#映画感想文『バーニング』(2018)
イ・チャンドン監督の映画『バーニング』を見た。
原作は村上春樹の『納屋を焼く』である。元ネタになっているのはアメリカの作家のフォークナーの『納屋を焼く(Barn Burning)』である。
わたしは、三人の男女の曖昧な三角関係みたいな話が嫌いだ。この映画のポスターはそんな感じがしたので、見るのを躊躇っていた。今回、思い切って見てみたのだが、すごくよかった。
主人公のジョンスを演じるのは、ユ・アインだ。ジョンスは常に抑制的で、ともすれば何を考えているのかわからない。しかし、不気味ではなく、思慮深さとして、平凡だけれど賢い青年だと思って、観客は彼を受け容れる。
新人女優のチョン・ジョンソが演じるヘミは、奔放だけれど、どこか寂しい女の子だ。
謎のお金持ちのベンさん役をスティーブン・ユァンが演じている。彼を見た瞬間、「あ、『ミナリ』のパパだ!」とうれしくなったのだが、今回はとても怖い役を演じている。
この映画に通底していたのは、主人公のジョンスの「怒り」だ。
フィガロのイ・チャンドン監督のインタビューでも、それが明らかにされている。
映画の中盤で、金持ちのベンは「ぼくが焼くビニールハウスは、汚くなった役に立たないものだけだ」と言う。それに対してジョンスは「役に立つか役に立たないかをどう判断するのか」と彼に質問をする。ベンは「そこに判断はない。雨によって物は破壊されたり流されたりする。雨に意志はありますか。そこに意志なんてものはないんですよ」と答える。
ベンは「自分が神や自然のようにふるまっても問題ない」という恐ろしい考え方を図らずも吐露する。その傲慢さは、映画のなかで、何度もさりげなく描かれる。ベンはお金持ちだから、若い女の子が寄ってくる。その女の子を仲間内のパーティーに呼び、話をさせるのだが、彼は女の子たちの話を聞きながら、毎回退屈そうにあくびをする。
女の子たちを金でおびき寄せ、誘惑し、嘲笑っている。都合が悪くなったら、殺しているのかもしれない、という疑念がわいてくる。
わたしはジョンスを我慢強い青年だと思って見ていたのだが、それが間違いだとわかる。彼は「怒り」を内側に隠していただけなのだ。
主人公のジョンスの父親は「怒り」を抑制できず、暴力事件を起こし、裁判中であり、ジョンスは傍聴に行っている。しかし、この映画の結末を観たら、ガス抜きをすることができていた父親のほうが、まだマシだったのではないかと思えてくる。
ジョンスの「怒り」ポイントはいくつもあった。
夫と息子を捨てて出て行った母親。16年ぶりに会ったにも関わらず、無心される。
青果市場のアルバイトの面接では一列に立たされ、番号で呼ばれ、勤務できるか、家からの距離しか聞かれない。人間扱いされず、ジョンスはそれに耐えられない。
互いに好意を抱いていたヘミ、自分と寝たヘミも、金持ちのベンになびいてしまう。
ベンは働いていないのに江南の高級マンションに住み、高級車に乗り、金持ち友達とパーティーをして遊んで暮らしている。
最後に「怒り」が爆発する。そして、このような「怒り」が世界中に蔓延しているような気もする。
内面を見せない人が、穏やかな人であるという保証はどこにもない。
怒っても、不満を言っても、どうにもならないかもしれない。でも、愚痴を言い合えたり、傷のなめあいも、人間には必要なのだ。爆発するぐらいなら、もっとかっこ悪いところを他人に見せてもいい。誰かを憎み過ぎないように弱音を吐き、ガス抜きをしたほうがいい。
ここからは蛇足。物語がはっきりとした展開を見せずとも、曖昧な描写があっても、わたしは最後まで耐えられるようになった。多分、10代ではこの映画を理解できなかったと思う。年を取ってよかったと思えるような映画でもあった。
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