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自分の歩幅、他者の歩幅

デザイナーとして、女性として、そして母親として生きるということ。
それがどういうことなのか、数年前からぼんやりと考え続けていた。

私は母親ではない。でも自分が親に育てられたこれまでの記憶を辿る限り、専業主婦の母でさえ大変そうだったのだから、働きながら誰かの母親を務めることは、きっと想像を絶する大変さなのだろうと前々から思っていた。

年齢的にも今のスキル的にも、キャリアはこれから。何なら年齢関係なく一生これからだと思っていそうな自分は、誰かの親になりたいと思ったことがない。周りの人にはそう言い続けてきたが、実のところ、その気持ちが0%だと言い切れる自信はなかった。
10%あるかないかくらいの気持ちをずっと持ったまま過ごしてきていたが、30代が近づいていることに最近意識が向くようになった。生物としての限界を考えると、子供を産むことができるのはせいぜいあと10年くらい。

これまではなんとなく逃げていられたけど、タイムリミットを迎える前にきちんと考えて、どちらを選ぶにしても後悔のないようにしたい。そして考えていく上で、似た状況の先輩の話を聞いてみたい。
そう思っていた矢先、この本に出会った。

彼女と同化することはできないけれど、その上澄みの上澄みをそっとなぞらせてもらい、自分の人生や価値観についてより現実的に考えるきっかけをもらった。
これはその備忘録である。

世の中は矛盾に溢れている

この本を一通り読んで一番感じたのは、あらゆるものが矛盾だらけだということ。それは人間の感情しかり、社会の構造然り。
というかそもそも、矛盾という概念もおかしいのだと思う。矛と盾。2つに分けるから、そのどちらにも含まれない"おかしい部分"が生まれるのだと思う。

完全に比べることはできないはずなのに、比べたり区別したりすることで様々な物事を整理し理解する生き物、それがヒト。
本当はグラデーションであるはずなのに、ここまでが赤、ここからが青。
線を引くことを完全にやめるべきと言うつもりはないが、自分(たち)が引いたということは忘れてはいけないと思う。それは"仮の線"であって、人によって違ったり、あるいは途中で動かしたり消したりできるものであるのだと思う。

"平等"の意識過剰

全ての人が平等であってほしい、そして自分も同じく平等でありたいと願ってきた私は、性別に関係なく、他の人と同じ量・同じクオリティで仕事ができるようになりたいと思っていた。そして、知識やスキルなど、他の人に比べて不足しているところは早く身につけて追いつかなければと焦っていた。
でも頑張り方を間違えたのか、自分の心身を壊してしまった。

最近やっと理解したのは、そもそも平等なんて存在しないということ。
例えば女性には定期的に体調の波があるし、女性に限らず、頭痛持ちの人、病気がちの人、あるいは性格の違いなど、様々な要素が複雑に絡み合っている。

やりたいこと、得意・苦手なこと、心身の丈夫さ。一人として同じ人はいないのだから、みんなと同じスピードで走らなきゃとか、置いていかれそうで焦る気持ちとか、そういうものは全部必要ないということに気づいた。
自分のペースで歩みを進められればそれで十分なのだと。

"みんな一緒に"という風潮、そう言いつつ他人よりも上にのしあがろうとする感じは、レッドオーシャンの世界で特に顕著だなと思う。
それに疲れてしまった。もうやめよう、と思うことがとても増えた。

とはいえ、周りを見て焦ってしまう自分もまだ全然いる。やめようと思いつつ、そういった風潮の世界で長いこと過ごしてきたから、みんな一緒の方が良い、寄り道せずにまっすぐ前に進むのが良いと無意識的に考えてしまう。小さい頃からマイペースで寄り道だらけの自分とは正反対なはずなのに、完全にやめるにはまだまだ時間がかかりそうだ。

自分と他者を切り離す:他者との同期をやめる

先述した"みんなと一緒に"をやめるために、自分と他者が違うことを改めて認識し、他者と比べる無意識の習慣から解放されることが必要だと感じている。
本文でも触れられていた内容で特に共感したのは、大きく2つあった。

