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想像力をともなった倫理

倫理というのは、個別具体的な状況での振る舞い方に関することです。だから、「ウソをついてはいけません」という指導は、道徳的価値としての「誠実」を伝えるためならあり得るかもしれませんが、「いつでもどこでも、ウソをついてはいけません」となると、急に「胡散臭く」なってしまうのです。そういう「臭い」は低学年の子どもでも察知することができてしまいます。

イマニュエル・カントという哲学者は「いつでもどこでも、ウソをついてはいけません」と言ったことで有名なのですが(このように「いつでもどこでも守るべきこと」を「定言命法」と呼びます)、それを有名にしたエピソードとして、同時代の哲学者であるバンジャマン・コンスタンとのやり取りがあります。コンスタンは、カントの「嘘に関する定言命法」を指して、例えば、殺し屋から逃げてきた人を家で匿っていたとして、家にその殺し屋がきたら、あなたは「(嘘をついて)知らないと言う」か「(正直に)匿っていることを伝える」の二択はどちらが正解なのだろうか、と問いかけます。カントの定言命法に従えば、殺し屋に対して正直に匿っていることを伝えることになりますが、これに違和感を覚える人は多いでしょう。つまり、コンスタンはカントの定言命法を批判したわけです。一方、カントの立ち場に立てば次のようにも言えます。

「嘘をついて、殺し屋があなたの家から出て行ったとして、あなたがそのやり取りをしている間に(あなたの知らない間に)、逃げてきた人は別の場所へ逃げていて、あなたの家の近くで殺し屋に捕まったかもしれない。嘘をつくことが、その人を必ず救うことにはならない。」

カントの立場に共感できない人も、これを聞くと少し悩んでしまいますよね。たしかに、「嘘をつく」ことと「その人を救う」ことに因果関係は無いというカント側の主張にも一理あるように思えます。

カントは続けます。

「例え、友人の命が失われることになっても、嘘は許されない。嘘は義務一般の最も大切な部分に対する不正になる。嘘は、誰かに不法を犯すよりもはるかに悪いことである。」と述べ、「嘘は、仮にそれが善意によるものであっても法の根源を蔑ろにするものであり、人類一般に損害を与える」とまで言います。(以上、堤林剣 2002論文より)

カントとコンスタンの議論については、カントを擁護する立場の人は少ないかもしれません。しかし、カントにしろコンスタンにしろ、私自身の浅い認識を深くしてくれ、悩ませてくれるなと感じます。特にカントの論は、これが何百年経っても、こうやって引用されるくらいの深さがあります。

このカントとコンスタンの「嘘に関する話」には、さらに様々な議論がありまして、例えば、「嘘をつかずに、やりすごす」というのもあります。「あなたが探している人は、さっき家の近くで見ましたよ。」と言えば、「さっき見た」というのは事実なので、嘘をついていないということになりますが、この言い方ならば、殺し屋は「この家で匿っている」とは捉えにくいから、正直に伝えるよりも良心の呵責が少ない、ということですね。

さて、この話の広がり方を支えているのは、間違いなく「想像力」ですね。物事を広く深く捉えることができる知性を感じます。そして、そのような想像力こそが倫理には大切な要素なのです。

以下は、哲学者ジョサイア・ロイスの言葉です。

あなたは、(あなたの隣人の)考えや気持ちをあなた自身のそれとはいささか異なったものとみなしている。あなたは言う。「隣人の痛みは私の痛みとは異なっており、私の痛みに比べればはるかに耐えるのが容易なのです」と。あなたの目に映る隣人は、あなたほど生き生きとした存在ではない。・・・ぼんやりとそして何も考えず、隣人のことを分からぬまま見ようともせず、ともに生きている。あなたは、(隣人を)自我をまったくもたぬひとつの物となしている。

『哲学の宗教的側面』 ジョサイア・ロイス著 1885

私たちは、子どもたちを、上記引用における「隣人」として接してしまってはいないでしょうか。

ある年の「不審者対応」の避難訓練で、「不審者の第一発見者」の役をしたことがありました。不審者役の警察官の方は迫真の演技で、さすまたを向ける僕に対して「なんだよ、こら!」、「殺すぞ、おら!」などと怒鳴りつけてきます。結局、それはパトカーが到着するとされる5分間くらい続いたのですが、その5分間にも渡る「罵声」が、どれほど僕の心を疲弊させたか。もちろん、演技ではあるのです。それはわかっていても、「大人の怒声」というのは、人の心にダメージを与えるのだなと身に染みて実感させられました。

それからというもの、校内での子どもに対する教師の「怒声」が気になって仕方がありません。こちらは当然「訓練」ではありません。生身の大人が、弱者である子どもたちを「怒鳴りつけて」いるのです。もちろん、その教師から言わせれば、子どもたちにも非があるのでしょう。「私だって叱りたくて叱っているわけではない。心を鬼にして、その子のために叱っているのだ」と答えるかもしれません。

でも、そういうことを言う、まさにそのような時に「想像力」が必要なのではないでしょうか。その子は、その時間にどれだけのダメージを負ってしまったのか。それは、本当に子どもがしてしまった「非」と釣り合うものなのか。

忘れ物指導でも「想像力」が欠けてしまうことはあると思います。
忘れ物をよくしてしまう子どもは、毎日のように忘れ物をしてきてしまいます。こちらもはじめのうちは優しく諭していても、それが連日にわたると流石に堪忍袋の尾が切れてしまって、という事例は現場にはたくさんあると思います。
しかし、当然のことですが「わざと忘れてくる子」なんて一人もいません。もしそんな子がいたら、それは「忘れている」わけではなくて「あなたを困らせるため」の行動ですので、別の処方箋が必要になります。だから、その子は「忘れたくは無いのだけど、忘れざるを得ない」ということになるのです。

これに違和感を覚える人は多いと思います。「我々大人だって忘れることはある。でも、大事なことを忘れないためにスマホのリマインダーなどを使って対応している」ということですね。つまり、子どもたちの「忘れ物」に対して怒っているわけではなく、連日の忘れ物にも関わらず、「何も対策を講じていないこと」に怒っているのだ。

忘れ物を連日してしまう子というのは、「何も対策をしていないから、繰り返す」という構図はたしかにその通りなのです。しかし、あなたの目の前にいるのは「子ども」なのです。まだまだ「未成熟」な子どもなのです。だから、「教育をしているのだ!」という反論はぐっと堪えていただいて、少し想像力を広げてみましょう。

例えば、その子の家は、父子家庭で、父親は夕方から朝方までの勤務で子どもとはあまり顔を合わせられない。家の中はグチャグチャのゴミ屋敷状態で、何がどこにあるのかは、誰も把握していない、かもしれない。「整理整頓して片付ける」ということが「どういう状態なのか」を経験したり体感したりしたがことがない、かもしれない。足りない筆記用具を買ってもらえる環境には無い、かもしれません。そんな極端な事例ではなくても、それに類するような状況であることは、一見してもわかりません。家庭環境はブラックボックスですから。わかるのは、目の前の子どもが「忘れ物を連日繰り返す」ということだけです。

だから、「想像力」が必要なのですね。
左利きの人が駅の改札で苦労していることを多くの右利きの人は知りません。
腰痛持ちの人が長い会議の後に痛みで苦しんでいることは当事者以外、あまり知られていません。
女性の人が、女性という理由だけでどれだけの不利益を被っているのかは、男性である僕には想像もつきません。

子どもという弱者と関わる、大人であり強者である教師こそ、想像力を踏んだんに行使して、倫理観を発揮していかないといけないのです。