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会社も、わたしも、変わらなくていい

前職はめちゃくちゃ辞めたかったので、今回の転職は失敗ではないのだが、やっぱり転職したくなっている。

以前の職場は、上司二人がどうにもこうにも仕事ができず、また組織自体が抱えているジレンマがあり、10年20年頑張ろう、という気持ちは起こらなかった。薄給で貯金残高が増えるどころか減る、つまり貯金を切り崩す生活に、労働の阿呆らしさを強く感じていた。でも、その薄給で暇な職場のおかげで資格取得ができた。

で、2023年1月より、今の職場で働き始めた。10年経験している業界なので、特に戸惑うこともなく、スムーズに働けているが、これまでの自分の職場が「底」だと思っていたのに、さらなる「底」があり、愕然としている。

上席がわたしより経験がない上に勉強していないので、頓珍漢なことばかり言う絶望。経営者は現場が回っていればいい、大問題が起きなければいいということなかれ主義で、何がしたいのかまったく見えてこない。ただ、それが原因で元従業員と裁判にまでなり、勝訴しているが、裁判になってしまったこと自体が微妙である。それって、あんたの事なかれ主義が原因じゃん。わたしは元従業員のほうに共感しちゃったよ。

そして、これまでの職場では最低限クリアされていたところが、すべてクリアされておらず、グズグズなのだが、誰もグズグズであることに気付いていない。というか「問題」は問題じゃないのだ。問題だと思っているのはわたしだけ。だから、それを指摘したところで藪蛇で、わたしが単なる神経質な人で終わってしまう可能性が大である。それが職場文化というやつだ。

結論、わたしが我慢して、馴染むしかない。

しかし、馴染んで、職業人生を空費していいの?

お金が稼げれば、それで万事OKなの?

そう自分に問うと、NOというか、すんごく嫌だ。

石の上にも三年。この会社を定年退職まで勤め上げようと思っていたが、無理だ。心が死んだ状態で、職場を蔑んで、憎み憎まれることに時間を費やしたくはない。

三年我慢したところで、何が得られるのだろう。さっさと辞めなかった自分を、未来の自分はなじるのではないだろうか。三年頑張ったとしても、三年後生きているかどうかなんてわからない。突然死したとき、今のクソみたいな職場にいてよかった、などとは一ミリも思わないだろう。

でも、これは本当に入ってみなければわからなかった。ある種のサークルのような雰囲気もあるのだが、それは身内になれば楽しい、という類のもので、身内になりたいとすら思えないわたしにとっては、鬱陶しいだけ。

キャリアチェンジに失敗して、元の業界に戻ってしまったが、やはりキャリアチェンジすべきだった。そのために資格取得に2022年を使ったのだ。もちろん、今の業界と多少隣接しているところがいいが、未経験でゼロからスタートしてもいいのかもしれない。もちろん、生活を切り詰め、業務委託やアルバイトをして、働き蜂になる必要がある。「習うより慣れよ」でもある。

賞与や退職金のない会社はごまんとあるし、あっても雀の涙程度だったりする会社も少なくない。勤務継続年数が少ないんだから、そもそも賞与も退職金も大した額にはならない。もう、だったら、楽しい仕事、やりがいのある仕事を求めたっていいじゃん。もともと、人生に保証なんてあると思っていなかったのだから。よしんば、楽しくなかったとしても、経験値を積むことは無駄ではない。愚痴をこぼしながら、だらだらと時間が過ぎていくのが、一番恐ろしいことだ。

「あなたはその職場を改善するために何をしましたか」

と転職活動をすれば問われるかもしれない。しかし、職場文化と相容れなかった場合、闘うより退散すべきなのだ。

正直に言えば、今の職場は最悪だが、「あなたたちは別に変わる必要はない」とも思う。そして、わたしもまた「変わる必要がない」と思っている。

「他人は変えられないから、自分が変わるしかない」という格言のような諦念を、これまでに何度も耳にしてきたのだが、「わたしだって変わりたくない!」という先祖返りが始まってしまった。

