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1995年のバックパッカー#27 タイ2 バンコク2 ムエタイとパッポンストリート、微熱と下痢。

結局カオサンロードには2泊しただけで、翌日には別の安宿密集地であるマレーシアホテルエリアのケニーズに移った。カオサンの160ホテルの部屋と違って、その部屋には窓があった。それでも暑いことには変わりなかった。少しでも節約しようと冷房のない部屋を選んだからだ。今思えば、数100円の差をケチっていたのが不思議だが、ローカルの金銭感覚で暮らすことに慣れてくると、その差はやはり大きい。場合によっては家族が1日暮らせる食費ほどの差になるからだ。

夜はムエタイの試合を見にルンピニースタジアムへ繰り出した。バンコクのムエタイの聖地の一つに数えられる名門スタジアムだ。

中へ入ると、そこでは公然と賭博が行われていて、賭博と拳闘双方の熱気が靄のように立ち込めていて圧倒された。各試合はそれぞれに激しく、平凡なものは一つもなかった。


ルンピニーのリング
賭けを募る

中には少年の面影が残る選手もいて、その多くは東北部の貧しい農村から家族を養うために上京して、文字通り体一つで稼ごうとしている青年たちだった。

ハングリー精神などというものではなく、本当にハングリーな事情からのムエタイという選択なのだ。入場前の待機場所には、僕のような者でも自由に出入りでき、緊張と悲しみと殺気のようなものが入り混じった出番直前の選手たちを見ていると、自分の身内がこれから試合の臨むかのような没入感があった。

だが、何よりも僕が一番惹かれたのは、リング横に座る民族音楽隊の奏でる調べであり、そして、その伴奏で舞うリング上での選手たちの艶やかな姿であった。

その踊りの名はワイクルー。師に感謝を捧げるというのが語源であるが、師だけでなく、家族や国へも感謝を示しているという。基本的に試合前の準備体操のようなゆったりとした動きであるが、祈るようなポーズが随所にあり、見ているだけでも崇敬の念が思い起こされるような魅力を持っている。

賭博師たちが僕の頭上で絶叫する客へ呼びかけ声の下で、リング上の選手たちの舞に魅せられていた。それは神社で言えば、巫女の舞のようであり、聖俗が入り混じった姿、つまり人間が低いところから高みを望んでしまう志を体現していているようで、固唾を飲んで魅入るしかなかった。

僕は「生まれ変わり」はあると信じているが、自分の過去生において、リング上や拳闘場で争った記憶や感触はなく、どちらかと言えば、武の心得のある文官のような記憶に彩がある。

そんな僕にも、闘いのみに全てを捧げる者たちの一生を、過去生において、そばで垣間見てきた記憶はあり、その頃の僕にとって拳闘というのは遠からず近からずの位置にあり、心の底には強い憧れがあったようだ。

現在の僕が、キックボクシングや合気道、ブラジリアン柔術に親しんできたのもその影響かもしれない。

翌日は、体調が悪く朝からずっと寝ていた。
微熱と下痢。

涼しいネパールから移動してきて、いきなり真夏の東南アジアを昼間からうろうろ歩き通したり、タトゥを入れたり、夜中にバイクで走ったりしていたのだから無理もない。


それでも好奇心には勝てずに、夜になると微熱・下痢のまま、歓楽街のパッポンストリートへと一人で繰り出した。

なんとなく下見は済ませていたので、一番流行っていると思われるキングズキャッスルへ行った。
店内はそれほど広くはないが、すでに満員に近い盛況ぶりだった。女たちが踊る奥の舞台から客の方へと伸びた迫り出し舞台があり、それを囲むようにU字型のカウンターがある。他にも壁際に小さなテーブルが舞台に向かってぐるりと配置してある。およそ30から40人くらいの客で満席となるサイズの店だった。

