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村上春樹(1988)『回転木馬のデッド・ヒート 』講談社文庫の読書感想文

村上春樹の『回転木馬のデッド・ヒート 』を再読した。再読のはずなのだが、ほとんど何も覚えていなかった。

講談社文庫では1988年、単行本は1985年に出された本である。

わたしの手元にある文庫本は2001年の33刷りで、定価は381円(税別)であった。Amazonによれば、今の定価は638円。倍ではないにせよ、やはり高くなっているのだなあ、と思う。

さて、まずタイトルのすごさにわたしは気が付いていなかった。回転木馬って、メリーゴーランドの馬なわけで、その馬たちのデッドヒートって、ものすごい皮肉というか、シニカルな比喩だ。

冒頭には筆者が登場して、この作品の解説を始める。この本に収められた話は、人から聞いた話を再構成したもので、小説でもないし、ノンフィクションでもない、スケッチのようなものだと断りを入れている。

ただ、まあ、それを真に受けてもいいけれど、真に受けるべきではない。小説家がわざわざそんなことを言うときは、信用できない語り手であると読者は疑うべきなのだ。境界がぼかされた何かを書いたのだという宣言であり、ある意味では、読み方が指示されている、ともいえる。

「今は亡き王女のための」は、ラヴェルに「亡き王女のためのパヴァーヌ」という曲があるので、それがタイトルの引用元ではある。

「嘔吐1979」は、サルトルの「嘔吐」から来ているはずだ。

「嘔吐1979」に登場する男性は、誰かの奥さんや誰かの彼女と寝ることが趣味である困った人なのだが、ある日から、嘔吐が止まらなくなり、妙な電話がかかってくるようになる。そして、この症状は治まるのだが、いつ再発してもおかしくないという結論に達して終わる。サルトルの主人公は人生の無意味さに気が付き、嘔吐が止まらなくなる。この男性だって、人生の空虚さを目の当たりにして、嘔吐が止まらなかったのだと考えても、あながち間違いではないだろう。サルトルをちゃんと読んでいたら、もっと符号が見つけられたかもしれない。

「レーダーホーゼン」は半ズボン、「タクシーに乗った男」は絵画にまつわるお話、「プールサイド」は35歳の老いについて、「今は亡き王女のための」はスポイルされた女性の顛末、「雨やどり」は自分に値段をつける編集者、「野球場」は覗き、「ハンティングナイフ」では不思議な暮らしをする親子とのやりとりが描かれている。

著者は、人から聞いた話が、話してもらいたがっている、と表現しているが、本当に人から聞いた話なのかどうかは疑わしい。著者自身の経験が混ざっているかもしれないし、著者は別の角度から観察していた傍観者だったのかもしれないし、まるきりのフィクションである可能性もある。それを考えてしまっている時点で、読み手のわたしは大負けなのだ。作家のこういう「いたずら」は嫌いではない。

赤坂真理の『ヴァイブレータという小説を読んだとき、「こんな女、いねえよ」と読みながら思っていたのだが、なんと著者自身の実体験に基づき、描かれていることを知り、驚愕した記憶がある。現実は小説より奇なり、なのだ。そのとき、わたしは自分のつまらなさを再認識した。

話を『回転木馬のデッドヒート』に戻す。今読むと気になるのは、女性が出てくるたびに、美人かそうでないかがいちいち言及されるところだ。毎回なので、笑ってしまった。女性の容姿をジャッジせずにはいられない病は、1980年代は病とは呼ばれなかったのだろう。美人か不美人かと一刀両断に、記号的に書くより、もっと描写をしてくれたらよかったのだけれど。「まずまずの美人」「わりと美人」「そこそこの美人」「どちらかといえば美人」、美人は程度の副詞で表すことができるらしい。

村上春樹の小説は、読んでいる最中はとても楽しいのだが、ほとんど覚えていられない。シャーロック・ホームズシリーズも同じで、ほとんど覚えていない。毎回、読むたびに新鮮な気持ちで、わくわくしながら読める。二人ともうまいのだけれど、わたしにとっては白昼夢のような作家だ。

「雨やどり」で、村上春樹に付けられた値段は「2万円」で、それに納得してしまう村上春樹に悲哀を感じる。今だったら、「100万円」ぐらいになるのだろうか。

とはいえ(変なイントネーションで読まないでね)、村上春樹のうまさ、というのは、やっぱりすごい。この読みやすい平易な文章は、翻訳されるのを待っているという感じはすごくする。

そして、村上春樹を読む人間は、確実にスポイルされている。村上春樹は読み手を甘やかす。するする読める快楽に溺れてはならない。

さあ、頑張って、サルトルとかトルストイとかも、読んでいこう。


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