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#映画感想文291『幸福(しあわせ)』(1965)

映画『幸福(しあわせ)(原題:Le Bonheur)』をAmazon Primeの配信で観た。

監督・脚本はアニエス・ヴァルダ、1965年製作、80分のフランス映画。

この映画は幸福な家族を描きながらも、最終的にはホラーに着地するということは耳にしており、配信になっているのを見つけ、ようやく鑑賞することができた。

舞台はフランスの片田舎。若い夫婦には、かわいい子どもが二人いる。夫は内装職人として働き、安定した暮らしがそこにはある。妻は素直で従順で無垢な、美しい人。完璧な人生。

しかし、夫は偶然出会った女性に惹かれ、不倫関係に陥る。ただ、欲望に溺れたというよりは、きれいな人と出会ったら好きになってしまい、成り行きで関係を持つようになり、その関係を続けていきたい。なぜなら、妻と同じぐらい不倫相手を愛してしまったから。ベッドの中でのパフォーマンスは君の方が激しくていい、なんてことを褒め言葉としてへらへら言ってしまう夫。悪意はなく、何も考えていない人の気味の悪さがある。

ある日のピクニック。妻は夫の様子がおかしいと思う。あなたのことを知りたい、という妻に、夫は不倫相手がいることを無邪気に告白する。君のことも愛しているし、不倫相手も愛している。そのことをわかってほしい、と真剣に言う。妻は夫を愛していると述べ、夫婦はセックスにふける。

夫が目を覚ますと、かたわらにいたはずの妻の姿がない。子どもたちが「ママ、ママ」と叫び、妻を探している。夫が森を歩きだし、妻を探していると、湖畔に人だかりができている。そこに駆け寄ると、妻はすでに溺死しており、遺体が引き上げられていた。夫は妻が足を滑らせて偶然亡くなったのだと思い込もうとする。どう考えても夫の不倫を苦にした自死である。しかし、それを否認して、現実を直視することを夫は避ける。

妻の葬儀を終え、顛末を不倫相手に告げる。そして、不倫相手が妻の代わりとなって、二人の子どもを育ててくれるようになる。二人の子どもも、新しい母親に反発することもなく、美しい日々は続いていく。自死した妻など存在しなかったかのように、元通りの四人家族となり、この映画は終わる。

映像は美しいのだが、この映画は残酷だ。すべて人間は代替可能であり、あなたの代わりはいくらでもいるし、あなたでないことを気にする人なんていない、という身も蓋もないメッセージだ。

夫は妻とも、不倫相手とも、良好な関係を築ける。相手の女性に個性や性格、自我なんて存在しないかのようだ。子どもたちも父親に似ているのか、新しい母親に違和感を表明することもない。妻も、母親も誰でもできる「役割」に過ぎないのだろうか。

わたしたちは誰しも社会や制度上の「役割」を演じている側面はある。そこからはみ出してしまう部分に個性や情念があるのだが、そのことを嘲笑するかのようなニヒリズムがこの映画にはある。要するに、誰でもいい。

まあ、実際、相手に「役割」しか求めていない人も、この世には少なからずいる。その無機質さをあえて描いているからこそ、この映画は怖い。

あなたがあなたである必要なんて1mmもないんですよ、と言われているような気分にさせられる。

そして、この映画は、すべてのシーンの色が鮮やかで、それだけでも心が奪われる。花や緑の瑞々しさ、建物の外壁や内装、洋服の柄、色があまりに美しく、1965年の映画だとは思えない。

物語が進むにつれ、妻の服が暖色系から寒色系に変わり、不倫相手の服が寒色系から暖色系に変わったのは、意図的な演出だろう。それも、まあ、人の心と役割の変化を表しており、ざわざわさせられた。

自分の寒色系の服が忌ま忌ましく思えるぐらい、この映画の彩りは素晴らしく、それだけでも一見の価値がある。とはいえ、物語は信じられないぐらい寒々しい。そのコントラストが不気味さに拍車をかけている。

アニエス・ヴァルダ、すげえ。


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