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#映画感想文010『インセプション』(2010)

クリストファー・ノーラン監督・脚本の『インセプション(Inception)』をIMAXで見てきた。

テレビで放映されたときに見たつもりでいたが、何も覚えていなかった。人間ってアウトプットしないと、即座に忘れてしまうのかもしれない。

ライムスターの宇多丸さんがラジオの映画評コーナーで、『インセプション』のことを「おじさんたちが寝ているだけの映画」と簡潔に表現していて、思わず笑ってしまった記憶がある。

今回、最後まで鑑賞して「確かに」という感じである。夢の階層や物語の構造の解説サイトやブログはすでにたくさんあると思う。

いくらパズルを合わせようとしても合わなかったり、整合性が取れなくても、それは当然のことだから、私は調べない。なぜなら、この映画は「夢」なのだから。いくらでも言い訳できる。クリストファー・ノーランは言い訳などせず、理路整然と説明するかもしれない。しかし、謎解きをしたところで無駄である。しょせん、「夢」なのだから!

私は、テレビ東京で放映された『新世紀エヴァンゲリオン』の謎解きに夢中になってしまったという苦い経験がある。結論としては、エヴァは、面白そうなものを適当にめちゃくちゃに詰め込んだだけで、脚本に緻密な計算などはない。使徒とかいう、わけのわからないものと闘わされている碇シンジくんの物語に、観客自身も巻き込まれるだけなのである。大人の組織であるネルフも碇シンジくんと同様にわけがわかっておらず、観客は混沌とした世界を覗き見することしかできない。使徒の意味とか考えていた時間はマジで無駄だった。だから、エヴァがビジネスとして、今現在も続いていることに、複雑な気持ちになる。エヴァには、人々を夢中にさせるさまざまな要素がある。だから、いろんな人がそれぞれフェチ的にいかようにも楽しめると思う。しかし、十代の私は物語における整合性というものが、観客に対して約束されているものだと思っていた。それが裏切られ、すべてが「はったり」で「つぎはぎ」だとわかったとき、失望を禁じえなかった。ただ、神話的な物語や昔話などは、論理や整合性などもなく、滅茶苦茶なものも少なくないので、それは別に悪いことではない。ただ、私が狭量だっただけの話である。しかし、それがビジネスになるんだよ、と言われると非常に腹立たしい。『進撃の巨人』は、エヴァを反面教師にしているような気がする。きちんと伏線を張り、毎度毎度回収しており、律儀で真面目な作品である。

脱線が長くなってしまった。『インセプション』の話に戻る。夢の話を真正面に受け止めてはいけない。なぜなら、夢なのだから。

2010年公開当時、『インセプション』のあらすじを聞いて想起したのは、今敏監督の『パプリカ』(2006)だった。『パプリカ』の原作小説は、巨匠の筒井康隆である。

今回、見て思ったのは「え? これ、あんたの夢なの? コブの夢なの? あんたがコントロールしてんの?」

この感覚、知っている。

「え? これ、あたるの夢なの?」

押井守監督『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』(1984)の夢の中を彷徨う感じと『インセプション』はよく似ている。

ただ、クリストファー・ノーランが親切なのは、信頼できる語り手(狂言回し)であるアリアドネ(エレン・ペイジ)を配置している、という点である。だから、観客は迷子にならずに済む。

コブ(ディカプリオ)は信用できない語り手で、早々に観客を裏切る。また、主人公のコブ自身も、常に疑っている。アリアドネがいることで、置いてけぼりにならずにすむ。最後の最後まで、コブを信用できない。コブと妻であるモルの関係性も甚だ怪しい。二人で夢を共有して、二人の世界で生きていた。現実に戻れない妻に夫は、あることを埋め込んだことが物語の途中で明かされるが、それすらも信用できない。そもそも、妻は夫と二人の世界など望んでいたのだろうか。夫の妄執、妻に対する異常な執着が、妻の精神の破綻を招いたのではないか。夫は、妻を死なせたのではなく、殺したのではないか。そういう疑念もわいてくる。しかし、夫婦や恋愛における関係性というものは、多かれ少なかれ、狂気を帯びる。互いの瞳に互いを映す。正しさとは無関係なのだ。

しかし、この映画は、メタファーでもあろう。

我々は、現実の自分から、夢の世界に逃げる。その夢は、妄想であったり、ネットの世界であったり、閉ざされた関係性であったり、フィクションであったり、創作であったりする。どちらの現実が重要なのか。現実社会における労働者である自分を忌避する人間も少なくない。安心できない共同体から逃れようとする人々もいる。こんなはずではない、もっと自分は素晴らしい、私に対する評価は不当に低い、ここでなければもっといろいろできるはずだ、などと思い込んでいる人間は、あなたの近くにもいるだろう。(あなた自身かもしれないし、私もその一員であるかもしれない)

何を現実と定義するかは、結局個々人に委ねられる。

もちろん、社会的な地位や職業が「自分」であると考えれば、一番すっきりするだろうし、他人に説明するとき、それが最も容易だろう。しかし、それだけでは苦しくなる。ほかの居場所が必要だ。それが物理的に存在する必要はない。妄想でも、空想でも、現実でも大差ないのかもしれない。

星野源は『地獄でなぜ悪い』の歌詞で、「いつも夢の中で 痛みから逃げてる」と歌っている。私はその感覚がよくわかる。現実の痛みや疲れを眠ることで解消しようと試みる。

フィクションの世界に入り込めば、そこは安全地帯でもある。それは今が苦しい人々にとって「救い」となりうる。しかし、耽溺してはならない。バランスがとれなくなれば、コブになってしまう。ただその一方で私は「現実を生きろ」とはいえない。生きることが苦しい人に、それを強いることは暴力である。

映画が始まる前、「映画が終わったら、何を食べよう」と考えていたのだけれど、『インセプション』鑑賞後は、不思議と食欲がなくなっていた。そういう意味では、フィクションは侮れない。現実に侵食し、生理的欲求すら変えてしまう。

それにしても、この映画に出てくる俳優陣は、みんなそれぞれ違うが、男前ばかりで、眼福でもあった。全員、信用はできないのだけれど。そして、この企画を通したノーランはすごいと思うし、製作させたワーナーもすごいと思う。

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