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#映画感想文166『セイント・フランシス』(2019)

映画『セイント・フランシス(原題:Saint Frances)』を映画館で観てきた。

監督はアレックス・トンプソン、脚本と主演がケリー・オサリバン、2019年製作、101分のアメリカ映画である。

アメリカでは、2019年公開なので、3年遅れということになる。おそらくパンデミックの影響もあるのだろう。

主人公のブリジットは名門大学を一年で中退してしまい、フリーターとして生きる30代半ばの女性である。もう、この設定だけで、そわそわしてしまう。

レストランのウェイトレスをしている自分の人生に鬱屈を抱え、パーティーで知り合った年下のウェイターの男の人と寝てしまう。

冒頭のシーンでは、ブリジットは目覚めると生理になっており、シーツが赤く染まり、顔に血がついていたりする。女性が日常的に抱えている身体の不都合なところが、モチーフとして描かれている。このあと、ブリジットは予期せぬ妊娠をしてしまい、薬を飲むことで中絶をするのだが、不正出血がだらだらと続く。彼女は「ちょっとだるいだけ」と言う。そうそう、女性はそのような身体的不調を抱えながら、日々を暮らしている。

わたしは月経と月経前後の不調を改善させたいとピルを飲んだことがあるのだが、体が膜に覆われたようにぼんやりし、吐き気が止まらなくなったので、飲むのをやめてしまった。行った産婦人科クリニックもよくなかった。月経困難症であると言ったのに、保険適用にしてもらえず、男の医者は避妊のことしか話さず、うんざりした。わたしは月経がつらいと何度も伝えたのに、避妊目的でピルを処方されてしまったことに未だに怒りも感じている。(避妊目的でピルを飲むのは全然悪くない。わたしが怒りを感じたのは、わたしの話が無視されたことに対してなのだ。まあ、ピルを売るだけの方が病院として儲かるんだろうね)

この映画のシーンでは、年上のギター講師とベッドを供にすることになり、彼女は「ちゃんとバースコントロールしなきゃね」とやんわり説教される。つまり、「俺はコンドームつけずにセックスしたいから、あんたの身体の方で避妊の準備をしておけよ」という意味なので、とても腹が立った。

わたしは、薬局でピルを買える欧米は便利でよいな、と思っていたが、生理で具合が悪くなるのも、ピルを飲んで体に変化が起こるのも、その費用を負担するのも、全部女性側だけなのである。そして、妊娠のリスクを負うのも、女性だけ。うーん、ピルを飲みたくないブリジットを責めることなどできない。彼女はフリーターだからお金がないだろうし。でも、空虚感やさみしさを抱えているので、自分を殺したりはしないであろう男とは簡単に寝てしまう。男性を選択する基準が最悪の事態を招かない、つまり「殺されない」になってしまっているところも、リアルである。彼女は男性に何の期待もしていない。それは彼女が自分を愛せていないからなのである。

この映画のもう一つの軸は仕事である。彼女はレズビアンカップルの子どもの面倒を見るナニーの仕事を見つけ、フランシスという女の子の世話を始める。このフランシスは、両親をよく見ており、とても賢いが、腕白なところもあり、突然走り出したり、池に落ちたりするので、スマホを見ながらの子守りは危険。子どもから目を離すようなことはしてはいけない。

このレズビアンカップルには新生児の男の子もいる。フランシスは愛されて育った子どもとしての自信もあるのだが、新たに生まれてきた弟に対しては、少し戸惑っている。優しかったもう一人の母親が産後うつになってしまい、家庭の中が緊張状態にある。

そして、フランシスの実母は黒人なので、社会の中でもストレスフルに生きている。黒人と白人のレズビアンカップルというのも、いろいろ大変なのだ。

高齢出産、産後うつ、出産後の尿漏れ、中絶後の不正出血の煩わしさ。言い争いをしているのに、「貧血になっているかもしれないから病院に行きなさい」という的確なアドバイスが出てしまう場面には笑ってしまった。女性のみの空間特有のやりとり、その安心感、気安さなども描かれている。

中盤、ブリジットがナニーとして働いているときに、運悪く大学時代の知り合いに遭遇してしまい、「お手伝いさん」扱いされるという屈辱的な場面もある。見ているこちらの胸は痛いのだが、当の本人は傷つくことに慣れているせいか、ケロッとしている。そこがまたつらい。自分がぞんざいに扱われても、平気になってしまっている彼女のメンタルが心配である。そういうものって、澱(おり)のようにたまり、いつか爆発するのだ。

終盤のブリジットとフランシスが教会の告解室で相対して、語り合うシーンは、何とも美しかった。

ブリジットは30代半ばで中途半端な自分が嫌だと、自分に誇りを持ちたいのだと率直に述べる。

6歳のフランシスは「あなたは怖がらない人で、とても勇気がある。そんなあなたをわたしは誇りに思っている」と淡々と言う。

確かにブリジットには立派なキャリアはないかもしれない。でも、彼女の生き方やふるまいは「立派」なのである。

そして、その後、ブリジットは一念発起して成功しました、なんてご都合主義のエピローグはない。ブリジットの人生は、この後も、いろいろあって大変なのだと想像できる。でも、それに絶望する必要はないのだ。

「仕事や家庭があったら幸せだったの?(あなたは満足できていたと思う?)」というフランシスの質問は、胸に刺さる。わたしたちは、あったらあったで、文句を言っているはずなのだ。素晴らしいキャリアがあっても過労死寸前だったかもしれない。家庭があったとしても、夫は浮気をして、子どもが家庭内暴力をするとか、そのようなケースに陥る可能性もゼロではない。頭の中で妄想として、キラキラとしたキャリア、あいまいで幸せな家庭を夢見るが、仕事も家庭も、別に幸せを担保してくれるものではない。

ケリー・オサリヴァンのインタビューも興味深い。彼女は、あえて隠されている「穢れ」を描こうとしたのだ。そのような慣習は、やはり日本だけではなかったのだな、と思う。

この映画は、女性の身体的な特徴、社会的・文化的には負の側面とされている部分を真っ向勝負で描いている。その勇気に驚くと同時に、作品が完成し、公開されたことを寿ぎたくなるような作品でもあった。軽いコメディタッチの描写も多いので、怖がらずに見ていただきたい。

(ケリー・オサリバンのすごいところは、ガニ股っぽかったり、寸胴に見えるシーンも多く、美しく撮られないことを結構徹底しているのである。そうそう、現実の女性ってこんなものよね、という気持ちになり安心した)

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