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わたしが1番、幸せにしたい人

こんにちは!

今日は、noteの企画で記事を書いてみようと思います。

テーマは「大好きな家族」。

こうしてテーマを与えていただかなければずっと言語化せずに、心の奥底に貯めてしまうような思いもあるような気がするので、この機会をいただいて!書いてみようと思います。


1.それでも、家族。

わたしは幼い頃の記憶がほとんどありません。大人になってからも、一定期間が空いた過去の出来事は曖昧で、もしかすると頭の中で何か不具合があるのかもしれませんが、今必要で繰り返していることは忘れず、日常生活に特に不自由を感じることがないので、調べることもしていません。

特に幼い頃や学生の頃の記憶は、断片的になっていたり、ちょっとしたエピソードなどが思い出せなかったりします。家族や友人が覚えている色々な思い出話を、わたしは言われてもあまり思い出すことができないのです。

そんなわたしですが、この言葉はずっと脳裏に焼き付いています。

「りな。パパのお引っ越しに、ついて行ってもいい?小学校、変わることになるんだけれど。」

母が困ったような、戸惑ったような声でわたしに話しかけています。

わたしはこの時の返答は思い出すことができません。母が言うには、「学校変わりたくない、引っ越ししたくない。」と、泣きながらそう答えたそうです。

わたしの家族は、父と母と、5つ年下の弟とわたしの4人です。約12年間は、愛犬のエル(イタリアングレイハウンド♂)も一緒に暮らしていました。

父はとても自分勝手と言いますかなんと言いますか…少し問題児です。

ある日、「転勤になったから。静岡県に引っ越すから。」と、あんたは独身かい!と突っ込みたくなるほどの潔さで、会社から言い渡された転勤をいとも簡単に二つ返事でOKして家に帰ってくるような男なのです…。(笑)

わたしが7歳、弟が2歳の時でした。

慣れてきた小学校生活に「引越ししたくない」と泣き出すわたしと、まだ幼い弟を抱えて、母は困り果てていたそうです。

自分の両親や友人の元から離れ、知らない土地で1から始めるのか。はたまた父を単身赴任にして一人で子供たちを育てていくのか。

どちらをとっても母にとっては苦しい決断だったかもしれません。

最終的に、父だけが引越しをし、家族と離れて単身赴任で暮らすことになりました。

わたしたち家族4人が揃って暮らしていたのは、後にも先にも、弟が生まれてからのたった2年間。

それでも、わたしたちは、家族なのです。

2.苦労の連続。

母は、女手1つでわたしと弟を育てることになりました。母の両親が車で 30分ほどの所に住んでいたので、たまに手を借りながら、自分もパートで働きながら、2人を育ててくれたそうです。特に、男の子を1人で育てるのはわからないことだらけでとっても大変だった、と後に母は言っていました。

母のおかげで、わたしも、弟も、無事に成人を迎え、学校を卒業し、就職することができました。

わたしが就職をして家を出たり、弟が留学で長期家を空けたり。父が定年を迎え再雇用までの期間戻ってきたり、わたしが体調を崩して帰ってきたり。

とにかくわたしの実家はいつも誰かが欠けている状態でした。

それでも、母だけは31年間ずっと、いつでも家を守ってくれていました。

その頃のことも、わたしは正直あまり覚えていませんが、決して楽な31年ではなかったはずです。

特に、母と父方の祖母の「嫁姑関係」が良くないことは、幼いながらによくわかっていました。なぜなら、わたしも弟も、祖母にはいつも他の孫たちと比較され、意地悪を言われていたからです。

「頭が悪い」「肌の色が黒い」「お母さんに似て可哀想」「親の育て方が悪い」……とまあ、実に壮絶なお婆さんでした。(笑)

一緒に住んではいませんでしたが、近くに住んでいる上にクッションになれる父もいないため、どんどんエスカレートしていく意地悪にも耐え、わたしたちを育て、その間に母はわたしたちの子育てをサポートしてくれた、自分のお母さんをも看取りました。

それでも母が辛そうな、苦しそうな表情をしていた記憶は、実はあまりありませんでした。

3.知らなかった過去。

昨年、わたしが体調を崩して会社を辞めようか悩んでいた時のことです。

心身のバランスを崩し、体調の悪さと情けなさと悔しさで涙が出ることもありました。

そんなわたしに向かって、母が一言。

「わたしも、うつ病みたいになったことがあるけれど。その時は、走って治したよ。」

母はあっけらかんとしています。わたしはこの事実を、知りませんでした。

わたしと弟を育ている間のどこかで、母は苦しい思いに耐えていたそうです。

そんな素振りは1ミリもありませんでした。わたしたちの前では、母はいつもしっかり者で笑顔のお母さんでした。

わたしは思い出せない過去を一生懸命思い出そうと努力しましたが、やっぱり母の辛そうな顔やしんどそうなシーンは思い出せません。

懸命に、心配させないように、見せないようにしていたのかもしれません。

わたしは驚きましたが、母が今まで黙っていた事を話してくれたのだから…と。次の日から心機一転、母と、もう亡くなってしまったけれど、大好きだった犬愛犬のエルと散歩にいくようになりました。

