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映画『さがす』(2022)の感想

映画『さがす』を映画館で観てきた。監督・脚本は片山慎三、主演は佐藤二朗の邦画で、上映時間は123分、製作は2022年。

久々に、生理的に具合が悪くなる映画だった。

映画というのは、暗く閉ざされた箱の中に入り、自ら金を払い、閉じこもる。現実や日常が一時的に遮断され、ストーリーの中に入ることを自らに強いる。

見終わったあとも続く映画はそんなにない。この映画を観た後は、体の真ん中がすーすーする。足元がふわふわしている。喫茶店でパフェを食べる気力も、根こそぎ奪われた。

今、思うことは、お父ちゃんの万引き。本当は、あのとき、警察に捕まりたかったのかもしれない。捕まらなかった不運。おにぎりをくちゃくちゃ食べることで、生きている実感を得ようとしていたのか。

『さがす』は子どもが親を迎えに行く映画だ。クレヨンしんちゃんの映画『嵐を呼ぶ モーレツ! オトナ帝国の逆襲』で、主人公のしんのすけがラストで両親に対して「お帰り」と言う。本来は、親が子どもを出迎えるべきなのだ。関係性の逆転がこの映画でも見られた。娘が父親を見つけ出す。そのうえで、甘やかすことなく、娘は親を手放す。まるで自立を促す親のようにも見えるし、母親の娘として復讐を果たしているかのようにも見える。

伊東蒼さんが演じる原田楓という女の子(娘)に、人間の善性というものを見せつけられた気がした。

父親は悪人でも、悪に染まったわけでもなく、病に蝕まれた人なのだ。体は動いても、頭がきちんと働いていない。メンタルがやられていると、とんでもない輩に利用されてしまう。弱っていると餌食にされる。ここはサバンナなのかと錯覚する。お父ちゃんには休養が必要だった。明らかな体の不調がなくても休むことは大事。わたしたちは、みな薄氷を踏むような暮らしをしているのだろう。

そして、適切にSOSを出し、適切にそのSOSを受け止められる人が増えない限り、悲劇は悲劇を呼び、人間はどんどん野蛮になっていく。日本人はSOSを出す訓練を誰も受けていない。それが根本的な問題を孕んでいるような気がする。

健康でいること、清潔でいることは、何よりも、自分自身を守るために必要なのだ。自分自身を優先し、自己愛的にふるまうことも、時には必要だ。立ち上がれないぐらいに傷ついてからでは遅い。回復に時間がかかりすぎる。

どんなに孤独に苦しんでいても、知らない人について行ってはいけないし、知らない人をうちの中に招き入れてはいけない。子どもだけじゃなくて、大人にも言わなければならないのだと改めて思ってしまった。TwitterやSNSは毒にも薬にもなる。弱っているという自覚のある人は、やめたほうがいい。言葉や感情は無駄に増幅することがある。それほど、深刻に思っていなかったはずなのに、誰かの感情に引き寄せられてしまった経験は誰しも持っていると思う。

利用する側の人間は、目的達成に邁進しているため、そもそも話が通じない。〇〇〇〇ごときのために殺されるなんて、本当に割に合わない。あなたの生命は、もっと尊いはずだ。間違いなく。

日本は貧しくなった。なので、ハリウッドの真似事をする気力も失われている。超大作映画は作れやしない。でも、面白い映画はいくらでも作れるのではないか。貧しいからこそ、贅肉が削ぎ落され、本質に近づけるのではないか。

余談ではあるが、メンタルヘルスのケアをしよう、と歌っているBTSが世界的に売れた理由がよくわかる。多くの人々は病んで、弱っている。安静にしていられればいいのだが、人は動いてしまう。不健康な人が動くと、ろくなことにならない。あと、空き家や空き店舗の不動産管理をしておかないと、人間はよからぬことをやらかす。ちゃんと巡回とか戸締りとかしてほしいと思ってしまった。

現実とフィクションは相互作用の関係にあると思っていたのだが、フィクションは単なる現実の一部に過ぎず、現実の形式が変わっただけなのかもしれない。この世には現実しかない。しかも、地獄のような現実。しかし、善なるものは、確実に存在する。それが救いだと思わせてくれる映画でもあった。

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