入店した僕は、舞台前の砂被りに座るのはさすがに気が引けて、壁際の席を選んだ。すると、すぐに女の子が一人やって来て、いきなりコーラをおごれと笑顔で言う。システムは把握していなかったが、僕は言う通りにした。

僕のシンハービールとコーラで乾杯し、当たり障りのない会話が始まった。彼女からはこんな質問が続いた。どこから来た?バンコクにはどのくらいいるつもりだ?一人か?奥さんはいるか?などなど。そして僕はこんな質問をする。どこの出身?どのくらいここで働いているの?年齢は?などなど。どうでもいい質問というのは、どうでもいいような時間帯には便利なものだ。相手の返事や内容にはそんなに意味はない。ただ二人の空間を埋めるだけだが、それなりに距離は縮まるようだ。

その女の子は自分が踊る順番だとか言い残して去っていった。すると、別の子がやって来て、やはりコーラをおごれと言う。一応値段を確認すると、ノーマルだったので安心して言う通りにする。ぼったくりだったら、店内のこの盛況ぶりはないだろうと自分を納得させた。

2番目の女の子とも、空間を埋める会話をした。何百回も繰り返したやり取りにも彼女は飽きている様子を見せずに、快活で素敵な笑顔を語尾に添えた。

27歳のバックパッカーの僕には、その空間全てが好ましかった。潤いと刹那の光景が僕の目には美しく映っていた。それらは孤独の裏地であり、それゆえに好きだった。大事なことは、表地と裏地は繋がっていて、そこには意味はなく、ただそれだけのことだということを僕は知っていた。

光を反射してくるくると回転するミラーボールは、地球という星の写し身であり、僕らは全て、時々光ったりするミラーのカケラのような存在なのだ。

僕の元には3番目の女の子が来て「コーラー」と媚びる。この子達は1夜でコーラをたくさん飲むのだ。舞台の上で気だるく踊り、客の席で休憩がてらに「コーラー」と言い、指名が入れば店外デートへ向かう。ちなみに彼女たちはタイ訛りで語尾のラーを気だるく上げる。このイントネーションは日本語では稀だ。

僕は4番目の女の子にコーラをおごると、その子を店外デートへと誘った。彼女の名前はハッシ。彼女の指示にしたがって、75バーツを別会計で店に支払い、200バーツをハッシに渡した。

パンポンストリートに2人で出ると、ハッシは高校を早退したような晴々とした表情で僕の横を歩いた。背は低く、髪の毛は肩にかかるくらい。目鼻立ちのはっきりした可愛い子だった。

語尾を上げるタイ訛りの英語で機嫌良く話す彼女といると、恋人というより部活のマネージャーといるような感じの気さくさがあった。


微熱と下痢の僕は、ホテルに行くような気分ではなく、それでもそのまま帰る気にもなれずに、ハッシの言うがままに近くのディスコへ行った。

東京にいる時は、クラブには毎晩のように行っていたが、いわゆるディスコという場所に行くのは高校生以来だった。クラブとディスコの違いは、前者がアートと
繋がり、後者が歓楽街といったところか。今さらという感じで気恥ずかしくもあったが、旅の恥はなんちゃらということで、ハッシの後に付いていった。

キャバクラから出て来た男と女の子たちのとっての、ホテルへ行く前の中継地のようなものだと高を括っていたが、実際は若いタイ人たちが大半を占めていて、いい雰囲気だった。その店の名前は日記に残っていないので、さっぱりわからない。

ハッシと僕は、ビールで乾杯した。コーラではなかった。体調の悪い僕は、あっさりとした雰囲気でいたので、ハッシは僕が楽しんでいないと勘違いしたらしく、何度も「もう出る?ホテル行く?」と口にした。僕は、「実は熱があるし、下痢なんだ」と伝えて納得してもらった。

下痢というのは英語でダイアリアと言う。それもこの旅で初めて覚えた単語だ。旅をするというのは、自分の体調について、英語や現地語で語れるようになるということでもある。

