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映画『アイム・ユア・マン』(2021)の感想

映画『アイム・ユア・マン』を映画館で観てきた。監督はマリア・シュラーダー、ドイツ映画で、時間は107分。

派手な映画ではないのだけれど、いろいろと考えさせられ、とても面白かった。

主人公のアルマ(マレン・エッゲルト)は、自分に最適化されていくロボットと生活する実験の被験者だ。映画冒頭のダンスホールは、人間とアンドロイドのお見合いパーティー会場で、彼女は自分のお相手であるトム(ダン・スティーブンス)と出会う。

このシーンの面白さは、アンドロイドであるトムを演じる俳優(ダン・スティーブンス)のすごさを観客が知っている点にあると思う。わたしは、トムにどこか気持ち悪さ、気味の悪さを感じるのだが「人間の俳優なのにロボットの演技がすごいな」とすぐに思った。生身の人間が演じるロボットは、ほとんどまばたきをせず、首の動かし方がぎこちない。アルマは違和感を隠そうとしない。相手を観察しているのだ。素知らぬ他人であれば、あんなに凝視はできない。わたしたちは普段はしないことでも、相手がロボットであれば平気でやってしまう。相手を「モノ」だと思えば、ごく簡単にその一線を越える。(これは、結局、性差別、人種差別のメタファーなのではなかろうか)

アルマは、博物館で研究リーダーを務めるエリート女性である。これまで、恋愛をしてきたようではあるが、結婚はしておらず、一人暮らしをしている。わかりやすく孤独な中年女性である。貧しくはないが、ひとりでいることに不安を抱えている。

(そういえば、日本版のポスターでは、彼女の口元のほうれい線が消されてしまっているらしい。超高齢化社会の日本社会が若さに執着するのは、何かの皮肉なのか、単なる幼稚さなのかはわからないが、ほうれい線やしわを悪者にするのはやめたらどうかしら)

アンドロイドのトムの頭脳には、すでにたくさんのデータが入っている。だから、リルケの詩を諳んじることもできる。これが生身の人間なら、はっとさせられる出来事になるのに、ロボットだと「ただのデータでしょう?」となってしまうから不思議だ。教養とは何なのか。苦労して覚えた人間は高等で、ロボットがデータを検索するのは下等なのか。この偏見は何なのだろう。知識には価値があるのに、データには価値がないのか。

アルマはインテリ女性だが、決してトムを人間扱いしない。結局、わたしたちは主観を生きているに過ぎないのだから、ロボットと恋愛をしたって構わない、とはならない。ロボットと恋愛をする自分が許せない、というプライドの高さもある。

昔の恋人のユリアンは結婚をして、新居に引っ越しをする。引っ越しパーティーで、ユリアンの奥さんが妊娠していることをアルマは知る。アルマにはユリアンとの子どもを流産してしまった過去があったことが明らかになる。その秘密が明かされる場面で、トムは「超音波の胎児の写真だね。君の年齢だと、次の子どもは難しいね」とあっさり言う。こんなことを言ってしまう無礼な男は、なかなかいない。アンドロイドの限界がさらりと描かれる。子どもを失うことの痛み、得られなかった未来の重みが人間であれば、すぐにわかる。

アルマは認知症気味の頑固な父親の世話をしている。アルマは、人間らしさ、人間であることからは逃げない。不完全であることを受け入れている。

終盤、ロボットパートナーの実験の被験者である男性と街中で偶然出会う。60歳を過ぎた彼は、パートナーがいること、自分を愛するようにプログラミングされたロボットであっても、幸福だと言う。これまで愛されなかった人生がどれほど惨めであったかを語る。アルマは少し揺らぐ。しかし、これも何らかのメタファーなのだ。他者(あるいは異性)を「モノ」扱いすることに慣れている人間は、自分すらも「モノ」扱いすることができるのかもしれない。

アルマの決意は終始一貫変わらない。そして、彼女の選択は尊重されなければならない。それは、一人でいる自由(他人を受け入れなくてもいい自由)なのだと思われる。四六時中、誰かとべったりしていなければ我慢できない人間もいれば、放っておいてほしい人間もいる。

そして「他人に受け入れてもらえないこと」を受け入れること。その孤独は痛みとさみしさを孕んでいるが、不幸であると断じることはできない。アルマは、自分を幸福にしてくれるロボットと生活する実験に参加していたが、不幸な女性だったわけではない。おそらく、幸福でも、不幸でもなかった。そのことを受け入れる強さが彼女にはあった。それは他者に救いを求めない、という自立的な精神でもある。

しかし、恋愛ロボットには抵抗があったとしても、友達ロボットやハウスキーパーロボット、介護ロボットだったら、簡単に受け入れてしまうような気もする。恋愛とそれに含まれる生殖は、やはり人間にとって特別なものなのだろうか。

この映画を観る前、たまたま浦沢直樹の『PLUTO』を全巻読み返しており、ロボットとは何か、と考えたあとだったので、さらにこの映画を楽しめた気がする。ロボットの権利については、『アイム・ユア・マン』でも、少しだけ触れられている。

韓国映画の『チャンシルさんには福が多いね』でも、女性の孤独と孤独を受け入れるさまが描かれている。孤独とは、いつだって、古くて新しいテーマなのだ。ギリシア・ローマ時代の哲学者も、2022年に生きる人間も、みんな孤独を抱え、孤独への対処法を考えている。こういう映画があると、必要以上に恐れなくてもいいのだと思えてくるから不思議だ。やっぱり、生活にはフィクションが必要なのだと改めて思われた。

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