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映画『ボイリング・ポイント/沸騰』(2021)の感想

映画『ボイリング・ポイント/沸騰(原題:Boiling Point)』を映画館で観てきた。

監督・脚本はフィリップ・バランティーニ、主演はスティーブン・グレアム、2021年製作、95分のイギリス映画、舞台はロンドンの高級レストラン。全編ワンショットで撮られたことが宣伝文句にもなっている。

カットが変わらず、ひとつの視点で進むので混乱はなく、不思議な臨場感がある。

ただ、この映画を観て、感じたことは「レストランを経営するのって、本当に大変なんだろうな」ということである。

この映画はシェフでオーナーであるアンディ(スティーブン・グレアム)の遅刻シーンから始まる。店に向かう途中、揉めている奥さんと電話をしており、息子に電話することを約束したりしている。冒頭から、離婚調停中を思わせる。

店に到着すると、衛生管理検査の職員(行政の担当者)が来ており、開店準備がちょっとずつ遅れていく。相棒のシェフに「ちゃんと寝たの?」と聞かれても、少しだけ寝てきたと答える。映画冒頭で、すでにシェフが過労死寸前っぽく見える。

彼が気のゆるんだ厨房のスタッフを怒鳴りつけ、すぐに我に返り、謝罪とフォローをするシーンで、疲労により理性が働かない状態になっていることがわかる。人は疲れていると(自分が痛めつけられていると)、どんな人格者であったとしても、他人に優しくなんかできない。

中盤では厨房とフロアスタッフの対立が描かれる。会社組織の部署と同じで、縄張りが違う、という意識があることに驚いた。厨房はシェフがリーダーで、フロアは共同経営者(出資者)の娘が取り仕切っている。お互いを容赦なく非難し合う。しかし、これも、忙しすぎて、余裕がない職場の特徴でもある。

厨房のスタッフは、移民ばかりで、オーナーシェフのアンディ以外は有色人種だったりする。意思疎通がうまくいっていないのではないか、という観客の疑念がそのまま映画の事件に結びついていく。

一方のフロアスタッフ(ウェイターやウェイトレス)は、若者が主体である。彼らは最低賃金で働いており、一生懸命働くことは期待できない。(ヨーロッパの人はそこを割り切っていて、いいなと思う。アメリカの場合は、チップで稼ぐという考え方が浸透しているから、また事情は違うだろう)

白人で金髪のかわいい女の子は、オーディションに参加していたらしく、店に遅刻してやって来るが悪びれる様子もない。同い年ぐらいの男の子と、付き合うつもりはないけれど、イチャイチャして、サボっている。男の子のほうも、本気なのか、女の子をからかうために口説いているのか、はっきりしない。もちろん、わたしは「働けよ」とツッコむのだが、薄給なんだから100%の力は出さないわ、というのは労働者として、真っ当な判断だと思う。

その白人の女の子が応対していた席に黒人の女の子が行くと、あからさまに嫌な顔をされ、客から人種差別を受ける。しかし、黒人の女の子は「あの席に行きたくない」とは訴えない。おそらく、よくあることなのだ。こんなことで騒いでいたらクビになってしまう。女の子は涙をぐっと堪える。とても、つらい描写である。彼女は、ほかの場面でも、「愛想がない、仏頂面だ」と陰口をたたかれるのだが、黒人の女の子だから、ここまでひどい目にあうのではないか。ロンドンの高級レストランでも、その程度なのかと、少し驚いた。

ゲイのウェイターは客の女性にセクハラされたりする被害者でもあるのだが、自分の恋人が働いているクラブに来ないかと客引きのような行為をしたりする。これって、駄目でしょう。でも、安い給料だから、という理由で許容されているのだと思われる。

しっちゃかめっちゃかな店内、わがままな客、働く人たちの阿鼻叫喚があり、この物語は破綻を迎える。

この映画のすごいところは、90分の前に何があったかが想像できるように作られている点にある。

ここからはわたしの想像、脳内補完ストーリーである。

シェフのアンディは、有名なカリスマシェフのもとでパワハラを受けながらも一生懸命働いていた。でも、このまま、このうぬぼれナルシストシェフの右腕で終わるわけにはいかない。

独立しようとしていた矢先、共同経営者を見つける。お金を出してもらえるが、出資者の娘が一緒に働くことが条件である。娘は経営について勉強したことはない。パーフェクトではないが、悪くない話なのでアンディは受け入れる。自分の店をオープンできるなんて、エキサイティングでわくわくする。妻と息子も応援してくれている。頑張ろう。

店を軌道に乗せるまでは、睡眠時間も犠牲にする。オリジナルメニューを考え、スタッフの募集と教育、店の宣伝、仕入れ業者を開拓して、西へ東へ、やることは山ほどある。疲れていても、喜びが勝る。寝なくても大丈夫。ちょっとワーカホリックなだけ。アドレナリンとドーパミンではじめのうちは乗り切る。家に帰っても寝ているだけなので、妻とのけんかも増えてきた。息子ともろくに話せていない。

だんだん、店に予約が入るようにもなり、少し落ち着いてきた。ここのところ、疲れているのによく眠れない。仕事中に集中できない。ちょっとコカインで気合をいれるか。あと酒が抜けるとイライラするので、水筒にテキーラを入れて、水のようにガブガブ飲む。大丈夫、酒臭いとは言われるが、勤務中に飲んでいるなんて、誰にも気づかれていないはず。

妻の堪忍袋の緒が切れて、家から出ていけと言われる。やり直したいが、妻は怒っている。ちょっとはこっちの事情も理解してほしい。でも、弁解する気力もない。

最近、ミスが増えてきた。仕入れ先に牛肉を注文するのを忘れてしまったので、メニューを変更しなければならない。衛生管理のチェックシートも、2か月間まともに記入していない。疲労が取れない。自分でも予期せぬところで、Fワード連発で、大きな声を出して、スタッフを𠮟りつけてしまった。とてもまずいが、抑制できない。もしかしたら、燃え尽き症候群(バーンアウト)なのか。いやいや、そうだとしても、休むわけにはいかない。働かなければ店が回らない。

さあ、テキーラとコカインで、気力を回復させよう。

とまあ、こんな前日譚が考えられるような脚本になっているのだ。90分ワンショットで、レストランの一夜だけでなく、オーナーシェフがレストランを経営することの過酷さを同時に描くことに成功している。

アンディは仕事を愛していて、誇りも持っていたはずだ。成功に執着したせいか、自身の許容量を超えて頑張ってしまった。体と心が悲鳴をあげ、悲劇的なラストを迎える。

でも、これって、自営業者、フリーランスで働く人なら、誰にでも起こり得ることだ。保証がないから頑張れるのも事実だが、保証がないから頑張りすぎてしまう。「ちょうどいい」仕事なんて、多分ないのだ。暇か忙しいか、どちらかなのだ。

働き方というのは、本当に難しい。ワーカホリックになってしまう人は、サボり方、休み方を意識しておかないと潰れてしまう。

レストランが舞台の映画も結構あるので、意識して見ていこうかな。そういえば、三谷幸喜の『王様のレストラン』が好きだった。

素敵なレストランに行くために頑張って働いている人も少なくない。レストランは、夢やエンターテイメントを売る場所でもある。

ただ、その夢の味は、思いのほか、苦い。

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