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言葉に踊らされるな。自分で考え、よく生きよ。—技術発展と、私たち—

こんにちは、hanaです。
2010年代に別れを告げ、新しい”2020年代”が、始まりました。
それは、私達一人ひとりにとっても、日本、そして世界、あるいは歴史でも、新たな時代の始まりだという感じがしていますね。
いまから、ワクワクしています。

さて、今回は、みなさんと科学技術の発展を振り返りながら、私達人間のあるべき姿、役割を考え直してみたいと思います。

今回のキーワードは、「効率性」「創造性」です。
この2つの言葉を念頭に置きながら読み進めれば、私達が「よく生きる」ということは何たるか、あるいはこの科学技術との付き合い方についても少しずつ、考えていくことができると思います。

目まぐるしすぎる技術発展―SFがすぐそばにきた!ー

科学技術の進歩や、歴史の出来事も、人工的な区分ではあるかもしれませんが、10年ごとに進歩を遂げてきました。

たとえば、携帯電話。1990年代の電話機の子機のような形態の携帯電話から、30年で形態も機能も、通信速度さえもずいぶん変わりました。

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しかし、このような小型情報端末の登場自体、1900年代以前には想像できたことでしょうか?
あるいは、2000年代の私達は「Youtuber」なんて職業を想像できたのでしょうか?

技術進歩により、私達の情報獲得の速度は格段に向上しました。よく言われる話ですが、現代人が一日で収集する情報量は、平安時代の人々の一生分であり、江戸時代の人々の一年分なのだそうです。
これほどまでの発達であれば、私達人間の役割も変わってきそうです。
ましてや、2020年代は、AI(人工知能)の時代が到来します。これから、私達人間はどうあるべきなのでしょうか。あるいは、何を重要視していくべきなのでしょうか。

AIは、人の本来の価値を問いかける存在。

AIもまた、時代とともに発展してきた一例としてあげることができます。
松尾豊の著書、『人工知能は人間を超えるか』によれば、AIのブームはこれまで二度訪れており、今回は三度目であり過去にないほどの盛り上がりを見せているそうです(以下の図参照)。

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その第三次AIブームはビッグデータの演算機能や、ディープラーニングと呼ばれる学習機能により、幅広い分野での活躍にまで発展しました。その例として、Siriなどの音声認識、将棋のAIとプロの対決、あるいは、AIひばりの登場にまで至ります。

AIひばりは、特に昨年の紅白歌合戦で登場したことからも話題になったため、記憶に新しいのではないでしょうか。彼女のパフォーマンスは、感動をお茶の間に届けただけでなく、賛否両論を巻き起こすこととなりました。それは、死者の復活といった倫理にまで関わる次元に達したことによるものです。

ディープラーニングとはすなわち、幅広いデータの蓄積ですから、感情の分析はもちろん、その人の性格、思考パターン等まで再現することも可能でしょう。これは、AIひばりに限った話ではなく、「AIによる自己分析・適性診断」「AIによる楽曲作成」などでも言えることです。

すなわち、「AIは、本当に本人の代弁者足りうるのか。」という問題の登場は、AIが触れてはいけない聖域に触れてしまったということを明らかにしたものでしょう。科学技術の発展につきものである反面、とてもむずかしい問いです。
ただ、これもまた、AIが平等に人を理解し、絶対知として君臨するのであれば、可能なのかもしれません。

否、果たしてそうでしょうか。私には、AIが人間の本来の価値とはなにかを問う存在にも見えてくるのです。

AIの発展は、また別の方向からも、人の本来の価値を問います。「AIに仕事が奪われる!!」という言葉を耳にする頻度は年を重ねるごとに増しています。

下の図は、英オックスフォード大学のオズボーン准教授らが論文において、人工知能に奪われそうな仕事のランキングを発表したものを、週刊ダイヤモンドが整理したものです。

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出典:『週刊ダイヤモンド』特別レポート「機械に奪われそうな仕事ランキング1~50位!」、2015年8月19日

販売職や経理、事務といった計算を伴う職業がAIに代替されやすく、創造性の伴うデザイナーや、その場での判断が求められる職業が代替されにくいといえます。

しかし、私には疑問でたまらないことがあります。

「AI時代が到来する、私達は淘汰される!どうしよう、生き残りたい。」という嘆きの声を聞きますが、果たして、スキルアップやその時の流れに身をまかせない生き方をしている人はどれくらいいるのでしょうか?

あるいは、その言葉に、支配されていませんか?
嘆く時点で、皆さんはAIによってコントロールされる存在に、なりさがっていませんか?


