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アザレア(Azalea)の物語

最終章 自分はいない。

非二元との出会い。


自分探しで行き着いた先で、待っていたのは自分がいないだった。悟りを追いかけていたときに出逢った『真我の意識』は、まだ自分でしかなく、分離の状態だったと腑に落ちた。確かに『真我の意識』に留まれば、かなり楽にはなれた。だが、やはりどこかで満たされていない不足感は蠢く。それを隠して、体の力を抜き『真我の意識』に留まるよう努めた。これこそが分離を強める要因で、分離が苦しみの正体など気付かぬままに。

観るものと観られるもの。
正に二極。
自分と自分以外がある以上、一つではない。 これに自分=自我は気付けない。
自分とは、今より良くするためにここではない、何処かへと向かい続けるエネルギー。
理解ではない何かは反応すれど、何が起こっているのか分からない。『目が覚めている』と『寝ている』の隙間で、体の至るところに、電気のようなものが規則性なく走り、その部分が緩んでいく感覚と不思議なやり取り。日中では唐突に鼻血が出ることが増え、眩暈と頭痛が加わった。
『これはいよいよ死ぬかも』と考えが過ぎる。しかし、怖さや心配はない。むしろこれに抵抗がなくなっていく。代わりに、その状態を次男が心配し、検査を勧められた。結果は、多少の貧血はあれど、他は数年前の数値より良くなっている。正に健康そのもの。これで、肉体的な死ではないのが確定したと同時に、
自分が『消える』のだと確信した。

そんな矢先、YouTubeのおススメに現れた『非二元』の言葉が目に止まった。聞きなれない言葉だが妙に惹かれて、考える間もなく再生していた。
『全ては自分なしで勝手に起きている』
『自分はいない』
『悟りはない』
『悟る誰かはいない』
『起きていることしかない』
『ここでは何も起きていない』
など、多少の言葉運びに違いはあれど、毎夜毎夜繰り返された内容がスマホ越しに再生される。デジャブという言葉では簡易過ぎるが、その感覚に近い。
それまで知らなかった非二元だが、検索するとビックリするくらい出てきた。どれも同じようなことを言ってはいたが、違和感でしかないものが多く、最後まで観れなかった。それらとは対照的に惹かれたものは、隙間で起こっていたこと同じく、理解できない部分が多かった。

しかし夜中
『これは理解じゃない』と聞こえた。
理解じゃないなら、どうすればいいのか。
惹かれた動画を観る。するとそこでも、

『これは理解じゃない。
 理解できる誰かはいない』と言う。

堂々巡りかと諦めかけた時、
『一瞥は、私の不在で起こったことを、私が戻って来て所有しただけ。それはただのストーリー。それをできる誰かはいない』と、流しっぱなしにしていた動画から聞こえた。

つづく。

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