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コペルニクス的転回の話

転職というより、失業することが決まり、鬱々と毎日を過ごしていた。

もう、どうやっても体は動かないし、どうにもこうにも頭が働かない、というのが、一か月ぐらい続いた。

ひたすら眠り、現実逃避をして、回復しては、神経をすり減らし、重い体を引きずって会社に行くという拷問のような日々であった。

ようやく回復してきたのか、昨日はリングフィットアドベンチャーを久々にやることができた。

驚くなかれ、10分しかやっていないが、全身筋肉痛である。おそらく、日々の動作で使う筋肉というのは限られていて、トレーニングでもしなければ、動かさない部位の筋肉は無数にある、ということなのだろう。

さすが、世界の任天堂である。続けていこうと思っている。

さて、表題の「コペルニクス的転回」である。

コペルニクス的転回
〘名〙 (Kopernikanische Wendung の訳語)

① カントが自分の認識論上の立場を特徴づけた言葉。主観は対象に従いそれを映すとする従来の考え方を逆転させ、対象が主観に従い、主観の先天的な形式によって構成されると主張して、これを天動説に対して、地動説を主張したコペルニクスの立場になぞらえた。

② 従来の考え方とは根本的に異なる画期的な考え方。また、その状況。

コトバンクより引用

ここ最近、考えてきたことは、自分の「欠乏感」についてである。

わたしは、自分が満たされないのは、能力や頑張りが、足りないせいだと常々思っていた。

努力をし続けることができれば、結果が出ようが出まいが満たされる、欠落は埋められるはずだ、と信じていた。

努力信仰というよりは、目標に至るまでの過程を楽しむことで人生を充実させられる、努力を続けていれば何か得られるものはあるはずだ、という甘い目測である。

その始まりは、おそらく幼稚園ぐらいからだと思う。周囲と比較して、習い事をしていないことに負い目を感じたり、意地悪な男子にびっくりして泣いたりして、自分の生理的な感覚より、「社会」に参画することを優先しなければならないことを身をもって知っていった。

「社会」に入っていかなければならないことには、二十五歳ぐらいで、しぶしぶ納得することにした、という記憶がある。

わたしにとって「社会」とは、否応なくタスクを課される世界であった。

わたしは極端な考えた方をしがちなので、「タスク」をこなすことを最優先してきた。

いつからなのかを考えると、そのような生き方をしている期間のほうが圧倒的に長い。もう、五歳ぐらいから中年まで、ずっと課題をクリアしなければならない、という強迫観念のもと生きてきた。

勉強するために、生きる。

働くために、生きる。

何かを作るために、生きる。

映画を観るため、本を読むため、〇〇のため、△△のため、に生きる。

目的があるから、生きているのだ、と考えていた。

つまり、目的を達成するためには、多少の犠牲は厭わない、という考え方である。

(これは一見合理的に見えるため、多くの人が、無意識のままに選択している行動ではなかろうか)

それは「社会」からの要請でもあったし、自分で設定した目標(いわゆる夢)でもあった。実際、人より勉強ができれば先生から褒められるし、人より仕事をすれば、上司は喜ぶ。承認欲求も満たされる。

ここ数年のわたしは、業務目標を達成するために、「生きる」ための行為を端折ってきた。(振り返れば、学生時代からそうだった)

食べない(一日一食とかざら)、寝ない(3時間睡眠とか)、シャワーだけで済ませる(最低限の清潔感だけキープ)、掃除も洗濯も最低限(死なない程度)、料理は作らない(時間がかかるから)、休日出勤とサービス残業も当たり前、と自分の暮らしを仕事をしやすくするために最適化していた。

一般的に言われているところの社畜であるが、それに違和感も覚えていなかった。

なぜなら、ただ生きることには、何の意味も価値もない、と思っていたから。

会社員なら数字を出すのが当然だし、最速で最短距離で結果を出したい。

平然とサボタージュを続ける同僚に働きかけても変わらないから、わたし一人で頑張るしかない。そう思って走り続け、幸運なことに結果が出た。

怠惰な同僚からすれば、わたしのやり方で(想定以上の)結果が出たことは、気に食わない事態だったと思われる。

そのことが仕事をしていない人たちの自尊心をひどく傷つけてしまったらしく、小さなことで揚げ足を取られ、失業に追い込まれてしまった、というオチである。一緒に頑張ってくれていた同僚には申し訳ない、とも感じている。本当に虚しくて、何にも手を付けられずにいた。

ただ、怠惰で意地悪な同僚たちは醜悪だし、仕事をする人間を追い出すような職場は、早晩潰れるだろうから、失業すること、それ自体は受け止められている。

問題の本質は、わたしの「欠乏感」「欠落感」、いわゆる「心の穴」の問題である。

それこそが、わたしを仕事中毒、ワーカホリック状態に陥らせたもので、ある種の動機づけでもあったからだ。

就職していれば、お金がもっとあれば、恋人がいれば、結婚すれば、家族ができれば、子どもを産めば、と人間は、自己に何らかの不足を感じ、それを必死に埋めようと足掻き続ける。

おそらく、ゴールはないのだ。志しが低かろうが高かろうが、雨後の筍のように、次から次へと目標や改善点(欲望)は出てくるだろう。

仲のいい友達がいたらいたで、なんでわかってくれないのだろう、と不満を感じたりする。ぜいたくな悩みも増えていく。

人間は青い鳥を探し続けるものなのだから、と理解しているつもりでいた。

実のところ、わたしは、目標がなければ生きていても仕方ない、と本気で思っているのだ。(他人事のようにわざと書いている)

