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私が見た南国の星 第3集「母性愛に生きて」⑮

大変な事件が起こってしまいました。一件落着かと思いきや、どんどんことが大きくなっていってしまったようです。社員たちに、笑顔でお年玉を渡していた、その裏で、こんなドラマが展開していたんですね。ドラマのようなお話ですが、本当の話です。

最悪の事件


 さて、ここからの記憶は大晦日に戻る。2002年の大晦日は満室だったが、この日の宿泊客の中には、北京の「日本大使館」の職員4名もお泊りだったので、中国人団体客の宿泊には神経を使っていた。
 新年のカウントダウンが始まる30分前から、事件の兆しが現われていた。男女合わせて十数名の団体客が、新年が明けるのを待ちきれず中庭で花火とバクチクを始めたのだ。ロビーからレストランまでの通路の屋根は、全て草葺なので、火事にでもなれば大変なのだ。保安係りや社員たちが何度も注意をしたのだが、彼等は一向に止めようとしなかった。そこで阿浪が彼等に安全な場所への移動を頼み、彼等も納得をしてくれた。ところが移動した場所が、ホテルの入り口付近の道路だった。午前零時の合図と共に、近くのホテル付近からも花火やバクチクが一斉に鳴り出した。この団体客も、駐車場と正門の前で花火やバクチクを始めた。
 そこは、自家用車がたくさん駐車してあるため、車に引火でもしたら大変なので、保安係りも何度か注意をしたようだったが、全く聞き入れてもらえなかった。保安係りの注意も無視され、フロント責任者の話も聞き入れてくれなかった。酒を飲んで気が大きくなって、彼らはみな興奮状態だった。その頃は、阿浪と私は自分の部屋で寛いでいたので、その事を知らなかった。その宿泊客たちの、あまりの態度に、とうとう保安係りも爆発をしてしまった。客たちと喧嘩が始まり、フロント社員が慌てて阿浪に連絡をした。私も知らせを聞き飛んでいったが、既に彼等と阿浪の間でも口論となっていた。彼らはいくら説明をしても聞き入れず、花火やバクチクを止めなかった。その挙句、門に立ててあった日本と中国の国旗に火がついてしまったのだ。とっさに保安係りが消したが、中国の国旗には大きな穴が開いてしまった。それでも、まだ口論が続き、駐車場や道路で、花火とバクチクを続けているのだった。阿浪も怒り出してしまい、収拾がつかなくなっていた。彼等は興奮しているので、私の怒鳴り声は全く耳に入らないようだった。そして、その中の女性が阿浪の身体を突き倒そうとしているのが目に入ったので、私はその女性の洋服を引っ張ったが、なんの効果もなかった。馮さんも必死で説得をしようとしたが、彼女は優しいので彼等には全く歯が立たず、ただこの光景を見守るしか出来なかった。自慢にはならないが、私は中学生の頃から喧嘩に慣れていたので、少々殴り合いが始まっても驚かなかった。しかし、そんな事を思っている場合ではなかった。早く止めなければケガ人が出てしまうと思い、
「中国人は、こちらの話に聞く耳を持たないのですか!」
大声を張り上げて必死で止めようとしたが、埒が明かないので、私は警察を呼ぶようにフロントの社員へ指示をした。
「早く110番をして!」
フロント社員は白黒させていたが、私の大声に驚き警察へ通報をした。10分くらいで警察が来てくれたのだが、その時もまだ彼等の争いは続いていた。新年が明けたばかりというのに、こんな状態では一年が思いやられると頭が痛くなった。
 警察が、この騒ぎを町の県長に報告をしたのか、夜中の1時過ぎに県長が公安局の局長と共にホテルに来られた。このマナーが悪い客たちは、成人した若者たちだったが、冷静さを取り戻すことは出来ず、まるで小学生のようだった。県長や公安局長の目の前でも抗議が続き、県長は、
「冷静に話し合いで解決をしましょう」
と、彼らに告げた。新年から県長や公安局長まで出動させてしまい、心苦しかったが、仕方がないと思った。ところが県長は彼等の行為に対して、注意するどころかホテル側の対処を非難された。私は、怒りを必死で我慢していた。県長が最後に言われた言葉は、とても理解しがたく、今でも心の傷として私の中に残っている。
「あなた達が、この七仙嶺で新年を迎えたい気持ちは十分理解が出来ます。中国では、新年や旧正月に花火やバクチクを鳴らす習慣です。都会では禁止区域もあるのですが、この七仙嶺では何処で楽しんでも構いません」
県長にこんな言い方をされては、私たちは立つ瀬がない。県長の言葉を聞いていた彼等は、「自分たちの行為が間違っていなかった」と歓喜の声をあげた。そして気が強くなった彼等は、私達に対して謝罪を求めてきた。こんな事が世の中に許されるのならば、社会生活はメチャメチャになるのではないだろうか。
 その時、中国という国に対しする不信感が湧いてきた。公安局長は、2000年から私と仲が良かったが、県長の発言で何も言えなかったようだった。県長や公安局長たちが帰り際に、私に握手を求めてきたが、私自身は納得出来なかったので顔も見る気もしなかった。握手をしない私の姿に多少の同情を感じたのか、彼らはそのまま帰って行った。私は悔しさで涙が止まらなかった。そんな私の姿を見た社員たちは、
