見出し画像

ノートの使わせ方 ~ノートはなんのためにあるのか~


「わかった」は揃わないのに・・・

 「できた」を揃えることはある程度は可能です。それは「できた」がテストなどで測定可能な部分があるからです。それに対して、「わかった」を揃えることは不可能です。理解というのは人によって異なりますし、そもそもそれを揃えることにデメリットはあってもメリットは感じません。考え方は人によって違う。この多様性こそ学びを広く深くするためには必要なのです。

 しかし、これは学校の授業の悪癖といいますか、どうしても子どもたちの「わかった」も揃えたがってしまいます。例えば、ノート指導はその典型だと思います。

 ノートをどうして書くのでしょうか。ここにはいろいろな意味があると思います。忘れてしまうので書き留めておくためだったり、自身の考えを記すというアウトプットの場であったり。しかし、一般的な授業を覗いてみると、まだまだノートというのは「黒板の内容を写すため」に使われていることが多いと感じます。

「教育は自分が受けてきた教育の再生産である」

 この言葉は教員をしていく中で、自戒の念として忘れないでおきたいなといつも感じています。先生たちは「自分が受けてきた教育」をそのまま「授業の当たり前」として、してしまってはいないでしょうか。自分が受けてきた授業においてノートの使い方が「黒板の内容を写す」であったとしても、その活動の意味については常に考えておきたいのです。

 僕は「黒板の内容を写す」という「視写的活動」にはデメリットが多いと感じています。それは、形式的な学習活動になりがちで、子どもたちの「わかった」を助けるものでは無いからです。むしろ「わかった」を阻害するとさえ感じます。

 子どもによっては「視写的活動」に多くのエネルギーを割かれてしまい、「わかった」の余裕が無くなってしまっていることが教室ではよくあります。

「できた」けど「わかっていない」

 「きれいなノート」は「できた」けど、内容は「わかっていない」。僕も始めはこの事態が信じられませんでした。ノートをきれいに書くことが「できる」ならば、「わかって」いると誤解していたのです。でも、両方に相関関係はあっても、因果関係は必ずしも無いみたいです。つまり、「わかって」いなくても、ノートを書くことは「できて」しまうのです。このことを学校の先生はついつい忘れがちになってしまいます。だから、ノートを集めてそれを「評価」して満足してしまう。

 この「ノート評価」という教育実践にも大きな弊害があります。子どもたちの思考ツールであるノートに先生が評価を加えることでノートを書くという行為に先生が介入してしまいます。ノートを書くモチベーションが自分の理解を助ける「わかる」ためから、「先生に認めてもらう」へ変質してしまうのです。そうなると、僕の経験上、そのノートはどんどん華美になりがちです。いろいろな色で彩られた華美なノートが「できた」ことで満足した子どもが「わかって」いるかは、やはりわかりません。

 聞くだけで理解できる子も、書かないと理解できない子も、自分の書きたいところだけ書けば理解できる子も、授業内容をまとめ直して理解できる子も。子どもたちによって様々な理解の仕方があるということを教員側が想定しているだけで、学びの多様性は随分と保証されるはずです。