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#映画感想文003『風の谷のナウシカ』(1984)

宮崎駿監督の『風の谷のナウシカ』をはじめて劇場で見てきた。

1984年製作、116分のジブリ映画である。

幼少時にVHSで繰り返し見てきたはずなのに、ストーリーを全然覚えていなかった自分に苦笑してしまった。そういえば、ナウシカって途中で寝てしまっていたような気もする。つまらないのではなく、子どもが安らぐ映画という意味である。はっきり覚えていたのは、冒頭とエンディングのみである。なので、ナウシカとは、無垢な女性(少女)というイメージで固定されていた。今回、見て思ったことを列挙すると以下のようになる。

・姫様は働き者で、行動力抜群で、咄嗟の判断力があり、指揮官としても優秀
・姫様、研究者気質(秘密の地下室のシーン)
・姫様、運動神経抜群(身体能力高すぎ。『進撃の巨人』の調査兵団とかでも余裕で働けそうである)
・姫様、殺人の手際がよい
・トルメキアの背景説明があまりない
・巨神兵のシーン、超短い(庵野秀明の恨みつらみを想像してしまったが、あの短さで、映画の中心に位置していたと勘違いさせる、ということはかなり印象的なシーンだったといえる)
・あからさまに伏線が張ってある
・ナウシカの飛行だけでなく、軍艦もかっこいい

ここからは、わたしの問題なのだけれど、宮崎駿監督のインタビューや多くの人々のレビューなど、宮崎監督は有名無名問わずあらゆる人々に語られる存在である。それゆえ、脳内補完が甚だしいことがわかった。

鑑賞しながら、わたしは『もののけ姫』とナウシカをミックスして、勝手な解釈を加えて、編集していることに気が付いた。いやはや、脳みそや記憶というのは、本当にいい加減なものだ。『風の谷のナウシカ』は文明批判と虫愛でる姫君が自然との共生を訴える映画と簡略化してまとめていたが、暴力性もあり、軍隊も描かれ、それほど説教くさくもなかった。

そして、ナウシカは無垢で優しい女性というだけでなく、仕事ができるリーダーとしての役割が大きい。わたしがキャリアウーマン的な存在として見ていたクシャナは、部下の存在によって、勝手にそう思っていただけだと気づかされる。(わたしの脳内では、クシャナと『もののけ姫』のエボシ御前がごっちゃになっている)

わたしはある時期から、宮崎駿監督の文明批判と自然崇拝を大人の欺瞞のように感じていて、批判的であった。無垢な人間でいたがるおじさん芸術家を傲慢だと思っていた。今となっては、2020年現在となっては、宮崎駿監督がしてきた指摘は正しかったと言わざるを得ないという気がしている。

人類のおごりが、今の事態を引き起こした、といっても、あながち間違いではない。経済優先で、物のやりとり、とにかく右から左へ動かし続ける。情報だろうが、玉ねぎだろうが、なんでも動かせ、というグローバル資本主義の世界に生きている。新自由主義で、すでに傷を負っている人々は、今の状況でさらなる傷を負い、明らかに経済的な苦しさが先行している。環境問題にまで言及する、取り組む余裕がない。むしろ、以前の世界に戻すにはどうすればいいのか、という観点でしか語ることができない。それが現実であり、生きていくことの難しさである。理想を語ることはできるが、明日の食い扶持もないとき、何も考えられなくなる。貧すれば鈍する。他人事では済ませられない。我々は経済という血液が循環しなければ死んでしまうのだから。そして、誰しも、その循環の中でしか生きられない。

個人的には、あまりに脆弱な都市空間で平然と生きてはいるが、これが永遠には続かないと覚悟すべきだと思っている。ただ、3.11が起きたあとも、結局、日本社会は変わらなかった。今回の感染症でも、変わらないのかもしれない。もしかしたら、人は損傷することやダメージでは、回復に汲々とするだけで、エネルギーを使い果たしてしまうのかもしれない。

3.11を機に、結婚した人もいれば、結婚を解消した人たちも少なくない。いろんなものが、剥き出しになったことは事実である。生き方や人生を転換せざるを得ない人々が、今(2020年8月現在)、世界中にいて、わたしもその一人である。ポジティブに変化しようと言われても、鼻白むだけだ。崩壊が起きれば、濁流に飲み込まれ、死に物狂いでに泳ぐことしかできないだろう。崩壊直前の静けさの中で暮らしているが、何かを変化させるには至っていない。人間には恒常性があり、変化を嫌う性質がある。俗にいう「面倒くさい」というやつである。面倒くささは、ありとあらゆるところに潜んでいる。

わたしは毎日、着替え、歯磨き、入浴、洗濯、皿洗い、働くこと、勉強することの面倒くささと格闘している。やってしまえば、どれも気持ちよく、達成感が得られることは知っているにも関わらず、エンジンがかかかるまで時間がかかる。週末は、睡眠に逃げる。逃げたところで、頭痛がするだけだとわかっているのに、繰り返す。犯人は、「面倒くさい」という怪物である。しかし、日常は、かくも壊れやすい。

風の谷の人々が、トルメキアの侵攻と王蟲の大群をまえに、なす術がなかったような状況が、今の現実である。

我々は日常を愛おしんだり、疎んだり、いつも忙しい。ただし、それは日常の継続性が担保されているときだけできる贅沢なのだ。

立ち尽くすだけでなく、考え続けることができるだろうか。少なくとも、崩壊に備えること。いずれ崩壊することを踏まえて、生きることが、今、必要なことだという気がしている。

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