効率性と合理主義にとらわれるわたしたち。

私達がどうしていくか。本来はそのことを明確に提示しなければならないはずでした。そのつもりでnoteも書いています。
しかし、私はこの言葉に対して一つの哲学的な答えしか見いだせませんでした。
哲学的であるということこそが、私がAIとは明確に相反する部分であり、自分自身に価値のあると評価できる部分だと考えたからです。

すなわち、どういうことか。
「よく生きよ。」それだけで良いのです。この定義での「よく」とは、善悪という意味ではありません。
人間としての引き出し(知識・スキル・教養・思考力)を増やし、感情を豊かに、自分が誰にもゆずれないほどによく生きていくことを指します。
この、人が、よく生きることこそが、AIとは異なる部分であると私は考えます。

科学技術の進展により、「効率性」とか「合理性」といった言葉を重視される世の中へと変わっていきました。時短術・要約・シンプルに。もちろんどれも重要なことでありますが、エッセンスだけを見て本来の形が見えてない状態の人が多すぎるように思います。

「和蘭事彙(ズーフハルマ)」を手書きですべて写した勝海舟は、現代人からすれば、明らかに非合理的であり、非効率的でしょう。しかし、果たして本当にそうでしょうか?
効率化されれば、ただコピーを取るだけになりますね(※現在なら著作権法があるのでこの限りではありません)。それでは、勝海舟が手書きをする中で得られた思考や、知識はその手元には残りません。
私達のレベルに落として言えば、卒業論文や数ある学術論文で、先行研究を整理する中でそれが新説でなかったとしても、執筆者は整理する中で、グーグルでただ検索した以上の収穫が得られているはずです。読者もまた然りです。

私が問いかけたいのは、こういった部分にあります。

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(写真はwikipediaより。)

「よく生きる」とは、そういった意味での人間的な価値を高めよ。ということなのです。AIに効率化される部分は、AIの得意な部分であります。しかし、私達には、AIの計算の範疇外の発想力と整理力があるのです(だって誰もAIの話で勝海舟につなげようと思わないでしょう?)。
それを人は、「創造性」とでもいうのでしょうか。

AIや技術的進歩による「合理的な社会」の登場により、カオスな時代になりました。
生活レベルの向上によって、人の苦しみは肉体的なものから、精神的なものへと移行しました。
人は便利さを求めた結果、人としての価値を見失いつつあります。

それはまるで、ミヒャエル・エンデの「モモ」の時間泥棒(灰色の男)たちや、「はてしない物語」で願い事を叶え終わったバスチアンのようで、皮肉的であり、いささか痛ましく思うのです。

「彼らは人間の時間をぬすんで生きている。しかしこの時間は、ほんとうの持ち主からきりはなされると、文字どおり死んでしまう。人間はひとりひとりがそれぞれじぶんの時間をもっている。そしてこの時間は、ほんとうにじぶんのものであるあいだだけ、生きた時間でいられるのだよ。」
「じゃあ灰色の男は、人間じゃないの?」
「いや、人間じゃない。にたすがたをしているだけだ。」
「でもそれじゃ、いったいなんなの?」
「ほんとうはいないはずのものだ。」
「どうしているようになったの?」
「人間が、そういうものの発生をゆるす条件をつくりだしているからだよ。それに乗じて彼らは生まれてきた。そしてこんどは、人間は彼らに支配させるすきまであたえている。それだけで、灰色の男たちはうまうまと支配権をにぎるようになれるのだ。」
引用元:『モモ』ミヒャエル・エンデ作、大島かおり訳

その結果、AIや、合理性に私達は精神的に支配されているようになりました。
本来、AIは人類によって生み出され、人類がコントロールする存在であるはずでした。しかし、知らず識らずのうちに、人類はAIが前提となり、自らのちっぽけな創造性とやらにすがろうとするのです。

そして、創造性というのが、人類が火や電気、デジタル世界を作り出した力や、ホメロスや清少納言、シェークスピアに代表される文学、あるいは古来から人類とともにあったと言われる芸術、そして「よき統治」、「人間の自然状態」、人生論といった政治学や哲学など多岐にわたる叡智を蔑ろにしないものであることを祈るのです。

脱出せよ。そしてイマジネーションの海へ。

一般論や数々のAIに関する先行研究で語られる通り、創造性こそが、人間に与えられた価値であり、AIには達成しづらい機能であるとも言えるでしょう。

わたしは、それだけでなく、価値観や思考力もまた、私達の独自性であると考えます。アイデンティティは、AIに推し量れないもので有るべきなのですから。
AIからすれば、ニュースの整理や、既存データの分析は、容易に推し量れることでしょう。感情分析もお手の物でしょう。そういった仕事が「奪われていく」のは仕方がないのかもしれません。効率化されるのなら、良いことかもしれません。

しかし、だからこそ、AIが軽減させた仕事の先に、私達の本来の人間としての価値・働きが見えてくるのでしょう。
そのためには、自分たちの思考をAIの管理下から脱出させなければいけません。「効率性」とやらは支配される対象ではなく、利用する存在に留めなければなりません。

知識の泉は、深く、広く、そして果てしないものです。
何かを嘆く暇があれば、人類の遺産にでも手を伸ばしていくことで、自らもその新たな生産活動に足を踏み入れることができるのです。

人間の価値は、「生み出すこと」であり、0から1にすることです。
こうして書かれたnoteもまた、どんなに雑で稚拙な文章であっても、AIには書くことのできない、新たに生まれた存在です。

さて、最後に思い出してほしいことがあります。
AI化された社会が訪れたとしても、ある日誰かがその心臓部にやってきて、電源を切ってしまったら…。
あるいは、天災によって、すべてがシャットダウンしてしまったら…。
コントロールされた人々は、成す術を持たない、というのは、こういった差し迫った部分にも見えてきます。

便利さは、人に効率化をもたらすでしょう。
そして、それと同時に、怠惰をももたらすでしょう。挙句の果てには、私達から大切なものを、奪っていくのです。

それが何であるかをしっかりと考えて、現代を、2020年代を生きていきたい、と切実に思います。

みなさんも、よく生きてください。

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