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はじめまして。大瀧めぐみと申します。

自己紹介ページをご覧いただきありがとうございます。

現在アラフォーの元まんが家、2児の母です。

文章は下手くそで絵で表現するまんが家になったくらいなので、少々読みづらいこともあると思いますが、ここまでの経歴を書きますね。

長いですが、読んでいただけると嬉しいです。

まんが家になりたいと言い出したのは記憶にないほど幼いのですが、周りの証言のよると3歳くらいのようです。

その頃の我が家は秋田のド田舎で食品の製造工場を大家族で経営しており、パートのオバチャン(つっても今の自分より若いのかもしれない)達や祖父母に溺愛され、歌を歌えば褒められ、お絵かきすれば褒められ、バブル景気もあいまって欲しいものは大体買ってもらい、そらあもう自己肯定感の高い女の子に育ちました。

幼稚園は年中さんから入ったのと内弁慶な性格だったため友達作りはやや苦手でしたが、お絵かきしていれば不思議と褒められ人が寄ってきてくれました。

小学校では自由帳にストーリー漫画(ネーム)を描きだし、6年生のお楽しみ会で有志一同と舞台化しました。

学級新聞には「スーパーはちゃめちゃマン」「スーパーめちゃくちゃマン」なる4コマまんがを連載(笑)

中・高校1年途中までは部活で忙しく漫画をかいていたかどうかは記憶喪失ですが、高1で病気で半年ほど学校に行けなくなり、せっかく時間出来たんだし・・・と、子どもの頃から愛読していた少女まんが雑誌に、初めてペン入れしてまんがを初投稿しました。(向かいの駄菓子屋で買った白いケント紙とかぶらペン1本で!あと黒のマッキー(笑))

それがいきなり一番下の賞に引っかかり。誰にも言わずに投稿したので、親は大変驚いていました。

これを機に部活を辞め放課後はまんがを描き、高2の2作目で一つ上の賞と、担当編集者がつきました。

東京の〇〇社△△編集部から秋田のド田舎の娘に電話かかってくるようになり、親の期待もでてきたのかそのあたりから漫画の画材や資料や、色々投資してくれるようになりました。

担当がついたのだからデビューもそう遠くないだろうと思っていたので、大学に進学して必要のない勉強に4年費やすよりも、まんが専門学校で1年間実践的な勉強をし、ガンガンまんがで稼ぎたい!と、親が大学行けというのも聞かずに仙台の専門学校に進学・・・今思えば親の言うこと聞いとけば良かった(;^ω^)

デビューはそのまた数年後・・・24歳までできなかったんですもの。

専門学校卒業後は、アパレルショップでアルバイトと漫画家アシスタントをかけもちしながら自分の投稿作品を描く・・という生活をしておりました。

24歳でやっとデビューし、読み切りまんがが数本雑誌に掲載されましたが、単行本はおろか連載も出来ぬまま、悩んでもがいて、ご縁あって結婚して、スッパリともいかぬままフェードアウト?

結婚の翌年、長男誕生。1年半後に次男誕生。

一見順風満帆ですが、長男が3歳になっても喋らない・眠らない・白いものしか食べない・起きてる時間はほとんど暴れてる。

・・・知的障害自閉症でした。

そこからは暗黒鬱々、人生で激動の育児10年。

寝る暇なし、座る暇なし、つーか子供達目を離すと命を守れない。

子供ら園に行ってても、自分疲れ果ててまんが読む力もねえ。

まんがと関係ないので育児ネタは端折りますが、ここ1~2年ほど少し時間出来てきて、少しずつパートと創作活動復活し始めました。

40数年生きてきて、色々な辛いこともあったけれど、まんがは度々私を救ってくれています。

今はストーリーを描くほど集中する時間は取れないので、オーダーの手描きイラストやアートやまんがのワークショップや講座をやっています。

10年間育児で浦島太郎してた間に、手描きまんがは少数派。デジタルまんがが主流となり、オタクでなくとも趣味でまんがを気軽に描く(しかも皆様お上手!)時代になったんだなあと実感しています。

そして浦島太郎の私もやっとこさ重い腰を上げ、「千里の道も一歩から」と名うってこれから自分のデジタルまんがへの道を記録していきます。

何か月も更新されなかったり、亀の歩みだなーと思っても、まあデビューまで8年かかったヤツだからのんびりなんだろうと、大目に見てやってください。

よろしくお願いいたします。




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