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映画『Our Friend(アワー・フレンド)』(2019)の感想

映画『Our Friend(アワー・フレンド)』を映画館で観てきた。

監督はガブリエラ・カウパースウェイト、舞台はアメリカ、主演はケイシー・アフレックである。

末期癌のニコルとその家族である夫のマット(ジャーナリスト)と娘二人を支える友人のデインの物語である。

2015年に雑誌の『Esquire』に掲載され、全米雑誌賞を受賞したエッセイが原作である。エッセイのタイトルは『The Friend: Love Is Not a Big Enough Word』で、「友、愛という言葉では全然足りない」といったところだろうか。

映画を観て、泣いた、泣いた、泣いた。

あちこちで、鼻水をすする音がしていたので、泣いたのはわたしだけではあるまい。

そして、涙する場面は、人によって違うだろう。

わたしはジェイソン・シーゲルが演じるデインが、人生が嫌になり、国立公園を旅するシーンにやられてしまった。

デインはスタンドアップコメディをやりたいと思っている。ネタも書いているが、なかなか一歩が踏み出せない。舞台製作に携わったりもしていたが、今は、ユニクロのような量販店で働いている。そのことを昔の仲間に笑われたり、家族からも冷たくあしらわれて、何もかもが嫌になってしまう。野心があっても前に進めなかったり、周囲から不本意だと思われるであろう仕事も、そんなに悪い仕事ではない。でも、この仕事が大好きだというほどではない。

彼のように中途半端、宙ぶらりんで生きている人のほうが多い。生活のためだけとも言えないし、夢をあきらめたわけでもない。ある種の保留状態を続けている人は少なくない。結婚を決意できずにいることも、それと無関係ではない。

デインが一人で歩いているとテレサという女性に声をかけられる。一緒に旅することになる。そこで彼女は、5、6年前に自分も自殺しようと思って公園を歩いていたのだと告白する。

「あなたの居場所を把握している人はいるの?」
「自分で思っているより、あなたは孤独ではない。あなたにも変化は訪れる」

テレサは連絡先と夕食をデインに渡す。そう言われたデインは、日常生活に戻る。誰かに気にかけてもらえるというのは、大事なのだなと改めて思う。

妻のニコルがワンオペ育児にうんざりして、不倫してしまうのも、わからないでもない。夫に無視をされたように感じ、彼女は孤独に耐えられなかった。

夫のマットは、皮肉屋で、社交的ではないけれど、嫌な奴ではない。仕事熱心で、家族には疲れているけれど、悪い人ではない。それが中年のケイシー・アフレックにはぴったりだった。

しかし、ワンオペ育児をしていた妻が病に伏すと、一気に家庭崩壊するのは、この家族に限ったことではない。核家族の宿命のようなものである。

そして、娘二人が家事労働に駆り出され、勉学が疎かにならずにすんだのは、友人のデインのおかげなのである。もちろん、親戚に頼んだり、お金を払って誰かを雇えば済む話なのかもしれない。しかし、看病のあとに待っているのは多額の借金だ。そういう点では、デインに面倒をみてもらうことで、彼らの家族は破産からも、精神的な崩壊からも免れることができた。これはすごいことである。

働き盛りの中年男性が、仕事をやめ、友人の家族の世話をした。なかなかできることではない。距離感も難しい。しかし、長い人生で、限られた期間だけでも、友人家族を支えようと奮闘するのは、そう悪い選択でもない。もちろん、助けられる力と、助けさせてもらえる信頼関係が必須なので、誰もができることではない。

勉強になったのは、末期癌のニコルが、看取りをする看護士のフェイスから夫のマットに対して「ニコルには抗精神薬が必要だ」と言われる場面だ。そうか、癌と化学療法の副作用で、精神的な不調や鬱を発症するのだ。静かに眠るように死ぬ前に、暴力的になったり、被害妄想に苦しみ、罵声を浴びせたり、別人になってしまう。そこも、きちんと描かれており、美しいだけの妻で終わらないところもよかった。病に苦しむなかで、妻の友人が離れていくシーンもさらりと挿入される。

そして、監督は、彼らの関係をことさらに素晴らしいとか、美しいとは強調していない。偶然と成り行きの関係性なのだが、それぞれの性格が作用しあって、この関係が成立したのだ、という感じで描かれている。

観客は付き合いの悪さや、友達がいないことを責められたり、献身を求められたりはしない。そういった偶然性を寿ぐという感じでもない。あくまで、ひとつの出来事として描かれる。

この映画のポスターを観て「どうせ、お涙ちょうだい映画でしょう」と思ったへそ曲がりなあなた。わたしはへそ曲がりなのだが、気分的に泣きたかったので、行ってきたのだが、正解だった。

他人の善意を受け取るにも勇気がいる。わたしたちは他人に「借り」を作りたくない。世話をしてやった人間のほうが、裏切ったりもするのは、そういうわけだ。借金があるとわかっているから踏み倒すのだ。踏み倒された側は傷つく。しかし、自分の足で立ちたい人たちを引き止めることはできない。

ケアをする、ケアをされるのは、微妙な距離感を保つことで、はじめて成立する。その困難さを再認識することができた。



チップをいただけたら、さらに頑張れそうな気がします(笑)とはいえ、読んでいただけるだけで、ありがたいです。またのご来店をお待ちしております!