「感動」は、あてにならないという話。
こんにちは。落ちぶれ美大卒のŌと申します。
今回は、3月に行った展覧会の感想を今さら書いてみたいと思います。
ダミアン・ハースト 桜
国立新美術館にて、2022年 5/28まで開催中。
この展覧会をみてきた感想です。
これから「感動しなかったけど、感動した」という話をします。
「”感動しないもの” にこそ価値がある」と思う
これは、最近の私の教訓です。
私は、美大では「ただ就職のためだけに」デザインや映像の勉強をしていたので、現代美術には興味がありませんでした。
それらに興味を持ったのは、大学を卒業してから。
藝大の大学院で現代美術を学んでいる友人に勧められた展示を見に行ったのがきっかけでした。
当時みたのはこれです。
トム・サックス「ティーセレモニー」
いくつも作品をみてきて思うのは、私にとってのアートの価値は「自分が知る由もなかった価値観に触れられること」です。
私は、私には持ち得ない文化やパワーを持った作品に惹かれる傾向があります。
ここで、矛盾が生じます。
それは、「人間は自分が知っているものの範囲でしか感動することはできない」という話があって、これが体感的に概ね正しいからです。
つまり、「私が感動したその時点で、その作品には ”私が知っている文化やパワー” が組み込まれている」という事で、矛盾が生じるのです。
私がこの説に出会ったのは、ピエール・ブルデューという偉いひとが書いた「ディスタンクシオン」という本がNHKで取り上げられた時でした。
ブルデューは、現代に隠された貴族社会を告発するこの本の中で「教養がなきゃ芸術なんかわからん」と書いて、アンケート調査でそれを証明してしまいました。
以下引用です。
「感動には、事前に身につけた”教養”が必要だ」と言っています。
だから、私がアートに感動し続けるためには、「感動しなかった」作品も知っていく必要があると、私は思いました。
むしろ、感動しなかったものを掘り下げていった先にこそ、「自分が知る由もなかった価値観に触れられること」による感動が待っていると思ったのです。
そっけない感想
「ダミアン・ハースト 桜」の展示をみて、私は最初に「こんなもんか」と思いました。物足りなかったのです。
ダミアン・ハーストはホルマリン漬けした動物を「作品だ」と言って、サザビーズで高額落札させてしまうような人です。
私は「いかにも欧米現代美術のスター作家という感じの人」という勝手なイメージを持っていました。
そんな気鋭の作家がわざわざ、古臭くなりがちな「絵画」を描くんだから、なんか凄い視点とか表現とかがみられるだろうと期待したのです。
しかし、展示室に行ってみると、ポスト印象派(スーラの点描画など)がやったような色彩表現をポロックみたいに描いたでかい絵がでーんと並んでいたので、「確かに綺麗な桜だけど、それだけかあ…」と思ってしまったのです。
しかし、それでは作品と向き合ったとは言えません。
私の教養の中に、彼の作品で”感動”したり、面白いと感じるための何かが足らなかっただけなのですから。その原因がわかるまでは「鑑賞終了」にはしたくないのです。
足りない教養を求めて
会場の隅では、ダミアン・ハースト本人に、作品についてのインタビューをした映像が流れていました。
そこに何か役立つ情報はないかと、映像を視聴し、私は驚きました。
そのお話のなかに、私が感動しそうな要素が詰まっていたからです。
「絵画は好きだけど、描くのが怖い」という気持ち
スピン・ペインティング
キャンバスを回転させて描画したハーストの作品。
スポット・ペインティング
色の違うドットを配置したハーストの作品。
ハーストはこれらを「絵画の彫刻」と呼んでいて、直接的な絵画表現を避けていた事を明かします。
度胸がなかったんだ。
うわああああああああああああああああ!
私は死んでしまいました。
このエピソードでいろんな(思い出したくない)ことを思い出したからです。
もちろん、欧米アート市場のトップを走る芸術家と私個人の体験なんか比べるのもおこがましいのは分かっているのですが、共感してしまったのです…
<桜>に共感した理由
度胸がなくて、逃げ回っているのが私の人生です。
私が絵画に全精力を向けていた時期は、美術高校の生徒だった頃のたった2年間だけでした。
あの頃描いたものは、美大入試用のデッサンを除いて全て捨ててしまいました。
それでも、「作品」とした描いた絵に関しては、何を描いたか今でも1枚1枚覚えているし、描いている時は真剣そのものでした。
高校2年生になった頃、自分の高校に教員免許取得のために実習に来た藝大生や、藝大卒で国画会会員でもあった担任の姿を見るにつけ、
「日本で絵を描く者のまともな行き先は、教育機関くらいしかない」
ということが明るみになってきました。
それが嫌なら、犠牲を覚悟しなければなりません。
40過ぎても金のないフリーターで、誰も見向きもしない絵を描き続ける灰色の未来は、10代にも簡単に想像がつきました。
私は「デザインがやりたい」と、自分に嘘を吐きました。
そこから私が再び絵を描き出すのに、10年かかりました。
そこそこ条件の良かった就職先を辞めてフリーターになり、時間を作った今でも私は、真剣に絵画と向き合うことから逃げています。
描きたいと思ったものを、アートの文脈も絵画的な見せ方も無視して、ただつらつらと趣味で描いているに過ぎません。
それでも、どんなにしょぼくてゴミのような絵でも、描いている瞬間、書き上げた瞬間は、全てが許されているような満足感に浸れるのです。
その「描く」行為に至るまでに、いつも言いようのない恥ずかしさと、「全て、自分の存在の何もかもが失敗である気がする」という恐怖が邪魔をして、心と体が縮んでいるような気持ちが、今でもするだけで。
<桜>に感動できなかった理由
私が絵画が好きになった原体験は、すべて「印象派」にあります。
それは、私の実家の近所にあった美術館がしょっちゅう印象派の展示をしていて、中卒給食調理師の妻である母が印象派好きだったからという、ただそれだけのことです。
300円かそこらで入れる田舎の金のない公立美術館は、バブル期の日本人が集めた、国内にある印象派の絵画を寄せ集めて企画展をしがちです。
そして国内の画家の展示も、明治初期に印象派の影響を受けた流れを汲んだだけの、中途半端な画家の作品ばかり。
つまり、日本のあんまり教養のない家から出発した人間は「まず印象派に出会い、好きになりがち」なのです。
冒頭のディスタンクシオンを思い出してください。
私は、頭で考えたことはなかったけれど、この傾向に気がついていました。
私は金のかかる私立の美大に進学し、すっかり自分の卑しさに辟易していたので、なんとなく「印象派が好きな自分、ダサいよな…」という感覚を、誰に言われるでもなく身につけていたのだと思います。
だから、私は「印象派的なもの」が全く好きではなくなっていました。
だから、ダミアン・ハーストの桜で感動しなかったのです。
「あの色彩は、印象派的だ」と思ったのですから。
”足りない教養” とは何だったのか
自分のことを知り、自分のコンプレックスを知り、それと誠実に向き合って克服した状態。
ある意味、究極の教養なのではないかと思います。
これが足りないがために、私はダミアン・ハーストの桜に感動できなかったのです。
アートを楽しむのに必要なのは、アートに関する教養だけじゃなかった…
たいへん勉強になりました。
当初の望みと違う形ですが、感動したと思います。
がんばりますp( ∵ )q