「ママ、もう休んで下さい」
と、その小さな声を聞き部屋へ戻ろうとした時だった、彼等は、私たちに賠償請求をしてきたのだ。私の身体は再び炎が燃え出し、彼等を許せなくなっていた。興奮が頂点に達した瞬間、
「あなた達は本当に最低な中国人です。他の客のことも考えないで、大きな声を出すだけではなく、賠償請求までしてくるなんて理解が出来ません」
今度は私の大声が館内に響き渡っていた。そんな私を冷静にしようと思った阿浪は、
「この話は、明日にしましょう。あなた達も疲れているから休んでください」
と彼等に言葉を掛けた。それでも私は、彼等の止まらぬ抗議に我慢が出来なかった。
「あなた達は、このホテルから直ぐ出て行って下さい。支払いは結構です!」
と言って、部屋へ戻ろうとした私に対して、今度は日本人を侮蔑する言葉が聞こえてきた。
「小日本!日本人是精神病!」
人として言ってはいけないレベルの汚い言葉だった。その女性の声を聞いて、もう我慢にも限界がきた。彼女の側へ近づいた私は、
「今から全員、出て行って!」
と怒り狂ってしまった。それでも他の客への配慮を考えなければならないので、それ以上は言わなかったが、私に失礼な言葉を言った彼女は、また挑発をしてきた。今度は聞き取りにくい発音の英語で言った。
「万歳、勝ったぞ! 馬鹿なことはよせ」
と言った。そして、その女性は直ぐ自分の部屋へ入りドアに鍵を掛けた。この英語を聞いた時の私は、
「戦争をしているわけではない。勝つとか負けの問題ではない」と思い、彼女がいる部屋のドアをノックして開けるように言った。それでも彼女は、部屋の中から、また、侮蔑的な言葉を言った。最後に彼女が言った言葉を聞いた私は、自分を見失ってしまった。彼女は、
「このホテルを潰すぞ!ホテルに火をつけて燃やしてやる!全部死ね!」
と部屋の中で騒いでいるのだった。私も自分の立場を忘れて、いつしか学生時代の不良に戻っていた。
「出てこないなら、こっちからドアをこじ開けて入って行くよ!」
そう言ってドアを足で蹴飛ばした。もうこの時は、他の宿泊客が睡眠中ということもすっかり忘れてしまっていた。この状態が1時間くらい続いたが、疲れ切ったのか、彼らはそれぞれ自分たちの部屋へと戻っていった。阿浪から、
「今日は、こんな時間ですから静かにさせるためにも泊めましょう」
と言われ、少し冷静さを取り戻し、その言葉に従った。
 新年の朝は天気も良く、あの嵐のような出来事が嘘のようだった。朝の8時頃、町の副県長が訪れ私と話がしたいと言って来たと、社員が報告にきた。彼の話は県長とは違って、
「彼等には厳重に注意をしますから、朝食を食べさせて静かに返してほしい」
と言われた。この副県長は、七仙嶺の少数民族なので、私たちを理解してくれたと思った。
「今から彼等には話をしますから、朝食だけは必ず出して下さい」
と何度も朝食のことを言われた。きっと、どこのホテルでも新年の期間だけは、宿泊客に朝食を無料にしていたからだろう。副県長は、暫く彼等と話をしていたようだった。そして、彼等は次々レストランで朝食を始めた。その間も何が起こるかわからないので、副県長も彼等の食事が済むまで様子を眺めていた。その間は、私達と今後の七仙嶺へ訪れる客についての対応策を話し合っていた。副県長は、見るからに頭の良さそうな人格者だったが、どこか危険な人物のような気もした。
 彼等の食事も終わり、10時近くになった。彼等は昨夜の事が嘘のように静かな態度で、チェックアウトの精算をして足早にホテルを出て行った。
「副県長、新年から本当にご迷惑をお掛けしました。今後は、このような事が起こらないように最善の努力を致します。どうも、ありがとうございました」
その言葉を理解してもらえたのか、私の挨拶に笑顔で答えてくれた。
「今後は、あのような客を泊めさせないほうが無難です。頑張って下さい」
この言葉を聞いて、気持ちが少し楽になった。でも、あんなにも抗議して騒いだ彼等が、素直に受け止めたとは信じられなかった。なんだか嫌な予感もしていたのだが、ただ新年の最悪の出来事を早く忘れたかった。
 この日、彼等は次の観光地へ移動をする際、車の故障で身動きが出来ず観光も断念したと、知り合いの警察官から聞いた。私は内心、「当たり前でしょ!この七仙嶺の神様もご存知だから天罰よ」と思い、気にも掛けていなかった。
 北京の日本大使館の職員の方には、中国人の方もいらっしゃったが、昨日の出来事についてはご存知なかったようだった。帰られる時に、
「このホテルはとても気に入りました。やはり、日本人が経営するホテルですね。とても気配りが良く感心しました。中国人はマナーが悪いため、ご苦労されるでしょうけれど頑張って下さい」
と、新年からお褒めの言葉も戴いた。入り口の門に立てられた両旗は悲惨な状況だった。互いの国旗だけが昨夜の事実を知っているのだった。

