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『エスカレーター』

2024年3月31日。8時過ぎに目が覚めた私は、本日に控えた資格試験の勉強のためにラップトップと参考書をバックパックに詰めていた。湯沢でスノボに興じた昨日の余韻のまま雪の湿気が残るダウンを羽織り玄関を出て、さんさんと陽を照り返す明治通りのアスファルトを踏んだ私は、その場違いな装いに気づくまでそれほど時間を必要としなかった。

慌てて部屋に戻りダウンを脱ぎ捨ててロードバイクに跨った私は、明治通りと外苑西通りの右側の歩道を申し訳なさげに徐行し、広尾駅前の三菱UFJ銀行前に駐輪した。駐輪場ではない歩道に無造作に置かれた何十台の自転車は、石原さとみによるバンキングアプリのポスターと不思議な共存を果たしているようだった。

喉の乾きと空腹に少し苛立つ私は広尾橋交差点の横断歩道を速歩きで進み、広尾プラザ2階へ進むエスカレーターへ身を預けた。日曜日の朝のベーカリーカフェ『沢村』では、余裕のありそうな30代の夫婦と高そうな子供服を身にした女児がお受験の対策をしていた。5-6歳の子どもが大人の都合で選別される東京の競争社会の冷酷さに厭気がさすと同時に、知多の漁村で生まれた私がなぜこのシステムに合流できたのか不思議に思った。

カウンターでコーヒーを受け取り窓側のテーブル席に腰掛けた私は、眼の前の外苑西通りを通り過ぎる人々を眺めていた。白のノースリーブを着た白人女性、日傘を指す推定日本人の若い女性、マルチーズを連れた半袖の若い夫婦。窓から眺める広尾の街は、ロンドンのような陰鬱な空合が続いていたここ最近が嘘のように8月の米国西海岸のような陽気で、いつの間にか自信を取り戻しているように見えた。

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