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書籍紹介『ニューロダイバーシティの教科書』

『ニューロダイバーシティの教科書(村中 直人)』という本の紹介です。

ニューロダイバーシティってなに?

ニューロダイバーシティという言葉をはじめて耳にされた方もいらっしゃるかと思います。

出版社の金子書房より内容説明を引用します。

 neuro(「脳・神経」)、そしてdiversity(「多様性」)。
 この2つの言葉から生まれたneurodiversity(ニューロダイバーシティ)は、「脳や神経、それに由来する個人レベルでの様々な特性の違いを多様性と捉えて相互に尊重し、それらの違いを社会の中で活かしていこう」という考え方であり、社会運動を指す言葉です。
 自閉症スペクトラム障害をはじめ発達障害と呼ばれる現象を、能力の欠如や優劣とは異なる視点、意味で捉えなおすための言葉であり、そしてさらには「すべての人の脳や神経の在り方」がその対象となる裾野の広さを持った言葉でもあります。
本書は発達障害に関わる支援者や教育者はもちろん、当事者やそのご家族、そして「多様性尊重社会の実現」に関心を持っているすべての方に「ニューロダイバーシティ」という人間理解の新たな視点をお届けする入門書となっています。

ニューロダイバーシティとは、neuro(「脳・神経」)、diversity(「多様性」)を組み合わせた造語であり、「脳や神経、それに由来する個人レベルでの様々な特性の違いを多様性と捉えて相互に尊重し、それらの違いを社会の中で活かしていこう」という考えを含む言葉です。

今の世の中のシステムあるいは文化がどうやってつくられたのか

この本の言葉を借りるなら、今の世の中のは神経学的多数派の人たちが設計した世の中です。神経学的多数派とは、いわゆる普通とされる人です。普通とはいっても彼らには生まれつき特殊な能力があります。

生後半年ほどのの赤ちゃんをイメージしてみてください。周りに好きなおもちゃが飾ってあったり、心地よい音楽が流れたとしても、あるものが接近してくると、赤ちゃんはそれにすっと視線を移し、凝視します。そのあるものとは・・・「お母さん」です。

「なんだ当たり前じゃないか」と思われるかもしれません。しかし、考えてみればモノよりもヒトに強烈に引かれるシステムを、生後間もない赤ちゃんの脳がすでに持っているのです。そして、このヒトへの興味関心はその後も絶えません。よく空気を読む読まないといったことも言われますが、今の社会はそういった共感性や社会性という能力を持っている人、神経学的多数派を前提とした社会になっています。

もちろん個人差はありますし、それこそグラデーションのように多様性があります。コロナ禍でのリモートワークに快適さを感じる人と、ヒトと直接会って話ができない苦痛を感じる人の違いなんかもそこにあるのかもしれません。

また本でも説明されていますが(この赤ちゃんの話も今からの例え話も本に詳しくわかりやすく解説されています)、「翼が生えた人がスタンダードな世界」を想像してみてください。あるいは「眼鏡の発明されていない世界」でも構いません。

僕たち自身はそのままで変わらなくても、「翼が生えた人がスタンダードな世界」にいけば、きっとみんなが空を飛べるために建物の玄関は2階以上になるでしょうし、交通機関も今ほど発達しないでしょう。そうなると僕は他の翼が生えた人と同じようにスムーズには移動できない障がい者になってしまうかもしれません。「眼鏡の発明されていない世界」で、今のままの文字の大きさだと大半の人が識字に苦労するはずなので、文字の大きさ、地図案内、お店の看板などのあり方も今とは変わってくるはずです。

あまり上手な説明ではなかったかもしれませんが、なんとなく今の社会のシステムが多数派の原理によって形づくられているということがおわかりいただけたでしょうか。

脳・神経の違いが生むことなる文化という視点

ニューロダイバーシティという考え方は、ASD(自閉スペクトラム症)の当事者の方が生み出した言葉です。そのASDの方は、神経学的少数者、ヒトよりもモノに対して意識が向かう認知を持っていると言えるかもしれません。本の中では、そんなふうにヒトよりもモノへと意識が向かうことや、モノへの感覚の過敏さなど神経学的多数派との違いが丁寧に説明されています。

また実際にASDの方々と接した経験のある方は彼らのもつ独特の「こだわり」を聞いたり見たりされたことがあると思います。周りの多数派の人からは「訳がわからない」と思われるそんなこだわりも、その神経学的少数派な彼らのモノの見方や感覚の過敏さなどの視点に立ってみれば、その理由を通訳できます。

従来はそのような違いを、神経学的多数派の見地から「人に注目する」というあるべき機能がない欠損、欠如と捉えることが多かったでしょう。そうではなく「注目が向かう先は何が正解で適切かというのは、価値観や文脈に依存する文化の問題だ」と捉えるのがニューロダイバーシティの視点です

例えばASD的な知覚・認知は、「(多数派と違って)ヒトに関心を持たない、字義通り、辞書通りに言葉を使用して文脈や行間の意味を読み取れない、空気が読めない」と捉えるのではなく、「モノに対して興味関心を持ち、字義通り、文字通りに言葉を使うことで、この世界をできるだけ正確に明確に記述しようとするように言葉を使う」という価値観、文化だと捉えるのです。

もちろんASD以外にも、全ての人に脳・神経の違いはありますし、あらゆる人にとって当然で当たり前の感じ方や価値観はありません。それらの知覚・認知の違いはグラデーションのように多彩なはずです。

通訳者あるいは翻訳者として

僕自身は「本棚に並んでいる雑誌や漫画の巻数が順番に揃っていないと気になる」ような人間です。かといって初めて訪れた企業な友人の家では、本棚を並び替えたい気持ちを我慢できる程度でもあります。なにが言いたいのかというと、少なからずASD的な傾向を持っているのだと思います。

だからなのか、それとも支援学校でASDやADHDの子たちとたくさん出会ってきたからなのか、その特性について学んできたからか、周りの人の「なんであの子はこんなことをするんだろうか」という呟きに「それは●●だからだと思いますよ」と答えたり説明したりすることがありました。

本書では、そのような脳・神経学的な文化の違いを超えて繋ぐ、通訳者、あるいは翻訳者としての役割を支援者や教育者が担うことの大切さについても語られています。実際に今の学校という機関において、学び方の多様性という視点は欠けている部分があると思います。なぜ漢字はドリルに書き取りを繰り返して、九九は「はっぱろくじゅうし」と唱えて覚えるものだとされているのでしょうか。人によって得意な認知や理解の方法は異なるはずです。

ちょうど、最近、村中先生がつくられた「#私の情報処理の勝ちパターン」で検索すると、認知の多様性を発見できると思います。

そんな学校現場において(それ以外の場所でも)、通訳者あるいは翻訳者という役割は必要とされています。もちろん素晴らしい通訳者あるいは翻訳者をされている尊敬すべき同僚の方はたくさんいますし、自分もそうでありたいなと思います。そのためには、様々な脳・神経学的な知覚や認知に基づく特性を理解した上で、相手を知りたいと思い、関わりの中で経験を重ねることが必要なのでしょう。

そんな通訳者あるいは翻訳者となるため、このニューロダイバーシティという考え方やその根拠を学ぶのにおすすめの本です。


著者の村中直人先生は心理士として、Twitter(@naoto_muranaka)ブログを通じてASDやニューロダイバーシティ関連の情報を発信されています。よければ覗いてみてはいかがでしょうか。



表紙の画像はAmazon.co.jpより引用しました。