上品にしなくちやいけぬ」と言ったり、徳富蘇峰は「文章を言語に近づけるのも良いが、もう少し言語を文章にした方がよい」と勧めたと言う。二葉亭その人はこうした助言に不服で、なるべく俗語そのままで表現したい——「有り触れた言語をエラボレート(精巧に)しやうと掛かった」——と漏らしている。だが、坪内や徳富の意見や、二葉亭の「ありふれた言葉のエラボレーション」と言った表現から窺える意識は、此処で目指されていたのが、「言」と「文」の一致ではなく、旧来の文章語に俗語の要素を取り込んだ、新しい文学の創出であったと言うことである。

 言文一致運動とは、文章と談話を一致させる運動ではなく、現代語を用いながら、洒落本や人情本の卑俗に陥らず、特権的テキストとしての現代表現をいかに、そしてどの様なものを規範として創出し、標準化できるかと言う模索の作業であったのだ。その意味で、二葉亭が模範としていたであろうロシア文学史において、これは「俗語運動」でもなく、「言文一致運動」でもなく、「文学的言語の創出」と言う課題であったことは示唆的である。日常表現をどの様にすれば文学に用いる言語に高め、規範化できるかと言うことが、そこでの課題であった。二葉亭の作業は、同様に、俗語運動ではなく、逆に卑俗な現代語をいかに高級化するかどの様な記号を付与するならば、「文学的言語」として認知される様になるかを実験する作業だったのだ。

『浮雲』も最後のパラグラフ、「出ていくお勢の後姿を見送って、文三ハ莞爾した」において、「莞爾[ニッコリ]した」とは「莞爾[かんじ]とす」と言う漢文書き下し的表現を、「ニッコリ」と言うルビをつけることによって、半ば言語化したものと考えるべきなのではなく、「ニッコリした」と言う現代俗語の表現を、「莞爾」と言う漢語と組み合わせることによって、文章語として通用させようと言う手段であったと見るべきなのである。

 この様に二葉亭は「談話」を導入しつつ、新たな特権的文体を作り出すことを試みるのである。「文三ハ莞爾した」に続く「故無くして文三を辱めた」とか、「若し聴かれん時にハ其時こそ断然叔父の家を辞し去ろう」と言う様な表現は、全て古語や古典文法を適宜混入させることによって、高位の文体を新たに作り出す戦略に他ならないのである。二葉亭の言文一致体は、その様な古さにおいてこそ決定的に「新しい」のであった。

*言語学研究には記述的と規範的の二つの立場がある。言語の運用をそのまま記述するのが前者であり、正しい使い方を指示するのが後者である。概して米国では記述的な立場が強く、ロシアでは規範的な立場が強い。ロシアの言語学研究や語学の教科書を見ると、用例は殆ど文学作品から撮られている。それは文学においてこそ、ロシア語の最も正しく、美しい表現が示されているとロシア人が信じているからである(一方、米人は文学作品の表現は特殊なもので、言語学が対象にするべきでは無いと考える)。「文学的言語」と言う概念はこの様な規範意識に関わっている。文学者たちは、平時の日常表現(言)をもとにして、それをより高次な、正しく、美しい文学的言語(文)に高めたのである。「言文一致体」とはまさにその様な文学的言語を創出する試みであったので、そこでは「言」と「文」の一致は必ずしも要請されていないのである。二葉亭はこの様な、ロシアにおける「文学的言語」の理念を熟知していただろうと思われる。


参考資料:『二葉亭四迷:くたばってしまえ(ミネルヴァ日本評伝選)』

     『浮雲/二葉亭四迷』

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