自己紹介~私のキャリアの変遷と今の思い
はじめまして!
株式会社ミライフでキャリアデザイナーをしている中尾恵です。
これまでの人生もキャリアも、いろいろと紆余曲折ありましたが、現在はやりたい仕事に就いて、再始動中です。
まずは自己紹介として、私自身のキャリアの変遷と、キャリア支援についての自分の考えをお伝えしたいと思います。
プロフィール
就職難からのキャリアスタート
私が大学卒業をした2000年代前半は、世の中は就職氷河期・・。
自己分析もままならないまま、とりあえずどこかの会社にいれてもらおうと業界問わず会社に応募しまくっていました。
私の記憶では、少なくとも200社にはエントリーシートを送ったと思います。(しかも全部手書きで)
ところが、自分が何をしたいのか定まってない私は、面接でもうまくアピールができず落選を続け、結局、唯一内定をもらったホテルを運営している会社も「全国転勤だから嫌だな」という理由だけで辞退をし、仕事が決まらないまま卒業をすることに・・(怖)
ちょうどその時、自宅から近いところのコールセンターで契約社員として勤務できる募集を見て、応募をしそのままそこでお世話になることになりました。
たまたま出会った仕事で、好きでもなんでもなく始めたコールセンターの仕事でしたが、社会人として仕事をすること自体はとてもやりがいがあり、必死で仕事したところ、2年目からSVとしてセンターの運営をする仕事を任せていただくようになりました。管理者として人件費をしっかり管理して利益を出す取り組みをしたり、自ら社内のセールスインストラクターの資格を取得して全体の通話品質の底上げをするなど私なりに工夫をしてきました。
ところが5年目に入ったとき、「このままこの仕事を続けてきて良いのだろうか」と急に考えることが増えるようになっていきました。
コールセンターの業務も少し自分の中でマンネリ化していたこともあり、改めて自分がやりたいことを考え始めていました。
一体私は、何がやりたいんだろう?
誰にも相談できず、一人で悩むことが増えていきました。
【キャリアの転機①】社会人5年目で人材業界へ転身・リーマンショックの経験
悩みながらも、「とりあえず転職活動をしてみようかな」とリクナビnextに登録をして求人情報などを見ていたところ、リクナビを運営するリクルートから連絡があり、エージェントサービスを使ってみない?というお誘いがありました。
転職のことなんて何も知らなった私は、エージェントとか人材紹介というものが存在することすら知らず、面談をするためにリクルートへ出向きました。その時に面談をしてくれたキャリアアドバイザーの方が、私が転職したい理由や希望を聞いたり、整理をしたりしながらこう言ってくれました。
「中尾さん、エージェント業に向いてそうですね」
この言葉がきっかけですっかりその気になり、人材会社を探し始めました。
その時、エン・ジャパンという会社を見つけ、「転職は慎重に」とか「入社後の活躍」などを大々的に書いていることに驚いて、ここで働きたい!と思い、応募をして、幸い内定をいただいけたので、この1社の応募のみで最初の転職活動は終わることになりました。
とにかく孤独だった転職活動に伴走者がいてくれることに安心できたこと、
そして、私も同じように悩む人の力になりたいと強く思いました。
ところが入社して間もなく、世の中をリーマンショックが襲いました。
たくさんあったはずの求人が一斉にクローズしていき、それとは逆に転職相談者の数が爆発的に増えました。
私は、大手企業勤務の、俗に言うエリートといわれるような方たちと、毎日毎日、朝から晩まで面談をし続けました。
どれだけ相手が素敵な方でも、どれだかこれまで会社に貢献していたとしても、何も求人が紹介できない、希望に添った提案ができない。
心苦しい日が続きました。
「もう会社が守ってくれる時代は終わったな。これから個々がスキルを身に着けて、自律的に生きていく時代なんだな。」と実感しました。
この時の経験は、現在でも私のキャリア支援のベースの考えになっています。
苦しい時代は2年ほど続いたかと思いますが、世の中の景気が立ち直り始めて、私の仕事も少しずつ軌道に乗り始めました。
【キャリアの転機②】ハイクラス人材の支援を専門とするエンワールド・ジャパンへの転籍
エン・ジャパンでは、人材紹介の仕事にも慣れてきて、忙しいながらも楽しく仕事をしていたのですが、5年目にまた転機が訪れました。
エン・ジャパンがM&Aをして子会社化をしていたエンワールド・ジャパンという会社があり、エンワールドは、ハイクラス人材を専門とするエージェントサービスをしている会社だったのですが、そこへ異動しないか?と打診がありました。