さすがにきつくなってきた僕は、ハッシにそろそろ帰ると伝えた。彼女は、この日本人の男は自分のことを気に入らなくて体調を理由に帰ろうとしているのかもしれない、といった感じにも見れる疑いの表情を一瞬浮かべたが、じゃあねと手を振って去っていった。行く先は、キングズキャッスルなのだろう。稼ぎにならずに悪いことをしたなと僕は思った。


その翌日の日曜日は体調が悪化した。熱は高くなり、下痢は治らなかった。おそらくというか、ほぼ確実だったのだが、胃腸に菌が入ったことによるものだと推測した。さすがに冷房の効いた部屋に移動して、体の負担を減らすべきだと悟り、なんとか頑張ってマレーシアホテルに移動した。

冷房から出てくる冷たい空気は、素晴らしかった。体に蓄積されていた熱と毒素が溶けていくような感じがした。部屋は古いが清潔で広く、扇風機のみの暑苦しい部屋とは雲泥の差であった。

これだけの差があるとはいえ、金額で言えば、2千円に満たない部屋なのだった。いかに節約が大事だとしても、体があってのものだと痛感した。

その日は1日中冷房の恩恵を受けつつ養生に努めた。

その甲斐あってか、翌日にはだいぶ回復した。熱は下がり、下痢も治った。僕は郵便局に行き、国際電話をした。携帯電話がなかった頃の通信手段は電話とファックスで、国際電話は郵便局にブースがあって値段も一番安かったのだろう。
そこのブースに入って、交換手が繋いでくれるのを待つという仕組みだった。受話器に耳を当てていると、交換手が、オーケー今から喋れるよと告げ、その後に希望先の相手に繋がって僕がこんちちはーと始めるのだった。

今思い返すと、まるで月に電話をしているような感じだった。


その夜は、再びキングズキャッスルに行った。

コーラと言いながら寄ってくる女の子たちを遮って、目当ての女の子をさっさと決めると、連れ出し料を店に払い、その子にも店外デート代を払ってから、店を出た。

クラという名の女の子は、さばさばした性格で、愛想がない分、普通の女の子と一緒にいるような感じになれた。

僕たちはディスコに寄ることもなく、マレーシアホテルに直行した。日記には素っ気なく「ホテルでしばらく一緒に過ごした」とだけ記してある。何もせずに会話だけを楽しんだのかもしれない。

翌日は、バンコクからそれほど遠くないリゾート地パタヤに移動した。

発熱と下痢が癒えて間もなく、海辺の街へ移ったスケジュールは、パックツアーの観光客のようだ。いったい何を急いでいたのだろう。おそらく27歳の僕はそういう時間の感覚だったのだろう。次から次へと、息注ぐ間もとらずに、せっかちに移動する、それが僕のタイミングだったのだ。

パタヤは、欧米のおじさんが、短期契約した若いタイの女の子と過ごす姿ばかりが目立つ街だった。

プールサイドでビールでも飲みながら本でも読もうとしても、そこには数組の即席カップルが甘い時間を露出していて、落ち着けなかった。1人でいるのは僕くらいだった。

夜の通りは、気の抜けたパッポンストリートのようで、店は暇らしく、客引きの女の子たちが通り過ぎる男たちにやる気のない視線を送っていた。
それでもパタヤに2泊したのは、そんな緩さが結構好きだったからだ。バンコクという首都の熱気に比べて、2流のリゾート地といった田舎風情のパタヤは、なんだか気が許せた。
元々、何につけても、中心の外側を好む僕だったので、パタヤはちょうど良かった。その感覚は、上り電車よりも、下り電車の方が落ち着くといったら伝わるだろうか。

パタヤから再びバスに乗ってバンコクへと向かった。宿泊先はカオサンロードにした。彫り師のヌイたち、そして世界中から集まるバックパッカーたちの沈没先であるあの道沿いが、少し恋しくなっていたのだ。
















 

 

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