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早大生が在学中に子供を身ごもったときのこと③本当にそれでいいのかよ?

≪あらすじ≫
大学3年生の秋に子供を授かり、都会への就職を諦めて、地元で就活をすることに。地元のある企業の選考を受け、子供がお腹にいることを言えずにもやもやしたまま内定寸前まで行くが、ついにそのことを打ち明ける。意外にも採用担当者である部長から優しいねぎらいを受け、その翌日、社長から内定の可否を言い渡されることになる。

早大生が在学中に子供を身ごもったときのこと①卒論
早大生が在学中に子供を身ごもったときのこと②就活
の続きです。

内定

翌日、もう一度会社を訪れ、社長から直々に伝えられます。

ご事情は分かりました。
1つ内定があれば、あなたも安心でしょうから。内定を差し上げます。


たぶん、これはご厚意の、お情けの内定です。
感謝してもしきれないけれど、なんとも不甲斐なく、申し訳ない結果です。

でも、お情けが入社のきっかけであっても・・・
いや、だからこそ、ちゃんとこの会社のお役に立とう
と思いました。

他に選考を受けている企業もあり、就活を続ける手もありましたが、お腹も大きくなってきて、これ以上の活動は子供にも良くない。
こうして私の就活は、早々に終わりを迎えることになります。

部長にも、学生で子供をつくるような、いい加減な人間だと幻滅されても仕方の無いことですが、のちにR先輩に聞いたところによると、部長はその後も変わらずに、私に期待をかけつづけてくれていたそうでした。

子供が生まれて、子供と一緒の写真を送った時には

母になった女性には、母としての美しさがありますね。

と返してくださいました。

こんな状況の中で、救ってもらった上に、
「この人たちと働きたい。」
と思える人たちに出会えたことは、本当にありがたいことでした。

みんな第一線へ行ってしまう

ほどなくして、大学の学科の就活オリエンテーションで、アナウンスがありました。
「リクナビなどに登録をして就活している者は、いったん保留にすること。本学の本学科には、各企業から割当てたられた推薦枠がある。志望先の企業によっては、枠を通しての推薦となるので、おのおの研究室の教授に確認をとるようにー」

わかってはいたつもりだけど、やはりそうか、大学のみんなは、エスカレーターに乗って行ってしまう。

その後、仲間たちは全員が推薦経由ではないけれど、
パナソニック、ソニー、NEC、日立、ソフトバンク、○○総研、Yahoo!… など、名だたる企業へ内定が決まっていくことになります。
私のレポートを写して単位をとっていた、あの男の子たちも、私を置いて、遙か先の第一線へ行ってしまうでしょう。
大企業だけが正解ではないし、私が行くところもきっと悪いところじゃない。でも、いよいよ私だけ、同じ道を歩んできた仲間とは、違う世界へいくことになるんだ…と物悲しくなった瞬間でした。

本当にそれでいいのかよ

就活の終了を迎えるには、あまりにも早い3月頃でしたでしょうか、地元の企業に就職を決めたことを、当時人気だったSNSであるmixiに書き込みました。

しばらくして携帯が鳴り、そこには、ここしばらく見ない名前が表示されていました。

松原、お前、本当にそれでいいのか?

その声で思い出すのは、松田龍平を細身にして長髪にしたような面影。
1年生の時に辞めたサークル関係の、3学年上の先輩でした。

そんな簡単に地方の中小企業に決めてしまっていいのかよ。
そこ、本当に大丈夫なのか?
表面上だけいい風に言って、ブラックな企業もいっぱいあるんだぞ。
ちゃんとOB訪問いったのか?
ちゃんと他とも見比べて、活動したのか?

その、穏やかで淡々とした口調の後ろには、静かな憤りがありました。

先輩が、そう言ってくれるのと同じ気持ちが、本当は胸中にある…
私も、できることならそうしたかった…
本当は、みんなと同じように就活をして、スケールの大きい世界へ行きたかった…
思い起こしたくない感情がわき上がりました。

泣く泣く事情を説明しました。
子供ができたから地元に帰らなきゃいけないこと、それでも理解があって内定をいただけただけで十分だってこと。今はそこに、かけてみるしかなかったこと。

「そうか… わかった。それならそこで、がんばれよ。」

そういってもらい、電話を切りました。

もどかしい電話でした。
でも、すごく嬉しかった。
この人は本気で心配してくれていた。
私の未来を惜しんでくれていた。
疎遠になっていたのに、わざわざ電話をしてしまうくらいに。
先輩、気にかけてくれて、ありがとう。
私の代わりに憤ってくれて、本当にありがとう。