同じグループながらも、給与や報酬体系、オフィスも働く仲間も全部が異なる会社。しかも経営層も外国人で公用語も英語だと聞いて、自分がやっていけるのか不安でかなり迷いました。
とはいえ、いつも最後は楽観的な性格が勝ち、「外国人と働くのも面白そうだな~」という軽い気持ちでエンワールドへと異動(半年後に転籍)しました。
エンワールドでの経験は、自分にとっては初めてのことばかりで圧倒されることが多くありました。
話す言葉も違う、営業成績に対しての評価の厳しさも180度違う、全員がコンサルタントとしてプロフェッショナルの意識を高くもって仕事をしていました。
また、これまで自分がやってきた人材紹介とは全然違うスタイルだったことも驚きました。
私は、人材紹介を行う上で自分が大事にしている信念以外はすべて捨てて、吸収できるものは吸収し、変化しながら成長を目指しました。
この時代は、中国人、アメリカ人、ニュージーランド人と違う国の上司にマネジメントしていただく機会にも恵まれ、視野が広がったように思います。
【キャリアの転機③】ベトナムへの駐在
エン・ジャパンからエンワールドへと転籍をし、コンサルタント業務にも慣れて仕事をしていた4年目の頃、また違う異動打診が私のところに来ました。
今度は、ベトナムにある子会社でチームの立ち上げをしないか?というものでした。
最初は、あっさりとお断りをしました。(笑)
当時、すでに30代半ばを過ぎており、身の振り方を考える時期だなと思っていたことと、ベトナムという国にあまり良い思い出が無く(昔、旅行にいって、食あたりで寝込んだ)、興味が持てなかったこともあります。
ただその後、経営層を含め熱心にこのポジションを勧めてくれたり、私も最後は楽観的なので(←またこれ!)、海外子会社でのマネージャーポジションに挑戦することにしました。
ベトナムに渡ったのは年末の2015年12月31日。
立ち上げを任されたベトナム北部にあるハノイという都市からベトナムでの仕事を開始しました。
人も、食も、言葉も、バイクの数も何もかも違う環境。
朝、アパートを出たらニワトリが道をうろつき、ちょっと道を歩けばバイクにひかれそうになるし、軽い気持ちで何か食べたら食あたりを起こす・・。
なかなか刺激的な生活環境でしたが、初めて任されたマネージャーという仕事で「早く成果を出さなくては!」と赴任の初月からがむしゃらに働きました。
1年目のハノイチームは何とか形にすることができたので、2年目は南部のホーチミン市へ異動し、そこでは15名の部下を持つという大きな役割にも挑戦しました。
任されている目標数字への到達が難しく、人生で初めてストレスで夜眠れない経験をしたのもホーチミンでした。ハノイと比較してスタッフの入れ替わりも激しく、全員が定着して働くためにはどうしたら良いのか、頭を悩ませました。
ベトナム人の上司や、優しい周りの同僚などのサポートもあり、ホーチミンのチームも最後は大きな数字をあげられるようになり、私はこのチームを別の日本人スタッフへ引き継ぐ形で、日本へ帰国。2年2か月の駐在経験を終えました。
【キャリアの転機④】駐在から帰国後の憂い、新しいジャンルの仕事へ挑戦
ベトナムから帰国したあと、私はエンワールドに戻り、転勤前に担当していた仕事に戻りました。
「さあ、また、多くの人の転職成功のために頑張ろう!」と意気込んで仕事をスタートしたのですが、心のどこかに「また同じ仕事に戻るのか・・」という気持ちがありました。
その思いやモヤモヤを抱えたまま仕事をしていたのですが、ある日、知り合いの人から「ある会社で新規事業の立ち上げをしているところがあり、新規営業ができる人を探している」とお声掛けをいただきました。
業務的にはITの営業だったこともあり、これまでとは異なるなーと思ったのですが、人の健康管理に関わる仕事であったことや、ITの仕事自体にも興味があり、自分のキャリアの幅を拡げる意味でも挑戦することにしました。
入社したのは、老舗の大手IT企業。
一緒に働く同僚も、今までとは全く異なるタイプの方々で、とても面白いなと思いました。
持前の柔軟性も発揮できていたと思います。
仕事内容は、「健康管理システムの法人営業」だったので、これまでとは異なる分野だったものの、人と関わって話すこと自体は好きだったこともあり、少しずつ導入先企業を増やしていきました。
途中、子供を授かったこともあり10か月ほど産休・育休を取りましたが、ワーママとして復帰し、基本的には在宅勤務だったので、フルタイムで働きました。
ただ、仕事を続ける中で私の中でどこか物足りなさのようなものを感じることが増えていきました。
システムの営業なので、企業の人事や総務の方とはコミュニケーションを取りますが、その先にいる従業員の方の顔が見えない。
私が営業したものは、みんなを喜ばせているのだろうか?
