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映画『ローズメイカー』(2020)の感想

ピエール・ピノー監督のフランス映画『ローズメイカー』を映画館で観てきた。

こんなことを言ったら、何だが、何も期待せずに見た。

そのせいか、すごくよかった。

こうあるべき、という規範に対する期待がない。年齢や役割でそれを求められることがなく、終始安心して観ることができた。

内容的には、複雑さはなく、二時間ドラマと言われれば、そんな感じである。

しかし、その二時間ほっとできたことは有意義ではないか。

そして、人間は仕事や目標がなければ、本質的には繋がれないのだと改めて思った。

もちろん、映画には脚本(物語)があるため、その核心がはっきり示されるのだけれど、目的のない関係性に我々は耐えられるのだろうか。

家族(夫婦)は運命共同体として、カップルは余暇をよりよく楽しむために、職場の同僚は業務目標を達成するために、時間と空間をともにする。

そこにいるだけでいい。愛があるから、存在してくれるだけでいい、などという無償の愛は稀だ。

意味のない関係は存在しえない、ということを最近よく考える。

人は、意味を求め続ける。

それは数字で表せるお金なのかもしれないし、命を生み育てる行為なのかもしれない。

人に必要なのは、目的をともにできる仲間(同志)と他者からの肯定と承認なのだ。その二つがあれば、人生をやり過ごすことができるだろう、と思う。

生きるために仕事をしているのか、仕事をするために生きているのか。

どちらが目的(目標)なのか、頻繁にわからなくなる。

職(収入源)を失うことは、社会的な死を意味するが、身体的な死とは、まったく別次元の話である。

しかし、我々はそれをすぐに混同してしまう。

本当は失業しても、新しい収入源を探せばいいだけの話なのに、すべてが否定されたように、死ねと言われたかのように感じてしまう。

それこそが現代的な病であると思う。

(もちろん、昔の村落共同体では、周囲から無視されれば、それを間違いなく死と同義であっただろう)

一方で、社会的な自分から自由になることは、諦観が必要であるし、かなり強い自我が必要である。

そのような強固なあなたは、社会から望まれているか、というと、そんなことはないと思う。

さまざまな事象に脅えながら、波風立てず、従順に働くことが、社会から望まれているような気がする。

もっと、尊大に、傲慢に、自由奔放に人々が生き始めたら、生きやすくはなるだろうけれど、いろんなところでクオリティは落ちるだろう。

なぜなら、目標の共有を維持し続けることが困難になるからだ。

ただ、目的の共有さえできれば、人は性差や階級、出自を超えて、つながることができるだろう。

それは希望でもあると同時に、危うさも内包している。

みんなで頑張って、新しい薔薇を作ることは素晴らしい。

しかし、人間はいじめや虐殺で、協力したり、連帯したり共闘することすらある。

だから、ある集団がある目標に向かって頑張ることを手放しに褒めることは難しい。

そして、いい目標、悪い目標と誰かがジャッジすることもできない。

結局、わかりやすい正解はなく、考え続けなければならないことに気が付く。

考え続けるのって、超面倒くさい。

そう、この面倒くささが、人間に立ちはだかる最大の敵なのである。

面倒くさいから考えない、という思考停止。これが最も危険。

しかし、考え過ぎて、誰かに執着したり、嫌な感情をリピートし続けるのも不毛なんだよな。

社会とは、個人とは、仕事とは、生きるとは、なんぞや。

全然、わからない。

わからないからといって、考えなくてもいい、ということにはならぬ。

ああ、面倒くさい。

わたしは、今そんなところをぐるぐるしている。

『ローズメイカー』はいい映画です。

ぜひ、観ていただきたい。もう、薔薇はとにかくきれいですから

主演のカトリーヌ・フロのインタビュー記事もどうぞ。


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