事件の取材


 その日からの私は、気持を切り替えることに努力をしていた。1月5日、阿浪と私は出張で海口にいたが、社員からの「海南日報の記者が来て、新年の事件を新聞に掲載したいようです」という電話に驚いき、急いで仕事を済ませホテルへ戻ることにした。社員からの電話では詳しいことがよくわからなかったので、帰って確認することにした。
 その記者は、県政府の副県長にも取材をしていた。私達の取材もすぐにしたかったようだが、私たちは不在だった。もしも、記者が勝手に記事を書いて、新聞に掲載をしたら、大変なことになると思った私は、直ぐに記者に連絡をするようにと阿浪に指示をした。すると、記者は、私たちが帰るまで保亭県に滞在をしていると言った。電話では詳しい内容を説明することが出来ないので、私たちの帰りを待ってもらう事にした。新聞記者が、どうしてあの出来事を知ったのかが疑問だった。
 私たちは翌朝、海口市を出発して保亭県へと戻った。ホテル着いたのは午後1時半、記者へ連絡を入れたが、記者はすでに保亭県を出て海口市へと移動中だった。阿浪も、約束が違うことに不満を持ちながら、その記者と話した。
「私たちが戻るまで、勝手に社員から取材はしないでほしい」
と、お願いをしていたので、昨夜は安心をしていた。記者も同意をしてくれたはずなのに、なぜ約束を守ってくれないのかと腹が立った。我々の要求を完全に無視して、社員から取材をして海口市へ向かったのだった。
「あんなにも念を押して頼んでいたのに、やはり中国人は簡単に気持ちが変わってしまう人種なのだ」
と思った。やはり記者は、
「明日の新聞記事に掲載するため、時間がなくなって待っていられなかった」
と言った。そんな説明をされても、もう聞きたくなかった。あの事件を新聞に掲載して、ホテルのイメージを壊そうとしているその団体客が許せなかった。きっと、新聞を読んだ人民たちに同情をしてもらいたかったのだろう。このホテルを非難することで彼等は満足なのだ。
 それから、数日が過ぎて、また新たな問題が浮上した。あの不愉快な事件を早く忘れたいと思っていたが、なかなかそうもいかなかった。
 ホテルで問題を起こした団体客は広告会社の社員だという、それで、新聞社には顔がきくのだった。だから、新聞社にあの事件の記事の掲載依頼するのは簡単なことだった。もう、今更どうしようもなかった。明日の新聞記事には、どのように書かれているのかわからないが、なるようにしかならない。しかし、社長の名前だけは公表をさせたくなかった。
 この事件については、事件直後に本社へも報告済みだったが、明日の新聞を待つしかなかった。
「社長からの謝罪文書、社員一同が彼等に対して謝罪をする。新年の旅行費用一切を弁償する」
これが彼等の要求だと記者から聞いた私は、直ぐ本社へ連絡をした。河本氏は、
「明日は役員会の会議予定ですから、この事について話し合いをします。連絡をしますから待っていて下さい」
と言われたが、
「わかりました。宜しくお願いします」
としか言いようがなかった。この日から私は、中国人に対する信頼感が薄れていくのを感じた。
「どうして、こんな結果になってしまったのでしょう」私の心中は不信感が渦を巻いていた。
「中国人は、一人では何も対処が出来ない可哀想な人種、そして集団になると理性も失い、常識では考えられないことをする邪悪な人間なのだ」
と、私は、また理性を失い中国人の悪い点ばかりを思い浮かべてしまっていた。


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