贅沢なことをあえて言う。この仕事は役に立っている、誰かに喜ばれている、という実感は、やはり必要。毎日感じられなくとも、煙たがられたとしても、日々少しでもいいから、何らかの達成感がほしい。今の職場は、時間が過ぎたこと、退勤時間を迎えられて安堵するだけ。まるで毎日罰ゲームを受けているみたいだ。職場なんて、しょせん刑務所みたいなものなのかもしれないが、給料をありがたがっていたら、どんどん生ける屍に近づいていくような気がする。社会人経験を積んでいるおかげで、フラストレーションをやり過ごす力だけは抜群になってしまった。憂鬱なのだけれど、平気な顔で出勤して、心を殺して仕事をしている。

ただ、週末に右半身の痺れに襲われたので、ノーダメージというわけでもなさそうだ。

仕事よりも、圧倒的に大事な趣味とかがあれば、割り切れるのかもしれないが、感性が鈍ってしまって、十代の頃のような熱狂や興奮はない。そのことに驚くし、若さの価値が、若さが失われてはじめてわかる。若い人の中には、容貌や体力に価値があり、その価値が低減することを恐れている人は多いと思う。わたしもそうだった。

「若さ」とは生殖能力であり、体力であり、美貌であると思い込んでいた。そのような外見と連動している内面のマグマのようなエネルギーを舐めていた。精神や感性はそう簡単に衰えないと思っていたが、いとも容易く衰える。

芸術を愛するエネルギーや感動する力が弱くなっている。もちろん、それが無知ではなくなったことの証左なのかもしれないが、味気ないのもまた事実。生活と現実と向き合った方がリターンが大きい、という功利主義的な価値観がどうしても勝ってしまう。だから、まだ仕事のことをあきらめたくないのだ。

今回の気付き。わたしは変わりたくない。わたしを変える必要はない。つまり、職場(場所)を変える。

10年同じ業界にいて、さらなる「底」を選んでしまった、自分の勘の悪さを呪うが、本当に入ってみないと細かいところはわからないし、神は細部に宿るから、細かいところに神経が行き届いていない職場は惨憺たるものになるのだと改めて実感した。

収入を得るためなんだから、我慢しろ、というのもわかる。でも、わたしは幸いなことに養わなければならない子どもも、親もいないし、互いの生活を共有しているパートナーや配偶者もいない。家のローンもないし、借金もしていない。資産もない。賃貸アパートで独身で、孤独だけれど、ものすごく自由だ。だからこそ、生活の中に占める仕事のウェイトが高くなってしまうことは否めないが、仕方がない。わたしは、元社畜なだけあって、仕事好きなのだ。

わたしの業界は2~3年でほとんど辞めてしまうので、10年もいたら立派なベテラン。そのベテランのわたしが、10年前より酷い職場で働く必要はなかろう、とも思う。給与は悪くないけれど、我慢料金だとしたら安いな。あと10万プラスだったら、やめないとは思うけれど。

天国がないことぐらいはわかっている。でも、自尊心を削られる職場にいると、精神衛生に悪い。今はまだ勤務開始から二か月ぐらいなので、大きな打撃はないが、これが続けば心理状態は確実に悪化していくだろう。

誰かに喜ばれるために、ちょっと苦しい努力はしてもいい。誰にも喜ばれていないうえに、馬鹿にされるのは、ちょっとしんどい。

もはや、立派なジョブホッパーになってしまったが、悔やむことはない。100年前の今頃は、現在の仕事はほとんどなかった。女性は富岡製糸場とかで重労働させられ、それに耐えかねて夜逃げするような人だってたくさんいた。

そして、100年後の未来は、今ある仕事のほとんどは失われているかもしれない。2123年には地球が存在していない可能性だってある。死なないイーロン・マスクがテスラで火星を走り回っているだろう。

狐と狸の化かし合いだと思って、職場を転々としてやろうではないか。安定した薄給の仕事を勤め上げたところで、誰も褒めてくれないし、保証もない。今の会社はベンチャーっぽいところだから、そもそも十年二十年先の社員のことなんて、そもそも考えていない。「今」のことだって考えてくれないのだから。

でも、仕事をして稼ぐと決めてしまえば、怖くはない。若いときに怖かったのは働くことそのものだった。無闇に怒られたり、セクハラされることを恐れていたが、今、働き方はわかっている。立派な労働者なのだ。

さてさて、退会した転職サイトに登録し直さなきゃ!(てへぺろ)



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佐藤芽衣
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