エージェントにいた頃は、直接的に人に関わって、その人の課題を解決することにやりがいを感じていたこともあり、仕事をすればするほど、この手触り感の違いを感じることが増え、「このままこの仕事を続けるべきなのか」と悩むことが増えていきました。
(※ITの仕事を否定している訳ではなく、私との向き不向きの話です)
一方で「小さい子供がいるんだから転職は無理だ」と諦めのような気持ちもありました。同じ会社にいる女性たちはみんな辞めてないわけだし、ここにいればいつか私の気持ちが変わるのではないかと思い込もうとしていましたが、やりたいことと現実のギャップを感じる心は、日に日に濃くなるばかりでした。
【キャリアの転機⑤】理想のエージェントであるミライフとの出会い。
40代にしてすっかりキャリア迷子に陥り、子供が小さいから・・と動くこともできず八方塞がり状態だったこともあり、お金を支払ってキャリアコーチをつけることにしました。
コーチとキャリアについての壁打ちをしているとき、
「自分はやっぱりキャリア支援に関わる仕事をしたいんだな」
ということにハッキリと気づきました。
どういう形で人材業界に戻るのか、
そして、「私はこの先の人生を何のために生きるのか」をしっかりと時間を取って考えたいと思い、転職先が決まってから辞めるのではなく、先に会社を辞めてキャリアブレイク(キャリアの空白期間を設ける)を取る選択をしました。
前職の退職日となる9月30日、私が受講中だった講座のグループワークに参加しました。人事や人材業界の方々とグループワークをしていて、私が何気なく「明日から無職になるんですよー」と伝えると、心優しい人達が「良かったら一緒に働くことを検討してみない?」と声をかけてくれて、そのまま数社の選考を進めることになりました。
自分が想定していたよりも早く、なし崩し的に転職活動が始まることになったのですが、
その際に私の夫が、
「ミライフっていう会社がめぐもんには合っていると思うから受けたら?」
と教えてくれました。
少し前に会社情報を見たことがあったのですが、その際はミライフ自体も採用活動をしておらず、私もそこまで調べずにいたのですが、もう一度ミライフのHPにアクセスしてみました。
「100%個人起点エージェント」
こんなことを堂々と書いていて、「え?うそでしょ」って思ったのですが、それができたら私の理想だなと思う気持ちがあって応募したところ、すぐに代表自ら連絡をくれて面接を受けることになりました。
代表のスケさんとの面接、ミライフは100%個人起点であること、それに共感したメンバーが集まっていることなど、会社のことを目を輝かせていろいろとお話してくれました。
次の週、ミライフのメンバーの方ともお話する機会をいただきましたが、皆さんそれぞれに個性は強いものの、根底にある「目の前の人の働く、生きるをHAPPYにしたい」という思いが共通していました。
おお、、、こんな会社ってあるんだなと驚くと共に、私もミライフの一員として仕事をしたい!と思い、ご一緒させていただく流れとなりました。
目の前の人の「働く、生きるをHAPPYにする」ために私ができること。
社会人としての人生も早20年となり、自分も長く働いてきたなーと改めて感じる今日この頃ですが、私も含め、キャリアにはストーリーがあり、そして全てが未来へつながっていきます。
ミライフでは「未来志向型の面談」を実践しており、相談いただいた方の理想未来を一緒に考えさせていただき、現在地を確認しながら、伴走させていただきます。
私自身40代も過ぎた身ながら、若い人も多いベンチャー企業への初挑戦なこともあり、毎日必死で吸収しておりますが、そんな自分の挑戦も誰かにお役立ていただけるようこのnoteを通して発信していければと思います。
自分自身の紆余曲折も試行錯誤もすべて、キャリア支援者としての糧となっているはずです。(そう信じたい・・)
今の仕事になんとなくもやもやしている
理想未来って何だろう?
この年になって新しい挑戦なんてできるのだろうか
子供や家族がいて、自分の仕事のやりがいを重視して良いのか
こんなお悩みお持ちではないですか?
みなさんが抱えるキャリア上でのお悩みを一緒に考えて、伴走していきたいと思っています。
ぜひお気軽にご相談ください!
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