ベンチャーという道

「ベンチャー企業との交流を行う理系学生のグループを運営してて、イベントがあるから来ない?」
出産も終えた4年生のあるとき、卒論のために上京していた私に声をかけてくれたのは、サークルの友人でした。彼は私の事情を知っていつつ、気軽に刺激を受けられるように…と気にかけてくれたようです。
ベンチャー企業が今ほど乱立していなかった時代。そこにいた仲間たちは、敢えて大企業にはいかずに、小さくて厳しくても、自分の裁量の大きいベンチャーで挑戦するという選択肢を考えていたのでした。

20代後半の女性ナンバーツーが、
「ついていきたいと思える社長と出会い、ビジョンを共有して一緒に会社を育てている毎日が楽しい。毎日深夜までやっているけど、もっと仕事をしたい!理解のある夫が家事をしてくれるし助かってる。」
と語り、隣の女子学生の子が
「あこがれるな~」
と言っていたのを見て、
「私の20代はこんなにキラキラにはならず、深夜まで仕事もできず、早々に帰って子供のお世話だ。夫に家事も期待するまい。」
などと少し卑屈になる。
でも、ベンチャーという可能性が飛び込んできた瞬間でもありました。
もともと父が小さな会社を経営しているのを見て育ったので、大企業勤めよりも、自分で事業をやる方が、イメージがわく。
なんとなく、
「すぐにではなくても、いつかベンチャーを…」
と思い描くきっかけになりました。

「我慢」と思っちゃいけない

そのグループで出会ったうちの1人に、同じ歳の東大生の男の子がいました。彼もやはり家庭の事情で、本当に行きたかったベンチャー企業の内定を断り、地元で働くことを決めたのだそう。

似たような境遇の人も、少なからずいるものだなと親しみを感じながら、
「私は、就職できただけで十分だから、我慢しなきゃと思っている。」
という私に対して、

でも、我慢だと思っちゃ、受け身で卑屈になってしまうし、自分に言い訳をしてしまうから。僕は自分が決めたこととして頑張ろうとおもってる。お互い頑張ろう。

という彼。
いっぱい努力して、東大に入って、何にでもなれたはず。それが自由な選択肢を得られなくて、散々、悔しい思いもしただろうに・・・こう、すがすがしく言ってのける姿を見せられたのでは、見習わないわけにはいきません。
やらされ感や被害妄想、「仕方ないから」という気持ちが、まだ自分の中に残っていた。そんなものを排除して、自分事として目の前のことに取り組もうと、襟もとをただされるようでした。

能力を、誰かのために役立てる

怒涛の1年数か月を乗り切り、卒業式を迎えました。
当時の白井総長が壇上で祝辞を述べられます。

君たちは世界で0.2%*に入る恵まれた教育を受けた人たちである。
その能力を利己的な目的に使うのではなく、周囲に・世界に還元しなくてはいけない。学んだ人材を、あまねく行き渡らせ、各所で貢献することが本学の使命である。
(*実際に何%と語られていたかはちょっと記憶が怪しい)

いつもは右から左に聞いてしまうような、いわゆる「校長先生の話」が、こんなにガツンときたことが、いまだかつてあったでしょうか。

―私は、自分のために努力するという贅沢は十分にむさぼった。
今まではそれが生きる手段で、勉強して、自分が有利に有利になるようにと、上位に食い込むことに頭がいっぱいだった。
でも、この1年数ヶ月、痛みを感じ、人に助けられて生きてこられた私は、
これからもっと、人に優しくなること、誰かのために尽くすことを、学び、実践せねばならない。大企業の第一線で力を発揮できなくても、もし私に何か
持てる力があるのであれば、どんなに小さな場所でも、目の前の人たちのために役立てるのだ。―

これは、就職して以後も、卑屈になるたびに、自分に言い聞かせる言葉になりました。
都会と地方のギャップ、大学の仲間たちが活躍している企業との規模のギャップ、スキルのギャップ、同年代の中で自分だけ子育てをしているギャップ…
そんなものにぶち当たり、卑屈になるたびに、これを思い起こし、「今ここで自分がすべき役割は何なのか」という所に立ち返らせてくれるのでした。

***

そうして、いよいよ入社を迎えることになります。
あまりに早い別れが来るとは、つゆにも思わずに。(つづく)

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