社会に飛び出せたのか、わからない。
わたしたちは、どこに行くのか。
社会人になったはずなのに、わからない。
4月になった。私は、3月に大学院を卒業したはずだった。
もう、「学生」という身分ではなく、社会経済に直接働きかける存在になるはずだった。
しかし、コロナによる自粛、自宅待機、緊急事態宣言…暗いワードが立ち並ぶ中で、私は自宅での執筆活動と読書生活を続けている。
もちろん、私は今の生活も嫌いではない。
薄靄が晴れない
読書を、続けた。
私は読書の内容を他者につたえるというアウトプットよりも、読書活動の啓発をメインに行なってきた。
しかし、結局、暗雲が立ち込める。
知識を蓄えて、それを発散できることも幸せなことであり、とてもいいことだと思う。
それでも、いま外では強い風が吹いており、経済と生命、政治への不安も吹きすさぶ。
外で聞こえる声は、社会人になる前よりも大きく、強く、ひしひしと感じている。
青年期は本来、マージナル・マン(境界人)であり、自分がどういう人間なのかと悩む時期である。私自身はもう社会人であるはずなのに、今は、これまで以上にこの不安を感じて、生きている。
ゴーギャンの名作が常に頭の中にある。
『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』
このタイトルを、今まで以上に、深く感じてしまう時期が来てしまった。
言うは易く、行うは難し。
テレワークとなって「おうち時間」を享受する事となった多くの人々は「自己研鑽」という言葉を愛用する。
自分を磨く時期である。良い充電時間である。ということだろう。
もちろん、自分自身の時間を持ちきれなかった人々からしたらこれはいい機会であるだろう。
しかし、自己研鑽で読書をする!という人々は「読書をする体験」ということに主眼が置かれてしまい、本来の知識を得るという段階に行けている人々がいるかはわからない。
「テレワークで自宅待機し、その中でゆったりと読書をしている自分」に満足している人がどれほどいるのだろう。
あるいは「おうち時間」をSNSに共有するためにそのモーションをとる人々はどれほどいるのだろう。
自己顕示欲のためであっても、行動することができれば大したものだ。しかしそれだけであってもいけない。
知るは難く、行うは易し。
孫文の言葉に「知難行易(知るは難く、行うは易し)」というものがある。
多くの人々は「知るは易く、行うは難し」という言葉のほうが耳にしたことがあるだろうし、そのほうが日本では主流なのかもしれない。
あるいは、前節の「言うは易く、行うは難し」が最もポピュラーな故事成語だろう。
人々が知る「知るは易く、行うは難し」とは、陽明学を由来とするものである。知行合一、致良知などで知られる陽明学は、ビジネスマンの推薦書の中でも取り上げられているし、現在日本では朱子学よりポピュラーではないかと感じられる。
おそらく、日本人はその結果として、頭でっかち型の人々が増えていった。どうしても、そのような印象がぬぐえない。
だからこそ、より一層「知行合一」が説かれるようにもなっていったのかもしれない。しかし、日本式の読書法や勉強法がいつまでたっても実りが得られないのはこの体制で有り続けているからかもしれないのだ。
読書量を誇り、引用することは素晴らしいことかもしれないが、そこからその本の「本質」を探る段階にいたることが本来の「知る」である。
これらを前提において、『孫文学説』を読むと彼の言説の意思に深い説得力を与えることとなる。
孫文はこの著作全八章において知難行易説を繰り返し解く。その中で、「行うことは簡単であり、知ることは難しいのであるからよく知るべき」という言説があるのは想像に難くないだろう。しかし特徴的なのは、彼は、多くの人々は知らずして行っていることも念頭に置いているということにある。
ここで思い出してほしい。多くの人々は「読書をする」という行動をする。それはたしかに容易なことである。しかし本質に当たる「読書によって物事の本質に手をのばす」という段階の人々は確かに少ないのではないのか。
話を続ける。
孫文はさらに人々を先知先覚者、後知後覚者、不知不覚者の三種に分類する。
先知先覚者とは、先に知ることで行動する、発明家を指す。
続く、後知後覚者とは、先に行動することで知識を得ていく宣伝家である。最後の不知不覚者とは、読んで字の通り、知らずに行動する実行家である。
こうして考えてみると、自分自身はどれに当てはまるのか。
本来の意味で「知る」ことができ、人に啓発する、あるいは新たな価値を想像する事はできているのだろうか。
事実、『孫文学説』において、発明家はごく少数であり、多くの人々はこの実行家であると記されている。
一部の人は、このカテゴライズを自分のことへ落とし込めるだろう。
「先知先覚者とは、点火型」だ!というだろう。
そうだ。点火型でいいのだ。
しかしちょっとまってほしい。その前提に「本質を知る」ことはできているのだろうか。そこまで立ち戻って考えてほしい。
ただ人を焚きつける人間になってもいけないのだ。
本質で生きていきたいと思っても、それは社会からはずれているのか
こうして文章を書いていても、あるいは他者の文章を読んでも、ある程度の異端さを感じつつ生きている。
なぜ日本がこんなにも暗いのか。それは、このわたしの違和感の中に合致する部分に要因があるのかもしれない。
ぜひ、読書をするなかで一度しっかりと咀嚼して本質を見極めてほしい。
そのためにこの長い時間があるはずだ。
そうして、日本を、政治を、経済を、社会を、変えていくことが出来る…
それこそが本来の社会人なのではないだろうか。
それが大勢となることを望もう。
しかし、きっとそうはならない。自分はいつまでたっても違和感から抜け出せない。
だから、臆せずに言おう。
社会にとびだせたのか、わからない。
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