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#映画感想文159『灼熱の魂』(2010)

映画『灼熱の魂(原題:Incendies)』を映画館で観てきた。4Kデジタルリマスター版である。

監督・脚本はドゥニ・ビルヌーブ、原作はレバノン出身のカナダ人劇作家ワジディ・ムアワッドの戯曲だという。

2010年製作、131分のカナダ・フランス合作映画。

話題の『DUNE/砂の惑星』の監督の ドゥニ・ヴィルヌーヴの初期作品である。わたしが映画を追いかけるのをやめていた頃に、いつのまにやら、出世していた監督で、訝しくも思っていた。

『DUNE/砂の惑星』は、失業中にIMAXで、3時間以上、砂漠を見せられ、シャラメとデンゼイヤがいたにも関わらず、全然面白く感じられず、鑑賞後にひどい落ち込みがやってきた。被害者のような気分で、エンドロールの時は、ちょっと泣いていた。人間は、あまりのつまらなさにショックを受けて、泣くこともある。「物語はこれから始まるのよ」ってふざんけんなよ、と正直思った。メンタルがどん底のときに、お金と時間をドブに捨てることになったと思ってしまい、さらに追い打ちをかけられた。

まあ、事実は逆で、おそらく落ち込んでいるときに、『DUNE/砂の惑星』を見たといったほうが正しいのだろう。そんなわけで、ドゥニ・ヴィルヌーヴをすごく疑っていた。わたしの中で、「なぜか評価の高い監督」という位置づけになっていた。『灼熱の魂』の宣伝文句には、ドゥニ・ヴィルヌーヴの伝説の出世作とあったので、まあ、基礎教養として観ておくか、という感じだった。

そして、ここ最近、『プアン/友だちと呼ばせて』や『神々の山嶺』を観て、とても質が高く、両作品ともすごく面白い映画だったのだが、あまり揺さぶられなかった。映画館通いに慣れてしまって、感動が薄くなってきたのかな、と考えていたりした。飽きているなら、ちょっと距離を置いた方がいいのかもしれない、と。

でも、『灼熱の魂』を観て、そんな思いは吹っ飛んだ。映画を観ることは絶対にやめてはいけない。それぐらい作品にパワーがあり、そしてショッキングな映画体験であった。

映画冒頭で、双子の姉と弟は、亡くなった母親からの遺言を知る。父親と兄を探すようにと母親から指示をされた弟はものすごく反発する。生きているあいだも変わり者だった母親にさんざん迷惑をかけられてきたのに、死んでまで異常な行動をするのかと母親を非難する。一方で、姉の方は母親の遺志を尊重しようとする。

ストーリーは、母親の娘時代と双子の旅が交互に交わるように進み、双子は母親の人生をたどり、悲惨な結末を知る。ただ、この映画の凄さはシナリオだけではないのだ。

際立って感じられたのは、音である。木の葉が風で揺れる音、銃撃音、サッカーボールを蹴る音などが、ものすごく際立って鮮やかに聴こえてくるのだ。足音を立てない(無音にする)ために、ヒールを脱ぐシーンは象徴的ですらある。BGMは極力抑えられ、観客は音に耳を澄ませ、息をのむ。

そして、映画のどのシーンを印刷しても美しいだろうという、白い岩肌と砂の世界に圧倒される。(『DUNE/砂の惑星』では勘弁してよ、と思った自然描写が素晴らしかった)

描かれていたのは、女の業の深さでも、母親の愛でもなく、生き抜くことを選んだ一人の女性の人生だった。彼女は、生きることを「選択」したのだ。その意志の強さに対して思うことは、憧れや尊敬という言葉では足りない。そして、こういう女性がどこかにいるのではないかと思わせるリアリティがあった。傷ついた魂は、死ぬことで癒されていることを祈りたくもなった。

変わり者である母親が抱えていた葛藤を、双子の娘と息子は、母親の死後に知ることになる。これは母親の愛と優しさであり、「おまえたちも生き抜くんだぞ」という叱咤激励にも思える。

アメリカやカナダ、ヨーロッパに難民、移民として移動した人々の中には複雑な背景と来歴を持った人がたくさんいるのだろう。そう考えると、日常とそうではない世界を生きる人たちと我々を隔てるものは何なのだろう。

人間はいくらでも野蛮になれる。しかし、「歌う女」のように気高く生きることだってできる。

ドゥニ・ヴィルヌーヴには映画を撮らせ続けさせなきゃ駄目だよ、という気分にまでさせられた。

もう、ドゥニ・ビルヌーブのことを『DUNE/砂の惑星』のつまんない監督だなんて言わないことを誓う。

(ジャンヌ役を演じたメリッサ・デゾルモー=プーランは、顔がティモシー・シャラメにそっくりである。ドゥニ・ビルヌーブは、ああいう系統の顔が好きなのだろう、とも思った)


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