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メイ・サートン著『独り居の日記』の読書感想文

メイ・サートン著、武田尚子訳の『独り居の日記』を読んだ。みすず書房から2016年に出された新装版のほうである。

原題は『Journal of a Solitude』で1973年に出版されている。

どんなキーワードで検索をしていたのか覚えていないが、たまたまこの本がひっかかり、孤独についてよく考えるわたしにはぴったりだと思い、読んでみることにした。

最初の数ページで恋に落ちた。わたしのために書かれているような気がした。実は、「わたしのため」だと感じられる作品に出会えたのも初めての体験だ。これまで、素晴らしい作品にいくつも出会ってきたが、それはどこか見上げるような読書体験で、わたしが彼らに追いつかなければならない。引っ張っていかれる、導かれるような体験がほとんどで、著者をここまで近しく感じたことはなかった。

メイ・サートン(May Sarton)
1912-1995。ベルギーに生まれる。4歳のとき父母とともにアメリカに亡命、マサチューセッツ州ケンブリッジで成人する。一時劇団を主宰するが、最初の詩集(1938)の出版以降、著述に専念。小説家・詩人・エッセイスト。日記、自伝的エッセイも多い。
みすず書房より引用(https://www.msz.co.jp/book/author/sa/13872/)

彼女は83歳まで生きた人で、かのヴァージニア・ウルフとも交流をしている。(私にとってウルフは古典なので、1995年に亡くなった人がウルフと交流していたことにちょっと驚いてしまう。これは、古典の太宰治と結構長生きだった井伏鱒二との関係を思い出してしまった。いや、全然関係ないんだけどね。)

サートンは、1960年代後半に同性愛者であることを作品の中で明らかにし、大学の職を追われてしまう。58歳で田舎のニューイングランドでの一人暮らしを始める。そこでの暮らしが綴られている。

さあ、始めよう。雨が降っている。
『独り居の日記』p.5

この冒頭の一文で、作業を始める前の、気持ちを整える、あの感じが想起される。

何週間ぶりだろう、やっと一人になれた。”ほんとうの生活”がまた始まる。奇妙かもしれないが、私にとっては、いま起こっていることやすでに起こったことの意味を探り、発見する、ひとりだけの時間をもたぬかぎり、友達だけではなく、情熱をかけて愛している恋人さえも、ほんとうの生活ではない。なんの邪魔も入らず、いたわりあうことも、逆上することもない人生など、無味乾燥だろう。それでも私は、ここにただひとりになり、”家と私との古くからの会話”をまた始める時、ようやく、生を深々と味わうことができる
『独り居の日記』p.5

一人になることを心から欲する瞬間をわたしも知っている。嫌な出来事でなくても、一定の時間、それなりの人数の人々と触れ合ったら、一人で整理したくなる。また、その時間がなければ、時は猛スピードで過ぎ去ってゆき、何も覚えていられない。

12歳の子どもが母親に指示されて手紙で詩を送ってきたときに彼女はこんな風に言う。

芸術とか、技術のいろはさえ学ばないうちに喝采を求め、才能を認められたがる人のなんと多いことだろう。いやになる。インスタントの成功が今日では当たり前だ。
『独り居の日記』p.10

これは耳が痛い。本当、わたしも、勉強もせずに欲しがってばかりいる。これは1970年代の言葉だが、2021年に書かれていたとしても、まったく違和感がない。

私には抑鬱の原因よりも、それに耐えて生きるための処理の仕方に興味がある。
『独り居の日記』p.11
神経の抑鬱状態というものは、回転する車輪のように文字どおりくり返しやってくるからうんざりする。
『独り居の日記』p.13
時にはまた、私のようにかっとなりやすい人間にとってかんしゃくの発作は狂気や病気への安全弁ではないだろうかと考えることがある。
『独り居の日記』p.28

このように、引用したくなるような文章にあふれている。

思うに私が小説を書いたのは、あることについて自分がどう考えたかを知るためであり、詩を書いたのは、自分がどう感じたかを知るためだった。
『独り居の日記』p.45

午後に用事があると、午前中はほとんど使えなくなってしまうとか、これはすごく共感する。また、今どきのアメリカ人はセックス(コミュニケーション)ではなくオーガズムのことしか考えていないと憤慨するところにはちょっと笑ってしまった。おそらく、現代人もそんなもんだしなあ、と。

彼女は常に他者との距離感を掴みあぐねている。わたしも出しゃばりすぎたり、無関心を装いすぎたり、いまだにうまくいかない。

ただ、60歳を迎えるまえの彼女が悩み続けるさまに勇気づけられる。無神経になるのではなく、気難しさや傷つきやすさを抱えながら、ひとつひとつの感情に対処していく。

独り居は、「ひとりい」と読むらしい。

この本を18歳のわたしと28歳のわたしに読ませてやりたかったなと思う。まあ、18歳のわたしは、須賀敦子に夢中だったので、それで十分だったような気もするが、もう少し視野を広げられたかもしれない。

メイ・サートンの本を完全制覇したいと思っているし、『独り居の日記』も違うタイミングに読めば、全然違うところにはっとするだろう、と思う。

あまりにも幸福な読書体験であった。みなさんにもおすそわけしたい。


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