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感想「ゴドーを待ちながら」:棺桶に入ってゴドーを待つ

戯曲「ゴドーを待ちながら」を読んだら、予想と全く違う形で胸に刺さった。
せっかくだから、この戯曲を読んで考えたことを書いてみたい。

これは私の幼少期の話だ

登場人物
<主人公>
ヴラジーミル(ちょい理屈くさい)
エストラゴン(ちょい抜け作)

<脇役たち>
ポッツォ(暴君)
ラッキー(ポッツォの召使)
男の子

「ゴドーを待ちながら」は、本当に「ゴドーを待つ」だけのお話。
内容は「こちらが理解しようとしたそばから、たちどころに振り落としてくる」たぐいの意味の掴めない会話の連続。ゴドーは来ないし、結局誰かも分からない。

劇全体にはユーモアがあるけれど、同時に「よく見知った」絶望感で満たされている。変化がなく、ただ連綿と繋がるつまらない日常への絶望…

主人公たちは身体に少し問題を抱えている。靴を脱がないから足が痛み、不潔でひどいニオイがする。途中、殴ったり殴られたりで、また痛い思いをする。人生を彩るものは苦痛だけか!

1幕と2幕で同じような出来事が繰り返され、ゴドーは現れないまま、主人公たちは最初と同じ状態に戻る。3幕目は無く、お話は終わる。


横たわり続けた幼少期

子どもの頃、することがなかった。
私の小学校6年間の主な余暇の過ごし方。誰もいない茶の間で録画したアニメを延々と繰り返し、寝転がりながら見続けた。
別に、それが好きだったわけではない。他にすることがないのである。

同じ時間に学校へ行き、苦痛の時間をやり過ごすと、今度は家に帰って虚無の時間をやり過ごした。
ヴラジーミルたちは互いの会話でやりすごしたが、私の相手はテレビの画面だったのだ。

子どもの私は、いつも体のどこかが変だった。顔の皮膚がひどいアトピーで剥けていたり、抜毛症で頭髪が抜けていたり、慢性鼻炎で呼吸がままならなかったりした。そんなに閉じこもっていたら不健康になって当然である。

やがて夜になり、家に<脇役たち>が現れる。

姉の反抗期が酷かったのだけ覚えている。
食卓では、ゴドーの脇役たちの支離滅裂な会話シーンにそっくりな不条理劇が繰り広げられた。

そして、私はまた横たわる。今度は布団に。一生懸命、何時間もかけて眠る。
ゴドーの主人公たちも、眠るのには苦労する。

エストラゴン せめて、眠れたらなあ。
ヴラジーミル 昨夜は、眠ったぜ。
エストラゴン やってみよう。
〜〜
ヴラジーミル まてまて。(エストラゴンに近づくと、大声で歌い始める)
  ねむれ ねむれ
〜〜
ヴラジーミル (やや小さく)
  ねむれ ねむれ
  ねむれよ ねむれ
  ねむれ ねむれ
  ねむれよ……

白水uブックス「ゴドーを待ちながら」サミュエル・ベケット/安堂信也・高橋康也 訳 p136  

眠るまでの時間をやり過ごすのにも、労力が要る。
この幼少期の時間に対する感覚が、ゴドーを読んでまざまざと蘇ってきた。


棺桶に入って同じところを回る男

私は「ゴドー」のような無限循環の話が好きだ。
実際に話がループしなくていい。物語が終わっても、登場人物たちは何も変わらずに、元の場所に帰っていく。私はそれでいいと思ってる。カタルシスは必要ない。同じ絶望にまっすぐ帰れ。

「タクシードライバー」1976年

「タクシードライバー」は、私にとって大事な映画。落ち着きたい時によくかける。
これも、主人公が1ミリも変化しないまま、元の状態に戻るお話。

主人公のトラヴィスは性格が悪い。行動だけ見れば、時にみっともない。(演じているのがロバート・デニーロだから、苦悩する格好いい若者に見えて、最初のうちは気付かない)
彼は人種差別をするし、女性を無自覚に蔑んでいるし、他人とまともにコミュニケーションが取れない。飲酒と市販薬乱用の問題を抱え、不健康な生活を続けながら、「健康に明るく生きていきたい」と思っている。

「タクシードライバー」

彼は根本的な問題(彼が自分の性格と生活習慣によっておかしくなっていること)には全く気が付かないまま、人生を変えようと極端な行動に出る。
しかし、病んだ頭で考えても、銃で人を殺すことしか思いつけない。
トラヴィスは、最初は政治家を撃とうとする。しかし上手くいかず、結局弱い人たち(売春の客引きをするチンピラたち)を撃ち殺す。
世間はそんな彼をヒーローに仕立てる。

そして、病気の主人公は治らないまま、再び野に放たれる。
棺桶のような不気味なタクシーに乗って、荒れたNYの街を走り続ける…

「タクシードライバー」ラストシーン

トラヴィスの生活は、今の私のそれに少し似ている。
行動を起こせばだいたい全て不適切で、トラブルしか生まないとろ。己の人格のせいで何もかもが上手くいかず、結局無為の時間へ帰って行かざるを得ないところ…


希望があるとすれば

この無限循環の生活に希望が持てるとしたら、それはやっぱり「ものを作ることを通して」だと私は思っている。

同じような生活の中で、そこだけが少し違った彩りになる。
作ることそれ自体は何の意味もない行動だけど、ただ私の人生に「少しマシな時間と経験」が蓄積されていく。同じ繰り返しの中に、注視すれば違いが見えるようになる。劇的な変化は訪れないけれど、ゴドーを待ち続けるほど絶望的じゃない。作っているものは、作り続けてさえいれば、いずれ必ず完成するから。

そういえば、今はそれでいいと思えている。
子どもの頃と似た無限循環の中にいるけど、あの頃ほどは辛くない。

「ゴドーを待ちながら」を読んで、そういうことに気付かされた。

沈黙。

ヴラジーミル じゃあ、行くか?
エストラゴン ああ、行こう。

二人は、動かない。

ーー幕ーー

「ゴドーを待ちながら」p196

(おしまい)


がんばりますp( ∵ )q