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#映画感想文005『もののけ姫』(1997)の感想

スタジオジブリ作品、宮崎駿監督の『もののけ姫』を劇場で観てきた。

いやー、『風の谷のナウシカ』に引き続き、何も覚えていなかった。しかし、ナウシカを鑑賞したあとなので、セル画がものすごく美しくなったように感じられた。

公開当時の私は、宮崎駿は一体何が言いたいのか、と憤っていた記憶がある。どちらつかずの結論(結末)に失望したのだと思うが、改めて見て、一刀両断な結末にしようがない、と思った。昔の自分が物事を単純化し過ぎていた。(物を知らない、というのは恐ろしいがそれが若者の特権であり、エネルギーでもある)

1997年夏、私はサンの声優が本職の声優ではなく、石田ゆり子であることにも文句を言っていた。きれいな声で、野性(野獣)感が足りぬ、と思っていた。ただ、サンの出自や取り巻く状況を考えると、あの美しい声が妥当なのかもしれないと今回は思えた。サンは、物語の中で常に右往左往している。物語における象徴的な存在ではあるが、主人公ではないのだから、それほど強い色は不要だったのかもしれない。

物語の冒頭で、アシタカには呪いがかけられ、彼は異形の存在となる。故郷を追われるといったら大袈裟かもしれないが、彼が村にとどまるという選択肢はなかった。村に残る=死、となるため、彼は旅立つしかない。道中には、さまざまなピースが散りばめられ、結末に向かって回収されていく。

私は『風の谷のナウシカ』と『もののけ姫』をごっちゃにしていたが、物語の展開自体は非常によく似ている。ナウシカが、西洋風無国籍な舞台設定である一方で、もののけ姫は日本の室町時代であるが、田舎(辺境)が、都市(中央)の混乱に巻き込まれていくという構造は同じである。アシタカはナウシカとアスベルの役割を担っており、忙しい。

アシタカは、文明と自然が共生できないものかと訴え続ける。文明側は自然を屈服させようとする。自然は、抵抗と復讐を試みる。私はアシタカをきれいごとを言う、無茶な主人公だと思っていたが、今はそれしか落としどころがない、と思えた。アシタカが一番現実主義に見え、どちらかが滅びたところで、破滅が待っている。もちろん、人間は不要な存在なのだが、それをいったら、我々人間はみな死ななければならなくなるし、人間を生み出したのも自然である。人間も暴走する自然の一つの形態に過ぎない。そして、アシタカは祟り神に呪われた異形の存在であり、彼もまた普通の人間として生きていくことは許されない。物語の中において、アシタカとサンは、はぐれ者であり、行き場がない。そこがナウシカとの決定的な違いである。彼女は決して揺らぐことがない絶対的な存在である。『もののけ姫』のアシタカとサンの存在理由は、揺れ続ける。

ナウシカのクシャナに相当するのが、タタラ場のエボシ御前である。彼女はフェミニズムを背負っているように見えるが、男社会の論理を内面化した名誉男性としての一面もある。最終的には男社会に利用される存在としても描かれる。

エボシ御前は、人身売買され売春するしかなかった女性たちに労働をさせる。女に仕事を与え、銃を持たせる。以前、作家の桐野夏生がどこかのインタビューで「男女平等なんて、女に銃を持たせることでしか実現できない」と言っていたが、それは真理である。男性のパワーの本質は、肉体的な強さであり、密室で男女が二人きりになったとき、その気になれば、男は女を殺すことができる。だから、女性は男性が理性的であることを願うが、男性は女性を屈服させることが物理的に可能であることを知っている。この不均衡を解消するのは、なかなか難しい。エボシ御前は銃を持たせ、女たちと侍を戦わせる。アシタカがタタラ場に戻るように促しても、エボシ御前は従わない。「武器は持たせている。自分の身は自分で守れ」というエボシは冷徹なリーダーという印象も与えるが、シシ神殺しにかけた労力を無に帰すことはできない。彼女にとっても、この遠征は一大プロジェクトであり、ここで片を付けなければ、今後の面倒な人間との戦いにも支障が出る、ということなのだろう。経営者的な時間軸があれば、そう考えるのは当然だと思われる。また、銃があるにも関わらず、刀に負けるとしたら、対抗策はない、という現実的な判断をしていたのかもしれない。彼女はアシタカの一報に動揺もせず、シシ神殺しのために森を進む。そして、ジゴ坊は、「エボシ御前にシシ神殺しをしてもらわなければ」と明言する。女に汚れ仕事をさせて、ちゃっかり利益を得ようとする狡猾な男である。その後、シシ神に攻撃を与えたエボシ御前の腕を食いちぎるのは、モロの君である。あえて、女と女の戦いにした宮崎駿監督の女性賛歌のようにも見える。ダメージを受けたはずのエボシ御前が心なしか嬉しそうに見えるのは、そういうことであろう。長年のライバルの一撃を喜ぶ、というのは、双方が好敵手であったことを意味している。また、女同士、同性だからこそ燃え上がる、というのもある。

そして、『もののけ姫』は、もしかしたら、物語なんかどうでもいいかも、と思うぐらい、映像が楽しかった。駆ける、跳ねる、踏む、矢を射る、刃でたたかう、銃弾がとぶ、アニメーションとして、映画的快楽が十二分に詰まっている。

(黒澤映画を思い出したりもしたし、チャップリンを見ていた人々も、動画というものに、夢中になっていたのだろうなと思った。おそらく、私も子どものときは動きに夢中になり、十代二十代は頭でっかちで、物語の流れを構造的に見ることや思想的な説明を要求していたのだろう、と思う)

以下、雑感

・コダマがアシタカの真似をするところがすごくかわいい

・西村雅彦の声がすぐにわかった

・エボシ御前が実写なら天海祐希がやるに違いない

・『生きろ』って、台詞の中にもあるじゃん

・糸井重里はあの三文字で、いくらもらったのだろう

・アシタカがエミシであることの意味

いろいろ考えさせられたが、宮崎駿監督だからこそ、日本のある種の土着性は漂白されているように感じた。土の匂いはするが、ねっとりとした因習は描かれていない。人間の嫌らしさ、おぞましいぐらいの差別意識に触れないからこそ、大衆的であることができる。そこが、高畑勲監督との大きな違いだ。しかし、この二人のような教養あるアニメーターが下の世代に不在であることが非常に怖い。下の世代は、差別を是認していたり、無頓着であったり、妙に物分かりがよかったりして、見ていられなかったりする。おそらく、後継者は今敏しかいなかったのだが、彼は早世してしまった。庵野秀明は、自分の中にあるおぞましさに自覚的であるだけ救いがある。ただ、庵野秀明は大衆に受けてはいるが、大衆性はない気がするし、決して大衆的な作家ではない。鈴木プロデューサーが密かに後継者を探していることを祈るのみである。

今更ではあるが、ディズニープリンセスに比べると、ジブリのプリンセスは、ずいぶん前から、物理的な戦いを強いられていたのだなと思う。

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