毎日40分以上ゆっくりと散歩する中で、わたしと母はこれまで語ってこなかった過去について色々と話をしました。

あの時が、辛かった。あの時は、どうしようかと思った。あの時は、不安だった。あの時は、もうダメだと思った…。

父のこと、弟のこと、エルのこと。祖母や親戚関係のことや、職場でのこと。わたしが就職をしてから家に戻ってくるまでの間に起こったこと。母は思い出しては、ポツリポツリと笑いながら話してくれました。

こんなに辛くて苦しい思いをさせていたのかと。それでもなお、わたしは母の期待に添えず、こうして会社員を辞めて、退職をしようとしている。

…そんな葛藤も抱えましたが、母の期待に本当の意味で応えるためにも、わたしはしっかり自立しなければいけないと。自分の歩いて行く道をじっくりと考えて、新しい道に進むことを自分の意志で決めたのでした。

4.これからのこと。

先日、母と長年ずっと一緒にいてくれた愛犬のエルが旅立ちました。

どんな辛い時も、エルはずっとそばで母を支えてくれていました。そんなエルが、旅立ったのです。

わたしは今、実家で母と2人暮らしをしています。これから先は、わたしが母をサポートする番です。

母が我慢しなくても、無理をしなくても。自分の好きなことを、好きなだけやっていける人生を。一緒に考えながら、サポートしていきたいなと思っています。

エルがいなくなって寂しいと言う母の毎日の散歩に付き合ったり、一緒に料理を作ったり。学校で習ったお灸やマッサージをしてあげたり、色々な趣味のお教室に付き添ったり。

ヨーガの教科書では、人には「ダルマ」と呼ばれる「役割」があると学びます。

そして、その役割をきちんと理解し、全うする生き方こそが大切であると言うのです。

わたしにとっての「ダルマ」は、色々あります。

家族的には、父や母にとってのであり、弟にとってのであり。社会的には、学校のクラスを構成する1人であり、ヨーガの師匠の弟子であり、ヨーガの先生でもあります。

それぞれのダルマの意味を理解し、一生懸命全うする中でも、わたしはこれから先、「母の娘である」という役割を特にしっかりと果たしていきたいなと思っています。

これまで力になれなかったたくさんのごめんねと、ここまでわたしと弟を育ててくれたたくさんの有り難うと。そして、弱音も吐かずに頑張り続けたことに対するハグと、何1つ投げ出さずに向き合い続けたことに対する尊敬を込めて。

ずっとせっつかれている孫の顔は、この先見せてあげられるかわからないけれど。

わたしはわたしの出来る方法で、母を1番幸せにしていきたいなと思っています。

5.最後に。

わたしの完璧主義で頑張り屋さんな性格は、完全に母譲りであることがよくわかりました。(笑)

遠方に住んでいる、仕事が忙しくても毎日頑張っている弟も、できるだけ助けてあげたい。

いつかはきっと、「父の娘」と言う役割とも、絶対に向き合わなければならない時がくるんだろうなあ…と思っています。いまだに単身赴任を続ける自由奔放な父。ヨーガの教えをフル活用して、ようやく苦手な父のことを少しずつ受け入れることができるようになってきましたが、現状、長期休暇で2週間一緒に生活するだけで、ストレスが溜まりすぎて心身が少しばかりおかしくなります…。(笑)(ちなみに父と弟は顔を合わせると怒号が飛びあうので、長いこと顔すら合わせていません…。笑)

それでも、わたしたちはやっぱり家族だから。

ちょっと変わった形だけれど、それでも、母が懸命に守ってくれた家族だから。

助け合って、支え合って。

そしてわたしはやっぱり、母を1番幸せにしてあげたいなと思います。

さそれではまた、次回◎


* 追伸 *

この記事を書いている途中に、退職前にもがいていた時に書いたこの記事のことを思い出し、読んでみました。とっても、なつかしい。

noteというのは、書いた時の、その時の気持ちにタイムスリップできるように感情を思い出すことができるので、記憶が安定しないわたしにとってはとても有り難く、大切なツールであります◎

これからも、たくさんの感情を備忘録していきたいなと思います!

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