仕事をして、忙しくすることで、時間を埋め、目的があることに安堵していた。暇で無為な時間を恐れていた。仕事だから、つらいことも、楽しくないことも我慢できた。

ただ、人生に意味と意義を求め続ける生き方をこれからも続ける自信はないし、これからも続けたいとは思えなくなっている。それをする体力と気力がない。

いくら仕事を頑張っても、多くの人から称賛を得られたとしても、信頼できるパートナーが隣にいたとしても、一時的に満たされるだけで、この空虚さ(穴)を埋めることは、永遠にできない。

生きている限り、それに苦しむのだ。もちろん、「穴」を見て見ぬふりをすることはできる。

その「穴」は、孤独感や寂しさ、劣等感、自己肯定感の低さとか、生きていくうえでの、ありとあらゆる心許なさと繋がっている。

人生には目的がなければ、意義深い人生を送るためには、と自分を脅迫しながら、追い詰めながら、生きる元気はもうない。過労死ラインで働いて、テンションを高くして生きるのも、しんどいだけだ。

君のやり方は効率が悪いとか、政治的な根回しが足りないとか、愛想が足りないとか、そういう話は聞きたくない。わたしがしているのは、そういう話ではない。

テリー・イーグルトン先生も、誤読していたら、申し訳ないのだが、「人生の意味とかそんなにないよね」というような結論に達していたと思う。

どうすれば「穴」を埋めることができるのだろう。

この問いを何度となく、幼少時から繰り返してきた。生き急いできたし、焦燥感に苛まれてきた。これは自分自身の問題であるから、出口がない。

ふと思い出す。この「穴」は、鼻の穴のようなもので、もともとあいているものなのだ。「穴」をふさげば、息ができなくなる。だから、その「穴」とは適度な距離を保ちつつ、生きていくしかない。

その「穴」は決して埋められない。だから、わたしは、その「穴」に、人生の目標や目的、仕事、人間関係を放り込むのはやめよう、と決めた。

むやみやたらに、時間を埋めるために仕事をこなしたり、孤独を癒したいという欲望から他者を求めたりはしたくない。

わたしは、これから「生きる」ために生きていく。

あるとき、ひらめいた。これは知っている人は、「何をいまさら」「何を言っているんだ」と鼻で笑うようなことだと思う。

しかし、わたしは五歳から、目的が先にあり、そこに向かって生きるように自分を仕向けてきた。それを根本からやめるのだ。

しかも、これは、理念や理想ではなく、実践的なことを指す。

わたしはこれから、食べる、寝る、排泄、入浴、歯磨き、掃除、洗濯、運動を最優先にして生きる。

「生きる」ために、基本的なことをやって、そのあとの余った時間で、仕事や趣味、勉強をする。

もし、体調が悪かったり、気分が乗らなければ、余計なことはしない。

「今」を生きることが、なかなかできずにいた。それは、「目標」と「目的」が、常に頭の中に鎮座していて、邪魔していたからだ。

なぜ、「目標」と「目的」がのさばっていたのかというと、それらがわたしの欠損を埋めるはずだ、という期待からなのである。

しかし、欠損が埋まることはなく、また「目標」や「目的」という名の生きるためのお題目も、わたしをひたすら疲弊させるのだ、ということがわかってきた。

はじめから達成できないことに、血道をあげ、賽の河原で必死に石を積むような行為に耽溺してきたことに気が付いた。

わたしは、死ぬまで、「生きる」ために生きる。

残りの時間があと五十年でも、あと一年であったとしても、ホモ・サピエンス(動物)のわたしの世話をするだけでいい。

成功や失敗、名誉、挫折なんてものは、余剰な事物に過ぎない。

これからは、自分の体に鞭を打たないし、泣きながら、怒鳴りながら、一人で残業したりもしない。

何者にもならなくていいし、何かを成し遂げなくてもいい。

自分の身体と精神の均衡をよくよく観察して、日々を生きる。

うまいもんを食べて、体を動かして、ぐっすり眠る。

時間が余って、暇だったら、仕事でも勉強でも何でもすればいい。

まとめると、以下のような結論である。

わたしは「目標」や「目的」がなければ人生には意味がない、と考えていた。

しかしながら、それが原因で、骨折り損のくたびれ儲け状態に陥り、生きていたくない、何もしたくない、という本末転倒を招いていた。

これからは、「生きる」ための基本的な行為を最優先する。自分の体と心を一番大事にして、生きていく。

人生や生活に、目標や意味、理由、価値を求め続きてきたが、それらは、この際、捨ててしまう。

考え方をがらりと変えるのだ。

これがわたしの「コペルニクス的転回」である。

これからは、仕事も趣味も創作も、すべて余暇のどうでもいいことに、分類される。

わたしの見た目は何も変わっていないが、これこそが「リフレーミング(reframing)」というやつである。

そして、失業するところまで、追いつめられ、はじめてこのように考えられるようになった。

無理をしない。自分に無理をさせない。

空虚さと空しさを解消することに躍起になってはならない。

「生きる」ことが一番大事で、そのほかのことは、オプションであり、エトセトラである。

オプションとエトセトラに気を取られるなんて、馬鹿馬鹿しい。

メインの白米でなく、漬物にケチをつけるような人生には、ほとほと疲れた。

昨日、さっそく不採用通知が届いたが、全然気にならない。仕事は、もう一番大事なものじゃないのだよ。

チップをいただけたら、さらに頑張れそうな気がします(笑)とはいえ、読んでいただけるだけで、ありがたいです。またのご来店をお待ちしております!