一つ目は、人が感じる痛みの違い。
他者の心身の不調に対して「大したことない」「休めば良くなる」と言う人(あるいはそう思っている人)は一定数いると思う。自分自身も10年ほど前までは完全にそうだったし、他の人の立場になって想像するということをしたことがなかった。
腰を壊し手術をしたことで、あるいは心を病み仕事を休んだことで、前よりも他者の痛みや苦しみを想像することができるようになった。

本文にもあったが、痛みや苦しみは人それぞれであり、他者と比べられるものではない。人によって痛みの感じ方、痛みに弱い部分は違う。
誰かの痛みを完全に理解することは難しいが、それを想像しようとする姿勢や寄り添う心はなくしたくない。痛みを感じている本人の口からどう感じているかをきちんと聞くことが大切なのだろうなと思う。

二つ目は、"両立"の違い。
"両立"の定義も人によって違うということを、最近強く実感した。

自分の"両立"は、仕事だけでなく、料理をする、洋服のお直しをするなど、日常の時間もしっかり取れている状態。仕事とそれ以外、という区分で語られることが多いからこういう表現をするようにしているけれど、本当は仕事の時間も日常であるし、仕事も家事も全てひっくるめて"暮らし"だと思っている。双方が作用しあう関係が理想だ。
一方、コンビニのご飯で済ませて"両立"と感じる人もいるし、あるいはそもそも"両立"とは何かを考えていない人もいる。
"両立"できていないと気持ちが両立しない人、片目を瞑っていても平気な人。いろんな考えの人がいる。

どちらが正しい、間違っているという話をしたいわけではない。
自分の場合は、片目を瞑っていられる人がたまたま周りに多くて、その大勢のスピード感・価値観の荒波に揉まれ、溺れかけていた。
先日たまたまnoteの下書きを見ていたら、1年前からその違和感を感じていたことに気づいた。それを整理したり言語化する時間すら取れていなかったみたいだ。
違和感を無視してがむしゃらに働いたら、心身が壊れるのも当然だ。

自分と他者を切り離すことは、人との関わりを完全に断って一人になることではなく、無理に周りと足並みを揃えようとするのをやめることだと思う。
足並みを揃えようとしてダメになってしまったので、まずはそれをやめてみようと思う。

そして、何らかの理由で足並みを揃えたくても揃えられずに苦しんでいる人がいるなら、その声に耳を傾け、その気持ちに寄り添える人でありたい。

自分と他者を切り離す:適切な距離をあける

自分と他者を切り離すこと、もう一つ。自分と他者との距離を意識したいと考えている。具体的にいうと、人への過剰な信頼と依存をやめたいと思っている。

信頼しあう関係は大切だと思うし、自分も相手から信頼されていなかったら悲しいと思う。でも他者は自分ではないから、自分が想像している相手像と100%一致していることはまずないし、いつどのタイミングで相手の気持ちが変化しているか理解することは難しい。

そういう意味で盲目に信用するとある種依存的になってしまい、信用した通りではなかったときに心がポッキリ折られてしまう。
信用するけど他者は他者である、という、程よい割り切りと距離感を掴めるようになりたい。そうすることで、相手に負担をかけることもなければ、自分が傷つくことも少なくなると思う。

無視できない違和感、大切にしたい価値観

デザイナーとして、女性として、そして母親として生きるということを知ろうとして手に取ったけれど、それよりも、自分が生きていく上で無視できない違和感、大切にしていきたい価値観について考えさせられる本だった。

自分が持っている10%の気持ち。
それを整理したり、明確に言語化したりすることは結局できなかった。
ただ、子供を産むということは、自分の命や生活をかけてでも守りたい、愛おしさと尊さと、無限に多様な感情を抱くような存在ができるということなのだろうな、ということだけは理解できた。

かれこれ10年くらい考えてきていることなのだから、そんなにすぐに整理できるものではないのだと思う。
10%でも持っているということ、それを認識していること自体が大切なんだろうな、きっと。これからも自分のペースでじっくり考えて、いつか自分なりの答えが出せたらいいなと思う。

創作活動費として大切に使わせていただきます。