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🌊海は、恐ろしくも愛おしいところ🏝️


私の両親は長野県の生まれ。
そして私は、埼玉県の生まれなので、海とはほど遠い人生のスタートを切った。

初めての海は、伯父が住んでいる湘南の海。
たしか、4歳のころ。
浮き輪でプカプカ浮いているだけだったが、塩水をしこたま飲んで大泣きしたのを覚えている。

その後、小学1年生ころに、幕張の海へ行った。
波打ち際を歩いただけだったが、ところどころ透明なクラゲが落ちていて、ぷるぷるとふるえながら日を反射しているその姿が異様で、
海は「怖くて不気味なところ」だと改めて思った。

砂の感触も、水に濡れるのも大嫌いな子供だったし、帰省も生活も海なし県だったので、成人するまで海に浸かることはなかった。


23歳の時だったろうか。

オーストラリアにいる友人を訪ねる機会があり、滞在中の移動手段が限られたので、あちこち観光するのは難しい日程だった時に

ふと思い立って、スキューバダイビングのC級ライセンスを取ることにした。

なぜ、海が好きでもないのにスキューバダイビングにしたのかと言うと、生き物系番組が大好きだった私は、魚や海の生き物たちの映像をよく見ていて

オーストラリア=グレートバリアリーフの魚たちを見に行きたい!というストレートな動機を持っていたのと、暇つぶしになるのと、スクールが近くて予算内だったから、という理由。

クラスのインストラクターは日本人で、受講者もほぼ全員が日本人。2日間座学と屋内プールでの実習があり、最終日に船で外洋へ潜水実習に出るプログラムだった。

前日、インストラクターのお姉さんは言った。

「船が揺れるから、酔い止めを飲んでいったほうがいいよ」と。そして、こうも言った。「寝られるなら、寝ていったほうが楽だよ」と。

このときは正直、グレートバリアリーフ=サンゴの海=穏やかでキレイ という思い込みがあったので、揺れると言っても、山道の車の揺れくらいのものを想像していた。

それでもまあ、私は乗り物に弱い方なので、きちんと酔い止めを飲み、当日に臨んだ。

いざ乗船、出港し、1時間ほどで実習ポイントに着く、と聞いたのだが。

このときの揺れを例えるなら、
ジェットコースターに乗って、一番最初の一番デカい山へ上がる時にかかる重力と、ニ番目にデカい山から落ちるときに内臓がフワッと浮く無重力が、ずーっと交互に来る感じ。

漁師や船乗り、マリン系スポーツをし慣れている人ならともかく、普通の生活を送っている人ならオール◯ロするんじゃないかと思うような過酷な体験。

一緒に実習した日本人の男の子はぐったりしてしまい、ひたすら「帰りたい」とつぶやき、◯ロを吐きまくっていたのだが。

なんと、私はそんな船上で、ガイドのお姉さんのアドバイス通り、眠りこけて過ごしたので、実習ポイントに着いたときはすこぶる元気だった。

そして、ボンベを背負って海へ潜ってみると、

激しい波の動きで海水は濁り、体はユラユラ動きっぱなし、視界はほぼ遮られていて魚もサンゴもどこへやら。

場所は移動せずに、決められた時間を海底で過ごし、課題をクリアする実習だったので、潜っている間はただただ、砂と濁った水と、海水の揺れだけを感じて過ごさざるを得なかった。

しかし、このときに私は、ただ海底へ下りてじっとしているだけなのに、自分がどうしようもなくちっぽけな存在で、海はとてつもなく広くて恐ろしい存在であることを、ひしひしと感じた。

背負っているボンベの酸素がなくなれば、簡単に死が待っている。
大量の海水は巨大な壁となり、簡単に私の体を押し流すことも、押しつぶすこともできる。
自分が、陸上でしか生きていけない「人間」という生き物であることを実感させられた。

怖かった。でも、自然のエネルギーと生まれて初めて1対1で対峙して、興奮もしていた。

それまで私が接していたのは、人が扱いやすいように整備し、飼いならされた自然か、ブラウン管越しに眺めるだけの自然で、自分のうすい皮膚一枚を隔てたところで、もろに海そのものと接したことで、初めて「自然の恐ろしさと深さ」を教えてもらった気がした。

海から上がり、船の上から波をのぞき込んだら、鮮やかなオレンジ色のサンゴと青色の小魚の群れが見えた。

海の中では見られなかったのに、海面からのぞき見たそのサンゴと魚の群れは、20年経った今でもくっきりと覚えている。


その後、今の夫と結婚し、夫の実家がある内房へ越してきた。

我が家から歩いて1分のところに漁港があるので、海はとても身近な存在になった。


内房で暮らし始めて一年ほど経ったところで、「東日本大震災」が起きた。

避難中の車のカーテレビで、非現実すぎて現実感をともなわない巨大な波頭が、東北の海岸へ向かっていく映像を眺めながら、震えが止まらなかった。

内房は、外房ほど高い波は来なかったが、海に近い我が家は、近所の小学校へ避難した。避難するときに川の近くを通り、川の水が干上がったのかと思うほどごっそり引き波に持っていかれ、川底の石がごろごろと剝き出しになっている様は、まるで「賽の河原」を目の前にしているようで、何かとてつもなく恐ろしいことが起こっていると実感させられた。

そして、それから連日のように津波に呑まれた街と、人の様子が報道され続け、余震によりまた津波が来るかもしれないと、海には近づかなくなった。


東日本大震災から1年後、初めての子供が生まれた。

初めての子育ては、おっぱいやオムツの失敗の連続で、とにかく眠れなくて、はじめの三ヶ月はつらすぎて記憶が飛んでいる。

そんな時、まだ歩けもしない幼子を抱いて、海を見に行った。

泳げる時期ではなかったけれど、抱いたまま、小さな足をちょこっと波にタッチさせてみた。

すると、赤ん坊が嬉しそうな笑い声を立てた。そして、何度も波タッチをせがんでは、楽しそうに笑い、手足をばたつかせた。

そのときようやく、美しいけれど恐ろしいと思って避けてきた海が、身近な存在に戻ってきた。


それから10年が経ち、生き物の面白さと水遊びの楽しさを知った子どもたちを、休日になれば海へ連れて行くのが当たり前になった。

危ないこと、恐ろしいことへの知識や経験はきちんと伝えつつ、

楽しめるところは五感を使って目いっぱい楽しむ。

子どもたちが私のもとに生まれてきてくれなければ、ここまで海にふれあい、親しむ機会はなかっただろう。

海に生きる命の数々を、ここまで愛おしいと思うこともなかった。
子どもたちと見つけ、生まれて初めて見たり触ったりした海の生き物は、忘れられない。
私自身が、「海と共に生きるバージョンの子供時代」をやり直しているかのようだった。


私を親として選んで生まれてきてくれた子どもたちに、

願わくば、地元の海を、体じゅうで覚えていて欲しい。

そして、海からもらったものが、これからの人生を支えてくれることを祈って止まない。

あなたたちが自立するまで、あとどれだけ一緒にいられるか分からないけれど。

時間の許す限り、楽しい「海の思い出」を、たくさん共有したいと思う。


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